車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

初 食を語る

2018年05月26日 20時33分58秒 | 日記
スポーツ活動を行うにあたって、食の重要性は言わずと知れたこと。

いや、なにもスポーツ活動に限ったことではなく、生物としてその生命を維持していくという時点で最重要課題となる。

でも、便利な現代。

物も情報ももの凄い数が存在するので、逆に僕らはその中から選択し生き抜いていかなければならない。

それは自分自身の為だけでなく、次の世代、またその次の世代の為でもある。



冒頭からスケールの大きな話になっちゃった(笑)



まぁ、僕はこれくらい「食」について関心度が高い、と思ってください。



なぜそうなのか?



実は、僕はずっと飲食業(フランス料理)に従事していました。

車椅子になってからも7年間現場に出ていましたし、それ以降も飲食業に携わっていました。

僕はキュイジニエ(コックさん)ではなくずっとサービスですが、必然的に食材や調理の知識は高まっていきますし、それと同時に食という「文化」を学んでいくことになりますので、洋の東西を超えて「食」全般に関心が高まっていったというわけです。

かつて共に働いた料理人で、フランスのミシュランで星を獲得している友人もいれば、世界的に著名な「農夫」にも親しくしてもらっているし、フランスの3つ星をはじめ著名なレストランやパティスリーで修業してきた仲間も多く、そのみんなが国内外で活躍しています。

ですので、食に関する情報も多く集まりますし、その関心度の高さは現在進行形。食を学ぶことは僕の生涯学習、ライフ・スタイルでもあります。



それらの知識や情報を踏まえた上で、自身のスポーツ活動における食生活をより充実させていきたい。より効率よく行っていきたい。

それをスキルと考えれば、活かさない手はない。

これまでは「食べる為に生きるのか、生きる為に食べるのか」を考えていて、食べることを楽しめなければ人生そのものが楽しめない!というのが持論でした。

であれば、食べたい時に食べたいものを食べるからこそ幸せなのだと考えていたのだけれど、スポーツ活動を行っていくうちに自分の中で食に対する意識が変わっていきました。

もちろん「食べたい時に食べたいものを食べるからこその幸せ」という考えに変わりはありませんが、スポーツの世界においては違った角度で食の重要性を考えなければならない。

考えている人とそうでない人では結果も大きく異なってくるものだということを認識し始めました。

人間の体は食べたもので出来ている。

スポーツ選手の体も食べたもので出来る。

何も考えずに食べたいものだけを食べるのか、食もマネージメントして活動全体をより生産性高く行っていくのか、すべきこと、歩むべき道は自ずと知れている。

素材の組み合わせや相性、どれくらいの温度でどのように変化するかなどは知識として少なからず持っているつもり。でも素材の持つ栄養素については逆に無知でした。

どういう栄養素がどういう働きをするかなど、タイミングなども含め摂取すべき栄養素、素材を考えて食事を取る、調理をするということに最近は新たな楽しみを覚えています。

これは食に携わってきた経験による僕の財産。

フィジカルやテクニカルで劣る部分をそういう点でリカバーし、さらなる活動の糧と出来る自信があります。



医食同源。

昔から言われること。

欲しいものが何でも手に入り、また食事を取らなくてもサプリメントなどで求める栄養素を摂取できる現代。

だからこそ、この時代に生きる僕らはもっと考えて、知恵を絞り、食を考えていかなければならない。



それは栄養面だけのことではなく、添加物等の及ぼす影響も意識して食事をする必要があると僕は考えています。

僕は別にオーガニック信者でも無農薬推進派でも何でもない。

農薬の存在はむしろ肯定しています。だってそのおかげで人類は食料を安定的に確保できるようになったわけだし、その結果が今の社会を築いてくれているのだから。

だけど、自分が口にするものは知識を総動員して選ぶ。

健康の為といえばそうなるけど、でも一番は競技活動の為。

繰り返しますが、人間の体は食べるもので出来る。

何を食べるか、それが結果的にその後の道を大きく分ける。

きちんとした食事をすれば、身体の栄養は摂取出来る。

そして楽しく食べれば心の栄養も取れる。

さらに、頭を使って、考えて食べることで頭脳も鍛えられると思う。

これは大人もそうだけど、むしろ子供の食育に必要不可欠な要素だと思います。

今は考えずに出来る食事が多いと言われるけれど、それが頭の回転力や思考能力に影響するという話も聞いたことがあります。

白ご飯を数品のおかずで食べるのか、おかずがご飯にのった丼物で食べるのか、同じものを口に運ぶにしても頭の使い方が全く異なるので、そこで養われるものの差は大きいのではないかと言うのです。

お茶碗とおかずの器が別々なのか一緒なのか、それも差を生むものと僕は考えます。

また、色彩感覚なども幼少期の食卓から養われるというし、3時のおやつをお母さんが作る家庭から反抗期の非行は出にくい、さらには、家族で会話と共に食卓を囲むことが及ぼす影響力など、ただ身体に栄養を摂取するだけでなく人間そのものを形成していく上で「食」というのは最も重要な行為だと僕は考えています。

だからこそ、スポーツ活動を行うにあたって、持てるものを最大限に活かし、ほんの少しでもパフォーマンスの向上に役立てるように心掛けていなければならないと自覚しています。



食の話をしようとすると卓球以上に長くなるので、そろそろまとめておきましょう(笑)



余談ですが、僕は海外を含め遠征先での食事をすごく楽しみにしています。

それこそ料理には「文化」が凝縮されているから。

どういう食材が使われ、重宝され、何がどのように提供されるのか、卓上の演出やサービスの習慣、アルコールを含む飲み物はどうなのか、なぜその食材がそこで多く使われるのか、そこには気候風土のみならず歴史的な背景も必ず存在しています。そうした「文化」をこの目で見て触れることに僕は人一倍感動を覚えます。

卓球以外でも学ぶことが多くあるので、その点でも僕は人一倍幸運だと思いますね。



何をどう食べるか。

どの栄養素をいつ摂取するか。

身体の為に、パフォーマンスの為に、それは今の僕にとって最も大切なこと。

でも、それと同時に「心の栄養」を摂取することも僕の大きなテーマです。

心の栄養なくして身体の栄養は無い。

思想の健康は肉体の健康に勝る、ですから。

そういう点で、僕は人一倍食全般への関心は強いと思います。

ちなみに、「心の栄養」の摂取において僕が大切にしていることは、「何を食べるか」よりも「どこで食べるか」であり、さらにそれよりも重要なのは「誰と食べるか」だと思います。



今後は、そんな僕の視点で現地の食レポもここに加えていこうと思います。

いつも以上に長くなっちゃった(笑)

大会前・大阪合宿

2018年05月21日 19時09分21秒 | 日記
を行ってきた。

といっても僕にとっての大会前合宿なのだけれど、主催のチームにおいては定期練習会となる。

土日の2日間、朝から晩までみっちり練習。

いつになく汗をかき、身体を動かせていることを自分自身確認出来た。



東京在住の僕は金曜日にいつものメニューを消化。

午後の練習を終えてからその足で大阪へ向かう。

国内の移動は基本的に車なので、東京から大阪までは6~7時間を見る。

なので金曜日の練習はちょっと早めに切り上げて移動。

大阪へは予定通りの時間に無事到着。

その日はしっかり休んで、土日にみっちり練習。

日曜日は夕方で練習は終り、その後はみんなで食事に行くのだけれど、僕はそのまま帰るので食事会はパスさせていただき帰路につく。

そして深夜に無事帰宅。

だいたい僕の遠征はこんな感じ。

車の運転も大阪くらいまでは特別なことではなくなった。

だからこうして遠方での練習に参加出来たりするのだ。



求めるのものは「質の高さ」。

ハード、ソフトともに、そういった環境で練習を行うからこそ自分自身も質の高いプレーが出来るようになるのだと考える。

高い質には厳しさも当然伴う。

それについていけるだけの心・技・体を持ち合わせなければならない。

ということは、「高い質」の環境に身を置くことで自身のレベルアップを計るのではなく、常日頃から己を磨きレベルアップを図っていなければ、「質の高い環境」に身を置くことは出来ない。

もしそれを経験出来たとしても、それは1度だけの「体験会」で終わってしまうことになる。

今回の合宿ではあらためてそうした厳しさを思い知らされた感がある。

日頃の「準備」がきちんと出来ているからこそ、合宿などの特別な練習メニューをこなせるわけだし、その時間が有意義なものになるのだ。

「準備」も何もない状態で、参加することに意義を持つような感覚ではまったく次元の違った話になるわけで、それは逆に周囲の足を引っ張るだけになってしまう。

分かる人はそういう人を参加させないはず。

自分が質の高さを求めるのであれば、自分自身が質の高い人間でなければならない。

「意識高い系」と笑われても、面倒に思われても構わない。

求めるものはその先にあるのだから。



今回の合宿では本当に良い勉強が出来た。

そして、良い確認が出来た。

「大会前合宿」というのはあらゆる競技でテレビでもよく耳にするけれど、その意義を身を持って実感できた気がする。

同じ国際大会へ出場する国内トップレベルの車椅子選手とも密な時間を共有できたし、またそのチームのもの凄いコーチ陣にも実に濃い練習、指導をしていただけたので、今回の合宿は僕にとってはとてつもない財産になった、そんな満足感がある。

その一つが、僕がまだ中学生の頃に見様見真似で覚えた技術。

あくまでも見様見真似であり、誰からも細かく教えていただくことは無かった。

でも、その技術が僕の中でついに紐解けた!

その技術の理屈が初めて理解出来たのだ!

教えていただいたコーチと、真似をしていた中国人選手が重なり、その旨を伝えたところ壁が一つ崩壊。

僕の心に明るい光が差し込んできた(笑)



今回の合宿で学んだものは、現段階では学んだものにすぎないので、これをきちんと自分のものに出来るかどうかはこれからの自分次第。

教えてもらったからすぐ出来るなんてそんな簡単なものじゃないし、練習で出来たから試合でもすぐに使えるとかそんな簡単なものでもない。

出来るようになり、使えるようになるまで繰り返し練習する。

練習とは地味なもので辛いものも少なくは無く、全てが楽しいというものでは決してない。

だけどそれを繰り返し積み重ねていく。

競技とはある意味その積み重ねた高さを競うものなのだと思う。



この合宿で、質の高い練習が出来、僕のモチベーションも今は最高の状態にある様に思える。

合宿でのことは翌月曜日にホームのコーチの元へ早速報告へ。

そこで学んだ技術を再確認し、自分のものにすべく練習スタート。

良い感じだ。

こうやって活動出来ていることがまず良い感じ。



自分の未来は自分で掴む。



こうしている間にも海外のあいつらは汗を流し懸命に自分を磨いているはず。

負けていられない。

追いつき追い越す為に、僕はそれ以上に頑張らなければならない。

東京にも大阪にも、世界でも稀なレベルの恵まれた環境が僕にはある。

それを活かせるかどうか、全ては自分次第。

甘えるな俺。

みてろよ自分。

意識高い系で、質の高さを一点に追い求めてやる。

さぁ、あとはコンディションの維持。

「休むことも練習!」とコーチに叱られた(笑)

せっかちでゆとりのない性格はそのまま活動にも表れている(笑)

世界に置いていかれない為に

2018年05月10日 08時06分15秒 | 日記
僕がよく人に言われるのは「卓球が素直」「いやらしさが無い」ということ。

よく言うと、常に真っ向勝負らしい。

悪く言えば、何も考えていないんじゃないか?となる。



じゃぁ、「いやらしい卓球」とは何だ?



よく「泥臭い」というのも耳にする。



それらの言葉の意味は理解できる。



具体的にどうすれば「いやらしい」「泥臭い」となるのかも、今では理解できるつもりでいる。



それが僕には極端に無いらしい。



「強い!」と思っても「いやらしさを感じない」そうだ。



じゃぁ、その「いやらしさ」「泥臭さ」を身につける為の練習をする?



答えは「No」(笑)



貴重な練習時間をその為に費やすのはもったいない。

あえていうけれど、「そんなこと」は結果的な戦術論に過ぎないと思うから。

それよりも、パワーと身体能力で相手を圧倒するような卓球を身につける方が良い。

僕はそういうプレーがしたい。

世界で戦うにはそれが必要不可欠。その方が最も効率的だと考えるから。



車椅子というのは常に台にピッタリとくっついてプレーするのでいわゆる「前陣」となる。

また、座った状態なので、言ってみれば背の低いプレーヤー、ジュニアの選手などと似た感じだと考える。

そうしたことから、僕は車椅子選手のお手本は健常者でいう「女子卓球」だと思っている。

その女子卓球も時代と共にどんどん進化している。

でもそれらは「いやらしさ」「泥臭さ」を目標とする進化ではないはず。

そもそも、石川佳純選手、伊藤美誠選手、平野美宇選手などが中国の選手と対戦して、相手から「いやらしさ」「泥臭さ」を感じるのだろうか?

また、国内でそれらトップ選手に挑む方々も、同様にそれらを感じるのだろうか?

僕は彼女達がそれ以上に感じるものは違うところにあるのだと思う。

いつか直接聞いてみるつもり(笑)



そして、その日本のトップ選手は今まさに女子卓球界の「モード」を生み出している。

世界の最先端を走り、ブームというか1つの新たなスタイルを築きつつあると思うのだ。

そんな彼女たちの頭の中には「パワー」「スピード」「テクニック」だけが指針となっていて、「いやらしい卓球」「泥臭い卓球」という文字は存在していないと思われる。



勝つためには時に「いやらしさ」「泥臭さ」も必要。

でも最初からそれをあてにしてプレーするのは僕の美学とはちょっと異なる。

日本男児としての、武士道精神と言ったら大げさだけど、「やぁやぁ!我こそは!」と、正々堂々正面から挑み、そして圧勝する。

カッコいいじゃないですか。

そういう姿勢にこそ神風は吹くものだ(笑)

いや、神風をあてにするのは他力本願、それはダメ(笑)



勝つために何をするのか、己をどう磨いていくのか。

「アスリート」と呼ばれる方々はまずフィジカルがもの凄い。

その上にテクニックがあり、さらにその上にメンタルが存在するのだと思う。

スポーツ界にはそういう基本的なピラミッドが存在し、そのすそ野をより大きくし、高さを上げて行こうと、より頑丈なものにしようと日々努力を重ねていく、それこそが「アスリート」だと思うのだ。



僕はそのような選手に憧れるし、そうなりたいと願う。

戦術論はまた別のメニューとなる。

勝つ為の戦術を練り、備えをし、それが結果的に「いやらしい」「泥臭い」ものになったとしても、僕はそれで良いと思う。

そういうプレーも出来る。

そうじゃないプレーも出来る。

そういう引き出しを多く持つ選手が本当に強い選手なのだから。

強い球があるから弱い球が生きる。

速い球があるから遅い球が効く。

弱く遅い球だけであの手この手を考えるのは、僕は好きじゃない。

強く速い球を打てる強い選手になる為には、自身のピラミッドをより大きなものにしていかなければならない。

海外の連中はみんなそうしている。

負けてられない。



例えはしくれでも、日の丸を背負う以上は、国を代表した人間として恥ずかしくないプレーを心掛ける。

「勝てばなんでも良い」ではない。

そこは日本人として、意識を高く持った選手でありたい。

日本のスポーツ選手にはそうした方々が大勢いたのだから。



さぁ、磨くぞ自分!

追い込め自分!