車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

やれば出来る

2020年10月29日 00時08分00秒 | 日記

今回は卓球とはちょっと違ったところのお話を。

僕が脊髄を損傷し車椅子生活となってから、もう15年になる。

僕は胸椎を2つ粉砕骨折していて、その骨は今もなく、代わりに30cmくらいのチタンのプレート2本で上下を固定しているというもの。

今年の自動車事故の際にレントゲン写真を撮って検査してもらったけど、ドクターが「インプラント」と表現するそれは、まぁ実に違和感のある造形物で(笑)、若い頃の自分のバイクの外装をタイラップ(結束バンド)で繋ぎ止めていた外観を思い出させるものだった(笑)ちなみにそのバイク、仲間内では「ブラックジャック号」と呼ばれていた(笑)

そんな僕の身体は立ったり歩いたりが出来ないのだけれど、両足だけでなく胸から下の感覚を失っているのでいわゆる体幹も機能しない。座っていても背もたれがないと安定しないのだ。

そんな身体は思う以上に不便をきたす。

何がというと、まず立てないから着替えが大変。

特にパンツ。

履くのも脱ぐのも手間がかかるし、デニム素材はおろかチノパンみたいな厚手のものだとより時間がかかる。

靴だって履くのが大変。

「力を入れられない」から、「姿勢を変えられない」し「足首の向きや爪先の形を変えられない」ので時間もかかるし、そもそも履ける靴という選択肢も限られてくる。

だからファッションも制限される・・・

と考えていた。

いわば、諦めていた部分があった。

昔は服選びも好きだったけど、車椅子になってからはお店で試着も出来ないし(物理的には出来るかもしれないけれど、流石に気をつかうw)、常に座った状態で脱ぎ着の煩わしさもあるからサイズ選びも普通とはちょっと異なる選択をせざるを得ないのもあって、だんだんそちらへの意識が薄れていっていた。

そこにスポーツ活動でのジャージスタイルがスタンダードとなると、もうそこから抜け出すのが大変なことになる(笑)

そんな自分を危惧していた。

昔取った杵柄じゃないけど、好きな服はずっと持っているし、何よりもその時のトレンドを把握した上でおしゃれを楽しみたいし、流行とは別に自分の憧れるスタイルは明確にあるので、諦めながらも心の奥底に実は燻っていたものがずっとあった。

そんな思いでこの15年を過ごしてきたけれど、最近ふとしたきっかけで新しいことにチャレンジしてみた。

「今の自分なら」という思いもあったから。

すると、案外普通に出来たのだ。

やってみると意外と可能だということを最近になって新たに実感。

ついに、車椅子になって初めての新しい扉をまた一つ開くことが出来た。

黒歴史をくぐり抜けたような感覚(笑)


実は、今自分が思っている以上に自分には出来ることがある。

可能性というのは本当に無限大だということ。

大切なことは「やってみる」ことと、そして「行動する」ことだと思う。

自分を含め、人はやってみる前に色々考える。様々な知識やそれまでの経験から思考を巡らす。でもその思考の大半は自分にとっての損得勘定でしかないように思う。客観的ではなく主観による判断。気づかないうちにそういう基準だけで考えてしまっているのではないだろうか。

その主観によるメリットとデメリットだけの判断だと、大半の人は「損をしたくない」という思いからデメリットにばかり目がいき、それを理由にして行動を起こすことをネガティブに考えてしまうのではなかろうか。

「肉を切らせて骨を断つ」という発想はかなりの英断であって、おそらく日本人にとっては一般的な思考ではない、むしろ特別な思考とも言えるだろうから。

素人心理学(笑)

話を戻そう。本来そこにはメリットもあるはずであり、俯瞰で捉えることでより多くのその存在に気づくものだと思うけど、その大きさや大小を問わず、デメリットを恐れるあまりそうじゃない部分にばかり気を取られ、結果的に最初の一歩を思い止まってしまう。

そして、その判断が適切なタイミングを逃し、「時すでに遅し」となる。

でも、足を引っ張ったそのデメリットというのは案外小さなことである場合も多く、実は本人にとって最も大きなハードルとなるのがデメリットではなく「面倒臭い」ということの方が多いようにも思う。

世の中というのは、「面倒臭い・手間がかかる」ということと「(技術的に・物理的に)難しい」ということを一緒くたにしちゃう人のなんと多いことか(笑)

また、そういう人ほど言い訳が上手い(笑)

何かをお願いした際に「う〜ん、ちょっと難しいですね」という答えが返ってくることはよくあるけど、「何が難しいの?」と心の中で呟いたことは今までの人生でも度々あったし(笑)

信頼度の増減する瞬間(笑)

それはその人の人生だから、僕がそれをとやかく言うつもりはないけれど、「出来るけど面倒だからやらない」というその瞬間の判断と行動が、先の人生で後悔を生むことになるんじゃないかなぁと僕は考える。

後で気づくものなんだなぁ、「あの時やっておけば・・・」と。

僕はそんな人生は嫌だ。

だから、思ったことはやった方がいいと考える。

やってみるべきだ。

そして、意外とそれは簡単に出来たりもする。

その時出来なくても、頑張ることで出来るようになる。

頑張ってできるようになれば、それは実に嬉しいこと。

その満足度は棚ぼたレベルのものとは大きく異なり、その幸福感はすごく長く続くものになるし、それが自信にもなる。

その成功体験がたとえ些細なものであったとしても、ほんの少しだけであったとしても確実に人生を幸福な方向へと向けさせる。

その積み重ねがきっと人生をより幸せなものにしていくし、その厚み、深さ、スケールの大きさは、それ以降の自分の努力次第ではないだろうか、なんて考えたりもする。

ずいぶん大きな話になったなぁ(笑)


とにかく、まず行動すること。

「やれば出来る」は決して楽観的な言葉ではない。

ただし、何でもやればすぐに出来る、出来るようになるというものでもない。

出来るようになるまで頑張るから出来るようになるということだと考える。

やってみるかやってみないか、それがまず人生における分岐点。

さらに、やってみたけど出来ないから諦めるのか、それでも頑張って続けてみるのか、それもまた人生の分岐点かもしれない。

まずはやってみる。


今の世の中、IOTがどんどん生活を便利で快適なものにしてくれているし、社会をより便利で効率的なものへと進化させてくれているけど、そもそも人類がIOTというテクノロジーを生み出し有効活用するようになったのは、誰かのアイデアがスタートであって、それを具現化させるための行動に出たからであり、それを誕生させるまでに様々な困難があっただろうけど、でもそれを乗り越えて今に至っている。

もっと歴史を遡れば、自動車や飛行機、電気・ガス・水道などもそう、さらには月や宇宙空間への進出まで、今僕らが当たり前の存在として接しているものには、それを生み出した人たちの発想と、それを実現させようと踏み出した最初の一歩の勇気と、歩み続けた頑張りがあればこそ。

「やればできる」は歴史が証明してくれている。


「腰が重たい」という言葉は批判的表現であり、決して褒め言葉ではない。

最近の自分の些細な成功体験がここまで心に大きな栄養素を与えてくれた。

この成功体験を一過性のもので終わらせるのか、持続させることが出来るのか、それはこれから先の自分次第。それもまた分岐点だな。

ちなみに、今日の練習ではまた一つ成功体験を得た。

ふとした軽い思いつき、それをしっかりと思いとどめてチャレンジした結果、いいものを得た。

今の自分だからこそ得られた結果だと思う。

今回は一段と長い文章になったかもしれない(笑)

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今のこのコロナ禍には今までにない環境、経験を与えられている。

でもそれにより得られたものも多々ある。

五里霧中。

その霧の中で何をするか、どう過ごしていくのか、その判断は自分で出来る。

さぁ、明日も頑張っていこう。

週末に服を見に行きたいけど、練習の予定が続いているのでなかなか行けないし、流石に練習帰りにジャージで行くのは失礼なので、結局行けていない・・・(笑)


我思う、故に我あり

2020年10月16日 21時11分00秒 | 日記

以前、元全日本女子監督から教わったことが僕の心には刻まれている。

卓球において練習時間と成績をグラフに表すと、それは必ずしも比例して右斜め上に上がっていくものではなく、水平と垂直を繰り返す階段状になる、ということだった。

練習しても練習しても、成績は一向に上がらない。

それはつまり横ばいが続くという状態。

ところが、ある時突然それが急に、上に向かってグインと大きく伸びる、そういう時があるというのだ。

でもそれが止まって、またそこから横ばいが続いて、それでも頑張り続けているとある時また上に伸びる。そしてまた止まって・・・を繰り返す、それが卓球です、ということだった。

その話を聞いた時、「あぁその通りだ」と思った。

その元監督がどういう指導を行い、どういう選手を育てられたかという話も、僕は多方面から色々聞かせてもらってはいたので、より明確に、その言葉が深く理解できたし、僕の中に浸透してきた。


いや、それは何も卓球に限ったことではない。


僕が思うに、それは人生におけるほぼ全てにおいて当てはまることだと思う。

その角度は別として、一見すると右斜め上に綺麗に上がっている線でも、近寄って見てみると案外それは小刻みにギザギザと階段上に上がっていっているものだと思う。

スポーツでも勉強でもビジネスでも、ある意味恋愛においても、人生のほぼ全てにおいてそれは当てはまるものだと思う。

比例して真っ直ぐ斜めに上がっていくものがあるとすれば、それは筋トレくらいしか僕は思いつかないな。

成長というか人生というのはきっとそういうものなのだ。

不本意ながら右水平方向へ進んでいたのが、突然90度上を向いて進み出す。

そこにはもしかしたら誰かの、何かしらの外的要因が加わったから、なんてことが大いにあり得るだろうし、直接的な力でなくても、きっかけを与えてもらうとか、むしろそうした自分以外の力が必要不可欠だったりもするのかもしれない。

だけど、それはあくまでも偶然の結果でしかないとも考える。

普段からそれを求めて活動するのは本末転倒であり、まさに「他力本願」という日本に古くからある言葉で言い表せるから。

大切なことは、水平にしか進めていない時でも、腐らずに、歯を食いしばって頑張れるかどうか、頑張り続けられるかどうか、そこだと思う。


そもそも、水平を保つということ自体がもしかしたら凄いことなのかもしれない。

何もしなければ下り坂となるはず。

だって、競争相手はみんな頑張っているのだから。

それに地球には重力があるし(笑)

結果的に水平状態であっても、それはある意味評価に値するものとも言えると思う。

でも、そこで満足してたらそれ以上はない。


「上を向いて歩こう」

という名曲があるけれど、上に向かって進めるやつは上を向いているやつだけ。

上を向いているからそっちへの進み方が見えてくるのだ。

曲の内容とはちょっと違うか(笑)


練習と成績。

僕の場合、成績というのは試合の結果でしかない。

その試合が全くない今、成績の示しようがないし、そうなると、グラフ自体が成立しないことになる。


それでも腐らずに、上を向いてやる。やり続ける。


成績の示しようがないから、今はどれだけ頑張っても水平線をたどるだけ。

それでもやり続けるのだ。元監督の「上に向かって大きく伸びる」という言葉を胸に。


卓球というのは必ずしも上手い人が勝つ、強い人が勝つというものではない。

唯一言えることは「11点先に取ったほうが勝つ」ということ。

どれだけ技術があったって、フィジカルが優れていたって、センスがあったって、頭が良くたって、メンタルが良くたって、その全部が揃っていたって、11点先に取らなきゃ勝てないし、先の取れるかどうかは蓋を開けて見なけりゃ分からない。たった1本のミスが大きなうねりになることだってよくあることだし。


そういう競技で成績を上げる為に、じゃぁ自分がどう活動していくのか、積み重ねていくのか、絶対の答えは無いだろうから、考えて考えて考え抜いて、でもふと思い立った時にはフレキシブルに修正して、そうしながらまた積み重ねて・・・を繰り返していくしかない。


成績という結果は後からしかついて来ないのだから。

まだまだ練習が必要だな。

早く試合もしたい。

でも今は仕方ない。

社会の一員として、するべき選択と行うべき行動に気をつけよう。

その中でも出来ることはたくさんあるのだから。


人は人、自分は自分、見ている方向へと進むべき道を、信念を持ってしっかり前進あるのみ。


励ましの声をかけていただく

2020年10月06日 23時40分00秒 | 日記

思いがけず、超ご近所さんから声をかけていただいた。


区内の体育館で、区内のパラ選手の写真の展示の中で僕を見つけたということだった。

「頑張ってくださいね!」

その一言にもの凄い力を得たし、有り難く、幸いなことだとつくづく思ったのだった。

と同時に、らしい姿でいなきゃならんと改めて背筋が伸びるのだった。


先日、ラケットのラバーを張り替えたら、その貼り方がイマイチだったようで、コーチから「ボールが走っていない」との指摘を受けた。

その原因はラケットだけでもなく(その日の練習はサブラケットで行う)、どうやら先週末の練習を引きずった要因もあったようで、コーチはその練習も把握していたので、内容についても細かく指導を受けた。

その結果、その日の練習は通常メニューを急遽変更してのリハビリメニューとなり、いつもとは異なるよりハードなものになった。

すると、練習後の身体的疲労感はいつもより大きく、翌朝起きた時、左肩に若干の違和感を覚え、「あれ、疲労が残ってるのかな?」と思ったら、それはただ単に寝違えてるだけだった(笑)

そりゃぁそうだ、だって髪の毛の寝癖がいつもと違ってたから(笑)


でも、そういうのを甘く見ちゃいけないようだ。

そういうところから故障を招くこともあるらしい。

寝違えないようにすることはもちろんだけど、万が一そうなってしまった際のケアにも気をつけてなきゃいけない。


そういうのを高いレベルで指導してくれる方々がそばにいてくれることが本当にありがたい。


卓球の練習はもちろん、フィジカルについても、メンタルについても、選手としてのコンプライアンスにしても、それぞれの専門知識に加え高いレベルでの経験を持つ方々からより濃い指導を受けられるのは心底嬉しく思う。


その甲斐あっての「頑張ってくださいね!」という声だと思うのだ。


もし僕がもっと華奢で、どこか頼りない雰囲気で、表情も曇っていたり、どこかネガティブな印象を与えるようなチェアウォーカーであれば、仮にその人が写真で見た僕に気づいたとしても、多分声をかけないだろうと思う。

颯爽と車椅子を走らせ、それなりの健康そうな体つきで?細い通路では人に道を譲る余裕のある「声をかけやすそうな人」と受け取ってもらえたのだと思う。

ものすごい自画自賛(笑)

でもこれはコーチやトレーナーをはじめとする僕を指導してくださる方々の、まさにその指導の賜物ですから。僕自身が「スポーツ選手」「アスリート」を語るのは非常に烏滸がましいと思っている。けれど、世間はそう見ているのだから、じゃぁどうあるべきか、それも指導いただいている。そのレベルは国内とか実業団を超えて世界水準で。


だからこそ、自分を厳しく律していなきゃいかんと、今日は改めて思った。

不摂生はいかんと思った(笑)

コンディショニングは最終的には自分自身で行うもの。

アドバイスや注意喚起はしてもらえるけれど、それを行動に起こせるのは自分だけ。

家族や身近な人の協力が得られても、最後は本人の気持ちのありようで決まるものだと思う。


言うのは簡単(笑)


よし、気を引き締めて頑張っていこう。


心という中味は外見に表れる、滲み出てくるもの。


表情にも、身だしなみや体つきにも、姿勢や歩き方といった所作全般にも表れるもの。


その人が何を考え、どの方向を見て生きているのか、本人も気づかないところでそれは言動として表れているものであり、人はそれに気づいているものだとも思う。


企業に所属するパラ選手として、企業にとっても関係する方々にとっても、恥ずかしくない自分でいなきゃいけない。


例えどこかが痛むとかコンディションが優れない状態であっても、そういう姿を見せない健康的な状態を保つ努力もまた不可欠だなと思う。


言うのは簡単(笑)


大切なのは行動と結果ですね。


はい、明日も練習をしっかりと頑張ります!