車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

ホント、今更ながら・・・

2021年11月26日 22時13分03秒 | 日記
車椅子になってから卓球をはじめてもうすぐ10年になる。

20年以上のブランクとはいえ、一応学生時代に6年間の経験もある。

そんな僕が、また最近になってようやく、「あぁ、そういうことか」と腹落ちしたことがあった。

先日の大阪での試合を終えて、その反省からコーチと徹底的な課題練習を繰り返している。

すると、偶然の産物とでも言おうか、本当にたまたまなのだけど、いや、そうでもないかもしれないな、今までにもそうした練習は行ってきたし、コーチが実演するそうした技術を目の当たりにしてきたから。

とにかく、それを見て「あ、なるほど」と今までになく完璧なほどに理解できたことがあったのだ。

そこまで時間がかかるものかね?

と自分で自分が面白く、可愛げに思えてくる(笑)

そんな気づきがあった。

といってもそれは国内で優勝する為の技術、練習ではない。

僕の目標はそこではないので、それはその先を見据えた課題練習。

山田方谷先生曰く、「大信を守らんと欲せば、小信を守るに遑なし」だそうだ。

もちろん国内の勝利が小信だなどと言うつもりはない。

けれど、目標に向かって進んでいけば、その過程の課題は自ずとクリア出来ていくものだと僕は思っている。



理屈では分かっていた。

というか、分かったつもりでいた。

けれど、分かり切ってはいなかった。

つもりでいただけだったのだ。

そんなことをまたひとつようやく本当の意味で理解出来て、それを自分のものにすべくトレーニングを繰り返す。

そして、それを練習相手に試す。

すると、思っていた以上に手ごたえを得る。

やれば出来るじゃん!

まさにそんな思い。

でもこれが少し前の僕なら同じようには出来ていなかったかもしれない。

そういった思いもある。

今出来るのはまさに積み重なりだと思う。

自画自賛(笑)

でも本当にそう思う。

見て理解できたのもまさにそれで、簡単に言えば積み重なっていたから理解力が上がっていたということなんだと思う。

自画自賛(笑)

特技、自画自賛(笑)



頭で分かっていることが必ずしも出来るとは限らない。

プロ野球をテレビで見ながら解説するオジサンが、じゃぁそれを本人がプレーして見せることが出来るかというとそんなことはない。

頭で理解する、理屈は知っている、けれど身体で表現することは出来ない。

それは出来ないのと同じじゃないか、と僕は思う。

少なくとも現役のスポーツ選手にとっては。

健常者であればその大半はフィジカルが足りていないからだというシンプルな答えがあって、だから何を、どこを鍛えればいいのかというアドバイスも明確なので、課題解決への道は見出しやすいと思う(でもそれを解決するためには並々ならぬ努力が必要になるのだろうけど)。

そう、道が分かってもそれを進むためにはそれ相応の努力が必要なのだ。

対して障害者の場合はどうだろう?

身体で表現できないこと、パフォーマンスを発揮できないこと、その身体能力の不足分を、障害のせいにしてしまっている場合が多いんじゃないかと思う。

出来ないことを障害のせいにする。

だってそうすれば努力しなくて済むから(笑)

「仕方ないね」で済ませることが出来る。

いや、でもそれは努力してから出す結論でしょ?と僕は思う。

ところが案外そうでない人が多いようにも思うのだ。

頭では分かっている。でも身体で表現できないのは「障害があるから」としちゃいがちなのが障害者の実情。

だから、僕が健常者のプレーを参考になんて言うと同じ障害の方々からは「あれは健常者だから出来ること」とか、「同じことをしようとするなよ」とか言われる。

そんな感覚が根っこにあるから、どうしても健常者と自分を住み分けていて、その距離が縮まらないのだと思う。

自分達でバリアを作っちゃってるんだな。

いかん、話が逸れてきた(笑)

とにかく、頭で理解していることは身体で表現できるように努力しなければ、いつまで経っても出来るようにはならないし、努力したからといって必ずしも出来るようになるとは限らないけれど、努力したからこそ理解出来るもの、たどり着くレベルがあるのだとも思う。



大阪の試合を終えて、課題に取り組み、「あぁそういうことか」と大きな気づきを得たのは主に2点。

この収穫には自分自身の成長を実感出来た。

ちなみに、大阪の試合では直前に大きな変更をして臨んだ。

大阪入りするまではそんな事は今するべきじゃないと考えていたことだし、考えすら及ばなかったこともある。

でもそれを本当に土壇場で変更した。

その決断をした。

それが出来たのもまた積み重ねというバックボーンがあったからこそだと思っている。



新しい扉を開くノブを掴んだ。

開きたかった扉のノブをようやく掴めた。

今はその扉を開くためのトレーニングを繰り返す。

その扉は少しだけ開いていて、その隙間からは光が差し込んでいる。

その扉を自分が進めるだけ開くのに、どれくらいの力が必要なのか、どれくらいの時間を要するのか、それは誰にも分からない。

ただ一つ確かなことは、それには絶対の答えがないということ。

だから、それをどれくらいの速さでクリアできるかは自分自身の努力次第ということになる。

その際の努力というのは、自分一人が頑張ればということではなく、自分が頑張る為の環境づくりも大切で、その構築、維持管理も含め自分次第だと思っている。

そうした環境が自分をさらに高めてくれる。

恵まれた環境をどう活かすか、活かせるかどうか、それこそ自分次第。

可能性は誰にでも、どんな時も、必ず存在している。

一般的に、あなたの障害ではこの部分までしか動かせません、こういう動きは出来ません、なんてデータがあったとしても、それはあくまでも一般論でしかない。

自分をその一般論に当てはめるのか、逆にイレギュラーな存在と思うのか、その可能性に賭けるのか、それもまた自分次第。

僕は・・・ギャンブルは苦手だからなぁ(笑)

とにかく、考え続けて、頑張り続けるからこそ見えるもの、理解できること、たどり着くポイントがあるのだと思う。

それを実感した時、人生の可能性は更に大きく飛躍する。

と思う(笑)

その思いで頑張っていく。

一足飛びは狙わない。

確実に一歩一歩前進していく。

その方が性に合っている。

この感覚を維持し、精進していく。

第13回国際クラス別パラ卓球選手権大会

2021年11月17日 22時12分27秒 | 日記
2年ぶりの開催となるこの大会、会場の大阪へ車を飛ばして行ってきました。

パラリンピックと同じく障害によるクラス分けを行ったうえでの大会運営。

なのでこの大会がパラ卓球の実質的全日本選手権と言えます。

僕はクラス3。

結果は準優勝。

予選リーグで1敗し2位通過。

決勝トーナメントを勝ち上がって、決勝戦で予選で敗れた相手と再戦。

そしてまた負けるという、しかもストレートで。なんとも情けない結果。

準優勝だから、銀メダルだからと浮かれてはいられないし喜んでる暇もない。というか、喜ぶことなど許されない。

だって負けたのだから(しかも同じ相手に2回も)。

コーチからも「優勝以外は負けと同じ」と叱咤される。

激励の言葉など微塵も無し。

でもそれがありがたい。

僕がやっているのは障害者のリハビリとか健康維持のための運動、娯楽のスポーツ活動ではない。

選手として企業に所属し、メーカーからのサポートも受け、様々な方からの支持や応援をいただいた上で活動しているのだから。



でも今回は得た手ごたえも大きかった。

積み重ねてきたものと自分の見ている方向に間違いはないということを確信することも出来た。

自信を持つことが出来たのもまた事実。

これは今まで以上に大きな収穫。

だからこそ、「修正」にすぐに取り掛かることも出来ている。

その点が大きい。

自分自身でしっかり理解出来るからすぐに修正も出来るということ。

その理解力がある意味一番の成長かもしれない。

色々無駄に考えてきたことの遺産が積み重なったのかな(笑)

でも、すぐに修正に取り掛かれるのはまずその下地があればこそだと思っている。

自分で言うのもなんだけど(笑)

僕の場合それは恵まれた環境面がその大きな要因となる。

もちろん自身のフィジカルやテクニック、知識は当然の事。

そうした下地を築けているからこそ、次の一歩をより効果的な方向へと踏み出すことが出来るのだろうな。

それもこれもコーチを中心とした環境、チームのお陰。

様々な方々の多角的なサポートという支えがあればこそ。

本当にありがたく、嬉しく思うし、それにしっかりと答えていきたい。



今回の試合の結果は望むところへはたどり着けなかった。

でも何が足りないのか、今後どうしていくべきなのか、それが明確につかめているのもまた事実。

国内でこうして切磋琢磨できるのは実に嬉しいしありがたいことでもある。

新しいフィールドへと足を踏み入れることが出来た、そんな感さえもある。

そのフィールドを歩き続けた先には何があるのか、それも自分なりではあるけれど、イメージ出来ている。

困難や壁はこれから先いくつも出てくるに違いない。

けれど、これまで進んできただけの力をつけた自信もあるので、その分だけより高い壁を超える自信もまたある。

東京2020パラで目標は明確になった。

目標は定まっている。

あとは、そこへ進むだけの推進力をどう得るか、維持するか、それは自分次第であり、人に頼るものではないと思う。

それこそがそもそものアスリート・マインドなのだと思うから。

言うのは簡単。

大切なのは行動、そして結果。

結果を出せるように、目標を見定めながらも足元をしっかり見て、確実に前進していきたい。



余談だけど、今大会の開会式で東京パラに出場した選手の挨拶に興味深いコメントがあった。

「最後は自分一人です」

この言葉は深く刺さった。

その真意がどういったものであるかは別として、僕にとってのその言葉の意味は実に興味深いものであり、深く刺さるフレーズだった。

最後は一人、それは卓球に限らずどんなシーンでもそうだと思っている。

逆にそこで人の力を当てにするようでは生き抜けないと思う。

大切なのはその心の強さなんだ。

それがその瞬間になって初めて発揮されるのが火事場のバカ力であり、それを日常から活用できる人が強い人なんだと思う。

僕もやっぱり強い人に憧れるし、そうありたいと思う。

どれだけ良い環境に恵まれていても、最後は自分で選択し、決断し、自分の力で進んでいく。

それが人生なんだろうな。

今回の大会では試合以上に様々なことを学べたし、気づけたし、大いに楽しむことが出来た。

それも下地があったからに他ならないと思う。

これからもその下地をより分厚くし、その上に立派なものを立てていきたいと思う。



最後に、大会を開催してくださった方々、僕を快く送り出してくれた方々、サポートや応援をしてくださった方々、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

ありがとうございました。

僕はこれからもっともっと頑張っていきます!

自分を理解する

2021年11月09日 21時14分35秒 | 日記
はたして、自分のことを客観視して理解出来ているだろうか?

簡単なようでなかなか難しい。

いや、なかなかではなく「かなり」難しい。

知っている、分かっている「つもり」なだけで、実は全然理解できていないと思う。

自分以外の人のことだったら、「どんな人か」「どういう印象か」を他の人と話すことで確認し合えるのに(結果的にそれが噂話や陰口にもつながるからリスクは高い)。

でも自分自身のことを人に聞いたところで、それはその人の個人的な意見であり、10人いればきっとその意見はみんなそれぞれ違っていて、どれが正解で、あるいは少数派の意見なのかその程度では確証は持てない。

だからといって接する人全員に聞いて回るもの変な話だし、そもそも聞いたところで率直に、正直に、思っていることを話してくれるとは限らない。

だってそこにはお互いの立場や人間関係が存在するから少なからずの気遣いや忖度が生じるものだと思うから。

だから、実は自分が自分のことを案外一番理解できていないものなのかもしれない。

そう練習中に気づかされる。



だからこそ逆に、自分を理解出来た時、自分の現在地を認識出来た時、それはとてつもないプラスを生むと思う。

自分を認識しているからこそ、変化にも気づける。

変化に気づけば、その方向性を正すことも出来るし、簡単に成功体験を得ることも出来る。

それが良い方向へ向かっているものであれば、すなわち「成長」の実感が出来たことになるから。

その実感は心を豊かにする。モチベーションになる。

それは何もメンタルなどスピリチュアルなものに限らずフィジカル(物理的なもの)に対しても同様だと思う。



成長とは何でも一足飛びに出来るものではなくて、理想は日進月歩でありグラフにすれば右肩上がりの線を辿る形なのだけれどなかなかそう上手くいくものでもなく、頑張っても頑張っても積み重なるものはほんのわずかで、グラフだと横一直線の水平ラインという時期も少なくない。さらにはいざとなった時にはまだ足りていないという現実を思い知らされ、苦悩や挫折と僅かな手ごたえがさざ波のように繰り返し繰り返し静かに、時に激しく打ち寄せてくるのが現実。

でも、それでもその僅かな手ごたえを糧として頑張り続けたその先に成長という成功が存在するのだと思う。

その僅かな手ごたえを自覚できるかどうか、それこそが自分を理解出来ているかどうかだと思う。



「自分自身の理解の仕方」

なんてのはきっと人それぞれだから絶対の答えも無く、専門家に聞いてもすぐに答えが分かるものでもないだろうし、結局のところは自分で考え続けるしかないものだと思う。

でもそういうことってどこかの本に答えが書いてあるわけでもないから、考えても考えても明確な答え、正解が見いだせるものではない。

けれど、分からないことでも考え続けることである時ふと「あ!」と気づく瞬間があると思っている。

それが何年先になるのかは分からないし、もしかしたら一生分からないままかもしれない。

だけど考え続けなければ分からない。

考えるから分かるものであり、考え続けるからこそ分かるのだ。

それってごく僅かずつ積み重なっていくもので、それもまた成長のステップとなるのだと思う。

だから、「考える」ということもまた努力の積み重ねと同じことなのかもしれない。

ただ、「考える」ことと「考えてもらう」ことは全く別の話。

答えを見出すことが大切なのではなくて、考えるという行為そのものに価値があるのだと思う。

今は答えを見つけやすい環境が出来ているので、だからこそ考えるかどうかが道を大きく分けるような気がする。

そもそも、考えることに物理的コストは発生しない。

必要なのは時間だけ。

しいて言えば、他に必要なのは脳のエネルギーとなるブドウ糖くらいか(笑)

大切なのは自分を理解出来るかどうかではなく、理解しようとするかどうかであり、チャレンジすること、行動することなのだと思う。

結果は行動に起因するものだし。

子供の頃にも父からそういったことを教えられたのを覚えている。

考えるから見えてくるものがある。分かるものがある。

その中に「自分」というものがあるのだと思う。

たった一度の人生で、自分を理解しないままその生涯を終えるのはものすごく残念なこと。もったいないと思う。僕は人一倍貧乏性だから(笑)



僕自身、まだまだこれっぽっちも自分を理解出来ていない。

自分が進みたい道が、その方向が、自分に相応しいものなのか分からないし、それが効率の良い安全な道なのかどうかも分からない。

でも、進む。

きっと、人類が、あるいは人が人になる前、ホモサピエンス以前の頃かもしれないけど、アフリカ大陸で誕生したといわれる人類の祖先がユーラシア大陸をあちこちに進んで、各地で生活圏を築き文化を育んできた訳だけど、その旅路にはきっと道は無かったはず。先導してくれる「人」もヤタガラス(笑)もいなかったと思う。

思うままに自分の足で進んだ結果の世界を、その延長線上を僕らは生きている。

だから、その血を受け継ぐものとして、僕も進んでいきたい。

道なき道を。

なんて言うとかっこいいなぁ(笑)

とにかく、強く生きるために、健やかに生きるために、自分を理解したい。知りたい。

なんてふと考える。



どうした?何かあった?大丈夫か?(笑)

いや、全然大丈夫、何もない。

ただただ練習中に「自分を分かってないなぁ」と思っただけ(笑)

まだまだ道のりは長い。

歩く(車椅子だけどw)、そして、前に進む。

その為に何が必要か、体力やそれを生むエネルギーや、装備もそうだし人を含む何かしらのサポートなども含め、そうしたものを的確に判断するためにはそれこそまさに自分を理解していなければならない。

よし、今日も考え続けて頑張っていこう。

なんて言ってるとコーチから「ほら!集中して!」と叱られる(笑)

中々思うようにいかないのもまた我が人生かな(笑)