車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

2020年・・・

2020年12月29日 12時52分46秒 | 日記
今年開催予定だった東京パラを目指して活動してきたけれど、それも延期となり、来年の開催となったけれど、パラ卓球においてその代表は未だ決定していない。

世界のこの状況において、それを決める試合が各国で開催出来るのかどうか、いやそれ以前に、それに向けた取り組みが世界各国全ての選手で出来ているのかどうか、心配だし不安でもあるし、気になって仕方ない。



2020年、まさに想定外の一年になった。

2月にローカルの試合に出場した。

それ以降、全ての試合が中止となった。

講演を含めたイベントの予定もあったがそれも全て中止。

練習も2月に愛知で行って以降、ホームの卓球場を中心に都内で行うのみ。

今年は車椅子同士での練習も数える程度しか出来ていない。

都内の障害者スポーツセンターも春には一時期閉鎖され、その後再開されはしたもののそれ以前とは利用の仕方が大きく異なり僕にとっては利用しにくくなったため一切足を向けなくなり、それは今も続いている。

それもあり、春から自身のトレーニングの仕方とコンディショニングの管理を若干変更した。

でもそれは満足のいくものが得られており、そこに不満もストレスも全く感じていないのは、周囲に十分な情報と自分自身の以前からの取り組みがあったからだと感じている。

だからこそ、春以降練習を再開出来た時に手ごたえを得た。

それが更なるステップアップへと背中を押した。

そして、様々なことへとチャレンジすることが出来、それが更に自分を成長させたと思っている。



振り返れば、この想定外の一年、いろいろあった?

いや、逆に無かった。

むしろ無さ過ぎたとも言える。

いつもなら次々と開催される試合に向けた調整と、終えた試合からの反省・修正の短期間のサイクル、その繰り返し。勝った負けたで気持ちは常に浮き沈みする。

でも今年は全く違っていて何も無かった。

振り返ればその印象に尽きる。

でも逆に、自分に向けた濃い時間を設けられた貴重な一年ともなった。

気持ちの浮き沈みもなく、むしろ上昇傾向のまま。

だからこそ、思い切った新しいチャレンジも出来たのだと思う。

「次の試合が決まらない」ということは、ゴールの無いマラソンを走り続けるような感覚だけど、逆に考えれば「次」というポイントへ合わせるという必要がないからコンディショニングを無視して多少の無理をすることが出来、そこから新たな発見が出来るというプラスのサイクル、ある意味「幸いな」時間・期間を過ごせたとも思っている。

もちろん、練習環境や練習相手もかなり狭い範囲で限定されるし、全く台でボールを打てなかった期間もあり、そうした点ではストレスを強いられるものではあった。

けれど、逆にその時間をより濃く効率的に活かしていこうかと様々考えることが出来たし、そう考えたことがその先に大きな恩恵をもたらしたように思う。

だから、活動再開後の練習もそれまで以上により濃い時間を過ごせるようになっている。

それはまさに、この2020年が特殊な一年であったから。

その一年を試行錯誤の上に納得のいく内容で過ごす、活かす、と考え、行動した結果、今の自分があると思っている。



日本を含め世界中の全ての選手がそれぞれの置かれた立場や環境の中で、試行錯誤しながら活動を続け、2021年を迎えようとしている。

その選手たちと比べて今の自分がどうなのか?
彼らの頑張りに対して自分の頑張りはどうなのか?
差が開いたのか、逆に縮まったのか?
足りないものは何なのか?
逆にアドバンテージがあるならばそれは何なのか?

それを知りたい。確かめたい。

だからこそ、試合に挑みたい。

特殊な一年だったからこそ、一人一人にとってその違いがより明確な形になって現れやすいと思う。

ただ、現状はまだまだ余談を許さない。
いやむしろさらに深刻な状況になっている。
試合はおろか、練習すらままならない状況へと再びなってしまうかもしれない。
とにかく今は、個人である前に、共存する社会人として、社会に対して何をするべきなのか?或いは何をしないべきなのか?自分の行動を客観的に、徹底的に注意し、例え限られた範囲の中であったとしても、その中で自分がやるべき事を行っていこうと思う。

少しでも早くこの状況が終息し、移動や人との接触を気兼ねなく行える環境を取り戻せる子とを切に願う。
でもそれはワクチンとか国や自治体の政策を期待するだけの、言ってみれば他力本願的に願うのではなく、自らの行動によって自らが掴み得る未来として考えたいし行動したい。
それはある意味「生き延びる」為の個々の生命力が試されているのかもしれない。

2020年が終わる。そして、2021年を迎える。

来年がどういう一年になるか、不安は大きいけれど、でも期待もそれに負けず劣らず大きなものがある。

明日の自分は今日の自分が作る。
未来の自分は今の自分が作る。
未来の自分が今の自分を振り返った時に「ありがとう」と感謝してくれるように、今も、そして来年も、しっかり生き抜こうと思う。

最後に、2021年が皆さんにとって、人類にとって、素晴らしい一年になることを強く祈ります。

どうぞ良いお年をお迎えください。

今更ながらに思う

2020年12月25日 22時00分00秒 | 日記
最近、練習中にふと思う瞬間があった。

「今のボール、足が動けば楽に打てたのに・・・」と(笑)

足が動けば・・・健常者だったら・・・なんて思ってしまったのだ。

車椅子になってから、日常生活を含めてそう思うことは意外にもごく少ない。

なぜ?

多分、必至だから(笑)

後ろを振り向く暇がないということかな(笑)

それが、練習中にそんなことをふと思った。

自分でも意外だった。

それは集中してないからだと反省。

また、男のタラレバは格好悪いことだとも思うので、その点も反省。

そして、昨日の練習中にふとそのことを思い出したのだった。

けれど、その日はそんなことは微塵も考えなかった。

いやむしろ、それを考えることに否定的な気持ちさえあった。

だけど自分を客観視して、今のボール、足が動けば・・・と考えることが出来ている自分を嬉しく思えた。

足が動かせて、体幹も利いてボディワークも取ることが出来ればこのボールはこう打てる、と自分の感覚でイメージ出来ていることに喜びを覚える。

学生時代の健常者での経験があるからこそだと思っているし、積み重ねてきた結果、その経験という僕の財産はより研ぎ澄まされていると実感している。

健常者の経験があるからこそ、健常者の言葉をより理解出来るとも思っている。

以前から健常者としてのプレイもイメージしていたし、むしろそれを心がけていたのだけれど、それはより明確なものになっているし、その情報の処理能力が最近は格段に上がっているようにも思える。

だから、全体的により良いイメージが出来ているのだと思う。

まぁそんなこと言ったって、所詮は僕ごときのレベルでしかないけど(笑)



一般の「卓球」を前提として「車椅子卓球」を考える、それが僕のそもそものコンセプトなのだけれど、その為の取り組みがまたレベルアップ出来ているのかもしれない。

何をもってレベルアップなのかは僕個人の感覚でしかないけれど。

いぜれにしても成長を実感出来ているのが嬉しい。

手ごたえを感じる、ということなのかな。

でもそれはあくまでも僕の日常の範囲内のことでしかない。裏返せばそれは井の中の蛙と同じ。

それが結果に結びつかなければただの自己満足でしかなく、その正しい評価は試合の結果でしか示せない。

だから、現状はまだ五里霧中、暗中模索の真っただ中だけど、表舞台で結果を得られるようにコツコツと直向きに取り組み続けるしかない。



幸い日本社会においては卓球の情報が数多飛び交っているから、万が一また外出自粛期間となっても学ぶことは尽きない。

国内の複数のトップ選手をはじめ多くの関係者が様々な動画を配信していれば、世界に名だたる大手卓球メーカーは4社、また僕が契約いただいているSTIGAをはじめ外国メーカーも国内では多数取り扱われており、その各社が挙って様々な情報を発信していて、さらには世界で唯一?の卓球専門誌まであるのだから、これほど恵まれた国は他にはないと思う。

それをどのように活かすかは自分次第であり、工夫ひとつで自分磨きはいかようにも出来るものと考えている。

だから、不安はない。

健常者と同じように身体を使えない、動かせないことにも、活動がまた制限される時を迎えることにも。



今年の春の自粛期間はそれこそまさに不安しかなかった。

けれどそれを一度経験しているので、2度目をどうすべきか、何が出来るのか、また前回の反省も得ているので、万が一を考えることはプラスの思考となる。



健常者の卓球を考え、学び、理解していくことで、障害を負い「普通」とは異なる身体機能で、さらには車椅子に座ってプレーする自分はそれとどう向き合うのかを試行錯誤・・・の段階は超えているな(笑)、それをどう自分へとフィードバックさせていくか、そうすることで、車椅子卓球への理解もより深まっていくものだと感じている。

社会や環境への不安、心配は尽きないけれど、それは自分一人でどうこう出来るものではないので、それに対して自分に出来る努力を怠らず、または最大限に配慮し取り組んでいくしかない。

今回のコロナ対策は選挙と同じ。

自分の持つ一票は全体からすればものすごく小さなもの。

でも、間違いなく存在するものであり、投じた一票は社会への流れを成す力になる。

逆に、自分の一票なんて小さなものだから意味ない、選挙に行っても何にも変わらないとして参加しない、投票しないという人もよく耳にするけど、そうした声もまた全体の流れの一つになるし、結果的にはその票が動かなかったことで全体の結果が変わることにもなる。

「自分は関係ない」という思いが社会へ影響を与えることにもなるんだろうな。

だから、選挙と同じ。

人生は見ている方向へ進むもの。

どんな時もそれを忘れずにいたい。

大丈夫、明けない夜はない。

大切なことは、夜明けまでの時間をどう過ごすかだ。

夜が明けた時、その違いが明らかになる。

学び、鍛え、修練に励む。

文武両道、かつ、五常の精神で誇らしくありたい。

と、言うのは簡単なんだけどなぁ(笑)

さぁ、今年も残すところあと僅か。

年末年始?

変わらずやるべきこと、出来ることに粛々と取り組む。

食べ過ぎ注意の精神で(笑)

環境が変わる、環境を変える

2020年12月19日 21時00分00秒 | 日記

「環境」というのは個人にとって社会とか自然・地球とか、あるいは生活とか仕事とか、様々なことを意味するし、それはチェアウォーカーである僕も同じなのだけれど、でも、チェアウォーカーだからこその、健常者には無い、恐らくはチェアウォーカー当事者にしか分からないであろう「環境」というものが存在する。


それは「車椅子」。


車椅子が変わるというのは、全てにおける日常、生活が変わる、そこに変化が生じるということ。

まさに「環境が変わる」ということなのだ。


車椅子も様々な部品で構成されているけど、そのパーツ一つを変更するだけで結構な変化が生じる。

背負う障害の内容によって日常生活における車椅子への「依存度」は異なるけれど、その依存度の高い人であればあるほど、生活という環境における車椅子の存在はより大きなものになる。

僕は脊髄損傷だけれど、両足の機能を失っているだけでなく、胸から下の体幹部分も感覚を失っているので、腹筋背筋も機能せず背筋を伸ばすとか安定した姿勢の維持ができない。だから車椅子に求めるものは移動という車輪の仕事だけでなく、「姿勢」を補う背もたれ部分もとても重要になる。その角度や形状一つで日常生活は一変するし、それが体に合わないものであれば、車椅子に乗っている時間は移動の自由を得る喜びのものではなく、まさにストレスの時間となってしまうのだ。

さらにそれだけではなく、車椅子に乗っている時間が長いからこそ、その姿勢がどうあるかで身体に及ぼす影響はすごく大きいものと考える。姿勢がどうあるかで骨格の状態が変化するだろうし、それによって関節の稼働範囲も変化すれば、使う筋肉も異なってくるだろうから、身体や健康に及ぼす影響は思う以上に大きなものだと思う。


まさに、僕らチェアウォーカーにとっての車椅子は自分を取り巻く大きな「環境」であるのだ。


そんな僕が、その環境の変化にチャレンジしてみた。

影響の大きなことであるだけに、計画的に、時間をかけて挑んだ。

スポーツ活動を行なっていくうちに自分自身の身体の変化、ある意味成長は実感していて、それによって今の車椅子では「身体に合っていないのではないか?」と思うようになり、また、以前は出来なかったけれど今ならこれは出来る、あれも可能だ、といった思いからも、更なる高みを目指す為に「チャレンジ」を選択したのだった。


結果的に、そのチャレンジは「成功」したと現時点では確信している。

得られるものは大きかった。それもまた確信的であり想定の範囲内なのだけれど(笑)

他の人が車椅子をオーダーする際にどのようなリクエストをしているのかは分からないけれど、自分がイメージする車椅子は明確だったので、まず自分が求めるその形の有無を確認した上での決断であり、さらに特殊なオーダーはないけれどそれなりに細かな注文をさせていただいたのではないかと思っている。


そうして自分の「環境」に変化を「生じさせた」。

案の定、その変化を実感している。いや、痛感している。

同じトレーニングをしても、負荷が変わった。

だから、同じ負荷で同じ回数をやっただけなのに、筋肉痛が生じた(笑)

筋肉痛が生じていないメニューでも、体感する負荷は異なった。

慣れの問題でもあるだろうけど、この違いは明らかに身体の動き、或いは姿勢の維持に変化が生じているからであり、それが継続した場合に身体への影響がどう現れるのかが不安でもあり楽しみでもある。

そして、僕にはさらにその先にも見つめるものがある。

人から与えられる、ある意味植え付けられる情報をただ鵜呑みにして生きていきたくはない。自分で得た、これだと確信出来た情報を元に、自分の人生という道を歩んでいきたい。それこそまさに車椅子で。

そうやって自分の環境を自分自身で変化させ、高みを目指して自分自身を成長させていきたいのだな。


自分を取り巻くマクロの意味での環境は絶えず変化しているし、それを自分でコントロールするなんてことは一人の人間で出来るレベルではない。けれど、そうした環境変化の中で自分がどう生き抜いていくのか、それは自分で変えることの出来るミクロな環境、自分で選択出来る環境の変化によって変わるものだと思うし、でもそれをその場の思いつきでたまたま成功しましたなどではなく、明確なベクトルを持つことによる正しい判断を重ねて、それこそ確信的に成長していきたいし生き抜いていきたいものだ。


環境の変化により活動におけるマネージメントにも若干の変更、修正が必要だと思うようになった。それが「アップデート」なのだと考えると、日常の楽しみがまた一つ増えた感じで嬉しく思える。

幸せだ(笑)


東京に限らず日本全国、いや世界中で、コロナ危機は深刻さを増している。

僕自身の活動もまた春の自粛期間と同様のものを想定したりもしているし、いつそうなっても不思議ではないとも思っている。

けれど、顔は前を向いて、気持ちは上を向いて、たとえ引きこもり活動を強いられる状況となっても、それでも出来ることはあるし、既に一度経験済みなわけだから、それを全く否定するものではなく、でもそうなって欲しくはないわけだから、そうならずに済む選択を自分自身が正しく出来るように取り組んでいきたい。


コロナ禍の終息、直接的には僕個人が出来ることはただ祈るだけかもしれないけれど、間接的には僕の行動がそれに小さな影響を与えることも出来る。

チリも積もれば山となる。大好きな言葉だ。

大きな環境に対しての自分の存在はまさにちっぽけなもの。

でもそれを悲観しない。

1人の行動が社会の進む方向を、分度器上の90度から90.00001度へと変化させるならば、僕の行動はまさに環境への変化を与えている。

どんなに小さくても、ここにチリは存在しているのだ。


ミクロな環境の変化という小さな成功体験が心に大きな栄養を与えてくれる。

さぁ、筋肉痛に怯むことなく頑張っていこう!(笑)


何かしらチャレンジしていなきゃならんな、と

2020年12月09日 22時00分00秒 | 日記

毎日を考えながら生きていかなきゃならないというのは、両親からも祖父母からも小学校の先生からもたびたび言われてきたことで、大人になった今、そんなこと誰でも言われなくたって分かってるよ!と思うことでしょう。

けれど、考える、考え続けることって、逆の見方をすれば面倒で疲れることだし、できればそうせずにいられることが「楽」なもので、本当は何もしないで、何の変化もなく今がずっと続くこと、もしかしたらそれこそがある意味理想の人生なのかもしれないし、少なからず誰もが心の中で願っていることでもあるでしょう。

でも現実的にそれは夢物語。時間は絶えず流れ、全ての物事は変化していくから、その中に身を置く僕達はその変化にどう対処すべきか、生き抜いていくのか、常に考えながら生きることになる。

そして、考えるからこそ人間は進化したのだという。

脳の進化に伴い神経から筋肉も変化。その情報がDNAレベルで維持されて生物としての進化となるらしい。

テレビで言ってた(笑)


頭で考えて、身体を動かして行動する。

それが進化へとつながるということだった。

やはり進化の根源には「チャレンジ」という「考えて(想像して)」「行動を起こす」ということがあるわけで、進化とは個人の成長の縦軸の集合体なのだと理解できた。

何もそれは物理的なことだけでなく、文化という点においても同様のことが言える。

そしてそれを自分に当てはめる。


今の自分にとって物理はまさにフィジカルであり、文化はパラ卓球となる。


僕個人の成長が進化とはならないけれど、結果的にその一役を担うことは出来る。

卓球という文化を思えば、荻村伊智朗さんや長谷川信彦さん、河野満さん、江加良、ワルドナー、チキータの生みの親と言われるコルベルなどなど(僕個人の印象)、歴史に名を残す方々はたくさんいるし、表立って名を残していなくてもその礎となった方々も大勢いらっしゃって、さらには誰でもその一員となることが出来る。

進化の過程の一役を担えるのだ。

それは、「考え」、そして「行動する」からこそだと思う。

でも、歴史に名を残す方々はそうしたいから頑張った訳ではなく、あくまでもそれは結果的なことでしかないはず。最初からそれを狙ってというのは違うように思うし、ある意味邪なことなのかもしれない。


また話が大きくなった(笑)

とにかく、まず考えて行動すること。

それが既知のとこであれ未知のことであれ、自分自身にとって新たなことにチャレンジすることが大切なのだと思う。

障害を持つ身体だからこそ、身体能力の個人差もより大きくあり、未知の部分がさらに広がっている。でもそれは視点を変えれば「それだけ可能性がある」ということ。それだけ伸びしろがあるということなのだ。

だからこそ、チャレンジしないともったいない。

あくまでも僕の勝手な持論だけど、その障害であるが故に常識では出来ないと言われることでも、障害の常識というのは超ザックリの大きな枠組みでしかなく、実はその範囲内でも出来る事は努力次第で様々あって、さらにその範囲は努力次第で拡大していけるものだとも思っている。

障害者だからこそ、人生におけるチャンスはより広く、大きく存在しているのだと思うのだ。

だから、自分が思うことに挑戦する。

もしかしたらそれは「なんだそんなことか」とか「馬鹿げたことを」とか、人から笑われるようなことかもしれない。

それでも良いのだ。

人は人、自分は自分。それはそれ、これはこれ。

「世の中の 人はなんとも言わば言え 我がなすること 我のみぞ知る」

と、日本の偉人も言っている。

自分なりでいい。

新しいことにチャレンジする。

そして、それをクリアする。

すると、それが成功体験となり、自身にとっての財産となる。

そして次はもう少し高いハードルに挑む勇気が湧く。

そしてまたチャレンジする。

その繰り返しで人はどんどんスケールを増していく。

それが成長であり、世代を超えたその積み重ねが進化になるのだと思う。

ついでを言えば、僕は「慣れる」こともまた成長の一つと考える。

自分に都合の良い方向で考えるプラス思考故(笑)

とにかく、自分の世代で進化を止めちゃぁならない。

むしろ逆に自分がその進化を大きく伸ばすみたいな、それくらいの意気込みで頑張らなきゃならない。

歴史に名を残す人はそれをやり遂げた人。そういうことなんだろうな。

さぁ頑張るぞ!

こんな状況でも前を向いて、上を向いて、自分にとって都合の良いことを考え、都合の良い方向を向いて頑張っていこう。

明日もまた小さなチャレンジを!