今回は卓球とはちょっと違ったところのお話を。
僕が脊髄を損傷し車椅子生活となってから、もう15年になる。
僕は胸椎を2つ粉砕骨折していて、その骨は今もなく、代わりに30cmくらいのチタンのプレート2本で上下を固定しているというもの。
今年の自動車事故の際にレントゲン写真を撮って検査してもらったけど、ドクターが「インプラント」と表現するそれは、まぁ実に違和感のある造形物で(笑)、若い頃の自分のバイクの外装をタイラップ(結束バンド)で繋ぎ止めていた外観を思い出させるものだった(笑)ちなみにそのバイク、仲間内では「ブラックジャック号」と呼ばれていた(笑)
そんな僕の身体は立ったり歩いたりが出来ないのだけれど、両足だけでなく胸から下の感覚を失っているのでいわゆる体幹も機能しない。座っていても背もたれがないと安定しないのだ。
そんな身体は思う以上に不便をきたす。
何がというと、まず立てないから着替えが大変。
特にパンツ。
履くのも脱ぐのも手間がかかるし、デニム素材はおろかチノパンみたいな厚手のものだとより時間がかかる。
靴だって履くのが大変。
「力を入れられない」から、「姿勢を変えられない」し「足首の向きや爪先の形を変えられない」ので時間もかかるし、そもそも履ける靴という選択肢も限られてくる。
だからファッションも制限される・・・
と考えていた。
いわば、諦めていた部分があった。
昔は服選びも好きだったけど、車椅子になってからはお店で試着も出来ないし(物理的には出来るかもしれないけれど、流石に気をつかうw)、常に座った状態で脱ぎ着の煩わしさもあるからサイズ選びも普通とはちょっと異なる選択をせざるを得ないのもあって、だんだんそちらへの意識が薄れていっていた。
そこにスポーツ活動でのジャージスタイルがスタンダードとなると、もうそこから抜け出すのが大変なことになる(笑)
そんな自分を危惧していた。
昔取った杵柄じゃないけど、好きな服はずっと持っているし、何よりもその時のトレンドを把握した上でおしゃれを楽しみたいし、流行とは別に自分の憧れるスタイルは明確にあるので、諦めながらも心の奥底に実は燻っていたものがずっとあった。
そんな思いでこの15年を過ごしてきたけれど、最近ふとしたきっかけで新しいことにチャレンジしてみた。
「今の自分なら」という思いもあったから。
すると、案外普通に出来たのだ。
やってみると意外と可能だということを最近になって新たに実感。
ついに、車椅子になって初めての新しい扉をまた一つ開くことが出来た。
黒歴史をくぐり抜けたような感覚(笑)
実は、今自分が思っている以上に自分には出来ることがある。
可能性というのは本当に無限大だということ。
大切なことは「やってみる」ことと、そして「行動する」ことだと思う。
自分を含め、人はやってみる前に色々考える。様々な知識やそれまでの経験から思考を巡らす。でもその思考の大半は自分にとっての損得勘定でしかないように思う。客観的ではなく主観による判断。気づかないうちにそういう基準だけで考えてしまっているのではないだろうか。
その主観によるメリットとデメリットだけの判断だと、大半の人は「損をしたくない」という思いからデメリットにばかり目がいき、それを理由にして行動を起こすことをネガティブに考えてしまうのではなかろうか。
「肉を切らせて骨を断つ」という発想はかなりの英断であって、おそらく日本人にとっては一般的な思考ではない、むしろ特別な思考とも言えるだろうから。
素人心理学(笑)
話を戻そう。本来そこにはメリットもあるはずであり、俯瞰で捉えることでより多くのその存在に気づくものだと思うけど、その大きさや大小を問わず、デメリットを恐れるあまりそうじゃない部分にばかり気を取られ、結果的に最初の一歩を思い止まってしまう。
そして、その判断が適切なタイミングを逃し、「時すでに遅し」となる。
でも、足を引っ張ったそのデメリットというのは案外小さなことである場合も多く、実は本人にとって最も大きなハードルとなるのがデメリットではなく「面倒臭い」ということの方が多いようにも思う。
世の中というのは、「面倒臭い・手間がかかる」ということと「(技術的に・物理的に)難しい」ということを一緒くたにしちゃう人のなんと多いことか(笑)
また、そういう人ほど言い訳が上手い(笑)
何かをお願いした際に「う〜ん、ちょっと難しいですね」という答えが返ってくることはよくあるけど、「何が難しいの?」と心の中で呟いたことは今までの人生でも度々あったし(笑)
信頼度の増減する瞬間(笑)
それはその人の人生だから、僕がそれをとやかく言うつもりはないけれど、「出来るけど面倒だからやらない」というその瞬間の判断と行動が、先の人生で後悔を生むことになるんじゃないかなぁと僕は考える。
後で気づくものなんだなぁ、「あの時やっておけば・・・」と。
僕はそんな人生は嫌だ。
だから、思ったことはやった方がいいと考える。
やってみるべきだ。
そして、意外とそれは簡単に出来たりもする。
その時出来なくても、頑張ることで出来るようになる。
頑張ってできるようになれば、それは実に嬉しいこと。
その満足度は棚ぼたレベルのものとは大きく異なり、その幸福感はすごく長く続くものになるし、それが自信にもなる。
その成功体験がたとえ些細なものであったとしても、ほんの少しだけであったとしても確実に人生を幸福な方向へと向けさせる。
その積み重ねがきっと人生をより幸せなものにしていくし、その厚み、深さ、スケールの大きさは、それ以降の自分の努力次第ではないだろうか、なんて考えたりもする。
ずいぶん大きな話になったなぁ(笑)
とにかく、まず行動すること。
「やれば出来る」は決して楽観的な言葉ではない。
ただし、何でもやればすぐに出来る、出来るようになるというものでもない。
出来るようになるまで頑張るから出来るようになるということだと考える。
やってみるかやってみないか、それがまず人生における分岐点。
さらに、やってみたけど出来ないから諦めるのか、それでも頑張って続けてみるのか、それもまた人生の分岐点かもしれない。
まずはやってみる。
今の世の中、IOTがどんどん生活を便利で快適なものにしてくれているし、社会をより便利で効率的なものへと進化させてくれているけど、そもそも人類がIOTというテクノロジーを生み出し有効活用するようになったのは、誰かのアイデアがスタートであって、それを具現化させるための行動に出たからであり、それを誕生させるまでに様々な困難があっただろうけど、でもそれを乗り越えて今に至っている。
もっと歴史を遡れば、自動車や飛行機、電気・ガス・水道などもそう、さらには月や宇宙空間への進出まで、今僕らが当たり前の存在として接しているものには、それを生み出した人たちの発想と、それを実現させようと踏み出した最初の一歩の勇気と、歩み続けた頑張りがあればこそ。
「やればできる」は歴史が証明してくれている。
「腰が重たい」という言葉は批判的表現であり、決して褒め言葉ではない。
最近の自分の些細な成功体験がここまで心に大きな栄養素を与えてくれた。
この成功体験を一過性のもので終わらせるのか、持続させることが出来るのか、それはこれから先の自分次第。それもまた分岐点だな。
ちなみに、今日の練習ではまた一つ成功体験を得た。
ふとした軽い思いつき、それをしっかりと思いとどめてチャレンジした結果、いいものを得た。
今の自分だからこそ得られた結果だと思う。
今回は一段と長い文章になったかもしれない(笑)
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今のこのコロナ禍には今までにない環境、経験を与えられている。
でもそれにより得られたものも多々ある。
五里霧中。
その霧の中で何をするか、どう過ごしていくのか、その判断は自分で出来る。
さぁ、明日も頑張っていこう。
週末に服を見に行きたいけど、練習の予定が続いているのでなかなか行けないし、流石に練習帰りにジャージで行くのは失礼なので、結局行けていない・・・(笑)