車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

ホント、学びは尽きない

2024年05月22日 12時01分07秒 | 日記
最近嬉しい発見というか気づきが続いている。

「あ!そういうことか!」

という気づきが連鎖している。

新たに教わったから気づけたこともあれば、以前から認識のあったことがようやく腹落ち出来たような、そんなこともある。

それがすごく嬉しいし楽しい。

ワクワクしている。

だけどそれは今が初めてのことではない。

今までも散々それを繰り返してきた。

取り組んできたことの手ごたえを得て、ワクワクして、でも試合で上手くいかずに負けて、結果を出せずに終わって、でもまたやってみて、新たな手ごたえを得て、ワクワクして、でもまた負けて、悔しさを味わって、それでまたリスタートして、そしてまた・・・を繰り返している。

自分で言うのもなんだけど、よくやっていると思う(笑)

でも、例えそれが輪廻と呼ばれたとしても、同じところを回り続けているわけではないとも思っている。

その円周軌道が真上から見て同じだったとしても、横から見た時その高さは違っていて、きっとそれはバネのような螺旋回転で少しずつ上に向かって回り続けているのだと思う。

僕はそう実感している。

一生懸命にやった経験というのはきっとそういうことなのだ。

それは財産として手元に残る。身につく。

それが僕の持論。

気休めかもしれないけど(笑)



でもそれを実感出来ているからこそ、結果以外の部分でも収穫を得られていて、だからワクワクを実感出来、それを続けることが出来ているのだと思う。

そしてそれらをアップデート出来ている手ごたえがあり、だから少しずつでも上に向かっているのだと実感出来ていて、それを喜びや楽しみとして捉えられているように思う。

だから、これでもう十分というポイントがなくて、もっともっとと思えるし、だから、学びが尽きないと思えるのだ。



「人間その気になれば何からでも学ぶことが出来る」という言葉を学んだのが大学生の頃。

学ぶということを机上の独りよがりで終わらせるのではなく、それをもって他者と交流することこそが真の学問であると学んだのが30代。

過去の実例として、学ぶ意志のある人は投獄されてもその環境下で何かしらを学び続け、さらにはそこでコミュニティを作り、互いに学び合う関係を気づき上げ、それをその後に活かしたという話も存在する。

僕らが今も目にする書体「隷書」も似たようなルーツと言えるだろうし。

人はどんな状態にあっても、どんな環境下にあっても、学ぶことが出来るのだと思う。

それは自分の思考次第ということか。

だから、「学ぶ」ことをやめちゃいけない。

それを放棄しちゃいけない。



幸い僕は学びを得る機会を多く有している。

そういう環境があれば、幸運な出会いも多々あり、これが運であるとすれば、僕は相当恵まれた人間だと思う。

だからこそ、それを活かせるだけの自分でありたいし、その先にある結果にもたどり着きたい。

じゃぁその為に何をするのか?

それは誰にも分からない。

あらゆるものが刻一刻と変化し続けているので、それまでの正道が邪道になんてことも多々あり、絶対は存在しないと思う。

スポーツの世界で言えば根性論とスポーツ科学の進化など。

どの道が正解でどの道が最短かなんて誰にも分からない。

だってそれは未来のことだから。

それが分かるのは予知能力者ということになる。

普通の人間には無理だ。

だからこそ、普通の人間代表の僕は自分で考えてトライして、それがエラーであったなら検証しリトライ、それを繰り返すしかない。

あとはそれをどのくらいの質の高さで行っていくか、それもまた道を分けるものなんだと思うけど。

もうそれの繰り返し、積み重ね。

それしかない。

なんてやってると、新しいことに気づき、新たな学びに出会い、傍から見れば堂々巡りのように見えるループ軌道ながら微上昇していて、だからこそワクワク楽しめるのだと思う。

もう練習したくてしたくてたまらない(笑)

でもそれはただボールを打つのではなく純粋に自分の練習。

自分がやりたい練習。

そして、試合もやりたい。

試したい。

試し合うんじゃない、ただただ自分が試したい。

エゴがどんどん強くなっている(笑)

そんな自分を肯定し、楽しむ。

それもまた学びの証。

ホント、学びは尽きないし、いろいろ学ばせてもらえているのは実にありがたいこと。

この調子で磨き上げていきたい。