車椅子になってから卓球をはじめてもうすぐ10年になる。
20年以上のブランクとはいえ、一応学生時代に6年間の経験もある。
そんな僕が、また最近になってようやく、「あぁ、そういうことか」と腹落ちしたことがあった。
先日の大阪での試合を終えて、その反省からコーチと徹底的な課題練習を繰り返している。
すると、偶然の産物とでも言おうか、本当にたまたまなのだけど、いや、そうでもないかもしれないな、今までにもそうした練習は行ってきたし、コーチが実演するそうした技術を目の当たりにしてきたから。
とにかく、それを見て「あ、なるほど」と今までになく完璧なほどに理解できたことがあったのだ。
そこまで時間がかかるものかね?
と自分で自分が面白く、可愛げに思えてくる(笑)
そんな気づきがあった。
といってもそれは国内で優勝する為の技術、練習ではない。
僕の目標はそこではないので、それはその先を見据えた課題練習。
山田方谷先生曰く、「大信を守らんと欲せば、小信を守るに遑なし」だそうだ。
もちろん国内の勝利が小信だなどと言うつもりはない。
けれど、目標に向かって進んでいけば、その過程の課題は自ずとクリア出来ていくものだと僕は思っている。
理屈では分かっていた。
というか、分かったつもりでいた。
けれど、分かり切ってはいなかった。
つもりでいただけだったのだ。
そんなことをまたひとつようやく本当の意味で理解出来て、それを自分のものにすべくトレーニングを繰り返す。
そして、それを練習相手に試す。
すると、思っていた以上に手ごたえを得る。
やれば出来るじゃん!
まさにそんな思い。
でもこれが少し前の僕なら同じようには出来ていなかったかもしれない。
そういった思いもある。
今出来るのはまさに積み重なりだと思う。
自画自賛(笑)
でも本当にそう思う。
見て理解できたのもまさにそれで、簡単に言えば積み重なっていたから理解力が上がっていたということなんだと思う。
自画自賛(笑)
特技、自画自賛(笑)
頭で分かっていることが必ずしも出来るとは限らない。
プロ野球をテレビで見ながら解説するオジサンが、じゃぁそれを本人がプレーして見せることが出来るかというとそんなことはない。
頭で理解する、理屈は知っている、けれど身体で表現することは出来ない。
それは出来ないのと同じじゃないか、と僕は思う。
少なくとも現役のスポーツ選手にとっては。
健常者であればその大半はフィジカルが足りていないからだというシンプルな答えがあって、だから何を、どこを鍛えればいいのかというアドバイスも明確なので、課題解決への道は見出しやすいと思う(でもそれを解決するためには並々ならぬ努力が必要になるのだろうけど)。
そう、道が分かってもそれを進むためにはそれ相応の努力が必要なのだ。
対して障害者の場合はどうだろう?
身体で表現できないこと、パフォーマンスを発揮できないこと、その身体能力の不足分を、障害のせいにしてしまっている場合が多いんじゃないかと思う。
出来ないことを障害のせいにする。
だってそうすれば努力しなくて済むから(笑)
「仕方ないね」で済ませることが出来る。
いや、でもそれは努力してから出す結論でしょ?と僕は思う。
ところが案外そうでない人が多いようにも思うのだ。
頭では分かっている。でも身体で表現できないのは「障害があるから」としちゃいがちなのが障害者の実情。
だから、僕が健常者のプレーを参考になんて言うと同じ障害の方々からは「あれは健常者だから出来ること」とか、「同じことをしようとするなよ」とか言われる。
そんな感覚が根っこにあるから、どうしても健常者と自分を住み分けていて、その距離が縮まらないのだと思う。
自分達でバリアを作っちゃってるんだな。
いかん、話が逸れてきた(笑)
とにかく、頭で理解していることは身体で表現できるように努力しなければ、いつまで経っても出来るようにはならないし、努力したからといって必ずしも出来るようになるとは限らないけれど、努力したからこそ理解出来るもの、たどり着くレベルがあるのだとも思う。
大阪の試合を終えて、課題に取り組み、「あぁそういうことか」と大きな気づきを得たのは主に2点。
この収穫には自分自身の成長を実感出来た。
ちなみに、大阪の試合では直前に大きな変更をして臨んだ。
大阪入りするまではそんな事は今するべきじゃないと考えていたことだし、考えすら及ばなかったこともある。
でもそれを本当に土壇場で変更した。
その決断をした。
それが出来たのもまた積み重ねというバックボーンがあったからこそだと思っている。
新しい扉を開くノブを掴んだ。
開きたかった扉のノブをようやく掴めた。
今はその扉を開くためのトレーニングを繰り返す。
その扉は少しだけ開いていて、その隙間からは光が差し込んでいる。
その扉を自分が進めるだけ開くのに、どれくらいの力が必要なのか、どれくらいの時間を要するのか、それは誰にも分からない。
ただ一つ確かなことは、それには絶対の答えがないということ。
だから、それをどれくらいの速さでクリアできるかは自分自身の努力次第ということになる。
その際の努力というのは、自分一人が頑張ればということではなく、自分が頑張る為の環境づくりも大切で、その構築、維持管理も含め自分次第だと思っている。
そうした環境が自分をさらに高めてくれる。
恵まれた環境をどう活かすか、活かせるかどうか、それこそ自分次第。
可能性は誰にでも、どんな時も、必ず存在している。
一般的に、あなたの障害ではこの部分までしか動かせません、こういう動きは出来ません、なんてデータがあったとしても、それはあくまでも一般論でしかない。
自分をその一般論に当てはめるのか、逆にイレギュラーな存在と思うのか、その可能性に賭けるのか、それもまた自分次第。
僕は・・・ギャンブルは苦手だからなぁ(笑)
とにかく、考え続けて、頑張り続けるからこそ見えるもの、理解できること、たどり着くポイントがあるのだと思う。
それを実感した時、人生の可能性は更に大きく飛躍する。
と思う(笑)
その思いで頑張っていく。
一足飛びは狙わない。
確実に一歩一歩前進していく。
その方が性に合っている。
この感覚を維持し、精進していく。
20年以上のブランクとはいえ、一応学生時代に6年間の経験もある。
そんな僕が、また最近になってようやく、「あぁ、そういうことか」と腹落ちしたことがあった。
先日の大阪での試合を終えて、その反省からコーチと徹底的な課題練習を繰り返している。
すると、偶然の産物とでも言おうか、本当にたまたまなのだけど、いや、そうでもないかもしれないな、今までにもそうした練習は行ってきたし、コーチが実演するそうした技術を目の当たりにしてきたから。
とにかく、それを見て「あ、なるほど」と今までになく完璧なほどに理解できたことがあったのだ。
そこまで時間がかかるものかね?
と自分で自分が面白く、可愛げに思えてくる(笑)
そんな気づきがあった。
といってもそれは国内で優勝する為の技術、練習ではない。
僕の目標はそこではないので、それはその先を見据えた課題練習。
山田方谷先生曰く、「大信を守らんと欲せば、小信を守るに遑なし」だそうだ。
もちろん国内の勝利が小信だなどと言うつもりはない。
けれど、目標に向かって進んでいけば、その過程の課題は自ずとクリア出来ていくものだと僕は思っている。
理屈では分かっていた。
というか、分かったつもりでいた。
けれど、分かり切ってはいなかった。
つもりでいただけだったのだ。
そんなことをまたひとつようやく本当の意味で理解出来て、それを自分のものにすべくトレーニングを繰り返す。
そして、それを練習相手に試す。
すると、思っていた以上に手ごたえを得る。
やれば出来るじゃん!
まさにそんな思い。
でもこれが少し前の僕なら同じようには出来ていなかったかもしれない。
そういった思いもある。
今出来るのはまさに積み重なりだと思う。
自画自賛(笑)
でも本当にそう思う。
見て理解できたのもまさにそれで、簡単に言えば積み重なっていたから理解力が上がっていたということなんだと思う。
自画自賛(笑)
特技、自画自賛(笑)
頭で分かっていることが必ずしも出来るとは限らない。
プロ野球をテレビで見ながら解説するオジサンが、じゃぁそれを本人がプレーして見せることが出来るかというとそんなことはない。
頭で理解する、理屈は知っている、けれど身体で表現することは出来ない。
それは出来ないのと同じじゃないか、と僕は思う。
少なくとも現役のスポーツ選手にとっては。
健常者であればその大半はフィジカルが足りていないからだというシンプルな答えがあって、だから何を、どこを鍛えればいいのかというアドバイスも明確なので、課題解決への道は見出しやすいと思う(でもそれを解決するためには並々ならぬ努力が必要になるのだろうけど)。
そう、道が分かってもそれを進むためにはそれ相応の努力が必要なのだ。
対して障害者の場合はどうだろう?
身体で表現できないこと、パフォーマンスを発揮できないこと、その身体能力の不足分を、障害のせいにしてしまっている場合が多いんじゃないかと思う。
出来ないことを障害のせいにする。
だってそうすれば努力しなくて済むから(笑)
「仕方ないね」で済ませることが出来る。
いや、でもそれは努力してから出す結論でしょ?と僕は思う。
ところが案外そうでない人が多いようにも思うのだ。
頭では分かっている。でも身体で表現できないのは「障害があるから」としちゃいがちなのが障害者の実情。
だから、僕が健常者のプレーを参考になんて言うと同じ障害の方々からは「あれは健常者だから出来ること」とか、「同じことをしようとするなよ」とか言われる。
そんな感覚が根っこにあるから、どうしても健常者と自分を住み分けていて、その距離が縮まらないのだと思う。
自分達でバリアを作っちゃってるんだな。
いかん、話が逸れてきた(笑)
とにかく、頭で理解していることは身体で表現できるように努力しなければ、いつまで経っても出来るようにはならないし、努力したからといって必ずしも出来るようになるとは限らないけれど、努力したからこそ理解出来るもの、たどり着くレベルがあるのだとも思う。
大阪の試合を終えて、課題に取り組み、「あぁそういうことか」と大きな気づきを得たのは主に2点。
この収穫には自分自身の成長を実感出来た。
ちなみに、大阪の試合では直前に大きな変更をして臨んだ。
大阪入りするまではそんな事は今するべきじゃないと考えていたことだし、考えすら及ばなかったこともある。
でもそれを本当に土壇場で変更した。
その決断をした。
それが出来たのもまた積み重ねというバックボーンがあったからこそだと思っている。
新しい扉を開くノブを掴んだ。
開きたかった扉のノブをようやく掴めた。
今はその扉を開くためのトレーニングを繰り返す。
その扉は少しだけ開いていて、その隙間からは光が差し込んでいる。
その扉を自分が進めるだけ開くのに、どれくらいの力が必要なのか、どれくらいの時間を要するのか、それは誰にも分からない。
ただ一つ確かなことは、それには絶対の答えがないということ。
だから、それをどれくらいの速さでクリアできるかは自分自身の努力次第ということになる。
その際の努力というのは、自分一人が頑張ればということではなく、自分が頑張る為の環境づくりも大切で、その構築、維持管理も含め自分次第だと思っている。
そうした環境が自分をさらに高めてくれる。
恵まれた環境をどう活かすか、活かせるかどうか、それこそ自分次第。
可能性は誰にでも、どんな時も、必ず存在している。
一般的に、あなたの障害ではこの部分までしか動かせません、こういう動きは出来ません、なんてデータがあったとしても、それはあくまでも一般論でしかない。
自分をその一般論に当てはめるのか、逆にイレギュラーな存在と思うのか、その可能性に賭けるのか、それもまた自分次第。
僕は・・・ギャンブルは苦手だからなぁ(笑)
とにかく、考え続けて、頑張り続けるからこそ見えるもの、理解できること、たどり着くポイントがあるのだと思う。
それを実感した時、人生の可能性は更に大きく飛躍する。
と思う(笑)
その思いで頑張っていく。
一足飛びは狙わない。
確実に一歩一歩前進していく。
その方が性に合っている。
この感覚を維持し、精進していく。