車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

ダブルス問題

2021年02月25日 23時54分56秒 | 日記
都内ではなく地方でのパラ卓球の大会開催の連絡をいただいた。

でも僕は周囲に相談というか確認の上、その大会には出場しないことを決めた。

ほぼ即決。

今回はその理由を書こうと思う。



大会開催の知らせを複数の友人からもらい、ついに来た!とノリノリだった。

でも大会要項を見ると(それは団体戦なのだけど)ダブルスを含む試合構成になっていた。

ダブルスかぁ・・・

と、そこで気持ちが立ち止まる。

というのは、去年5月に日本卓球協会がプレーヤーと大会主催者それぞれに向けてこのコロナ禍における感染対策のガイドラインを打ち出しているのだけれど、その中には「ダブルスの自粛」というものがある。

当面の間「ダブルスの練習は避けることを推奨」「シングルスのみを推奨」とある。
これはITTF(国際卓球連盟)のガイドラインに準拠するものだそうだ。

確かに、密を避けるという点においてダブルスは選手同士の距離がかなり近くなるので、その話を聞いたときに「そりゃそうだ」と納得した。

でもまぁ、現実的にダブルスで感染したなんて話も全く耳にしないし、ダブルスにどれだけリスクがあるのかという「エビデンス」も見受けられない。スーパーコンピューターでそのリスクを計算すると、どの方向にせよ想定外な結果が出るかもしれない。もっとスキンコンタクトの激しい競技は多々あるわけで、それらが全て禁止されているわけでもなければ、その選手の皆さんも細心の注意をしながら日々頑張って活動されていると思う。

ダブルス・・・

「大丈夫なんじゃないの?」

とマインドBがささやく。

「禁止」じゃなくて「自粛」だし。

そろそろ試合したいし。

でも、今回は出場しないことに決めた。

貴重なチャンス、すごく残念だけど。



「禁止」じゃなくて「自粛」

別に僕は自粛警察を肯定するつもりもなければそれを好みもしない。

「自粛」はあくまでもその選択権を自分が有していることになるし、「禁止」ではないから対策を「しっかり」行っていれば認められる、いや、否定はされないことだと思う。

まぁその「しっかり」を科学的根拠に基づいてとか数値化してというのが後の争点になりそうで怖いところでもあるけど。

いずれにしても「自粛」というのは、主催者側、プレーヤー側にその選択権があるということで、それに参加するかどうかも個人の判断が認められるということになる。

言ってみれば、「ルール」ではなく「マナー」といったところか。



これだけ長い期間、我慢が強いられているのだから、誰にだってストレスは生じている。

僕もそうなのだけど、とにかくまず「試合をしたい!」という気持ちが強くある。

「リスクがある」と言われていても、そのリスクが数値化、あるいは具現化されていなければ中々実感出来るものではないから、リスクを「感じる」こともなく人はスルーしがちだろうし、「したい」という欲求がそれを遥かに上回るのがまさに人であり、それが多数を占めるものだとも思う。

でも、その欲求という「主観」と、自分自身を俯瞰する「客観」のバランス、自分がどの道へ進むのかその舵取りがまさに人生そのものだと思っている。

一個人として自分がどうしたいかだけでなく、僕たちは「家族」「市民」「国民」「職場」「所属(登録)団体」などそれぞれ何かしらの立場にあるのだから、公人として自分がどう判断・行動すべきか、その「私」と「公」のバランスもまた大切だと思う。

その点において、幕末の吉田松陰は幼少期に叔父からかなりのレベルのスパルタ教育を受けていたらしいけど、僕は公私の分別をそこから学ばせていただいた。

同時代の偉人達、橋本佐内、山田方谷、河合継之助、高杉晋作、川路聖謨、江川英龍、渋沢栄一、さらには緒方洪庵なども同様ではなかろうか。

みんなそれぞれ「私」を持っているのだけれど、同時に「公」も有している。

僕たちは個人として「権利」を持っているけれど、同時に社会に対しての「義務」も有している。

だからどう行動するかも大切であり、それを偉人達から学ぶことが出来る。



そりゃぁ試合は当然出たい。

でも今最も優先すべきものは何なのか。

僕の場合、今回は「私」ではなく「公」の視点で判断をしそういう決断をした。



練習を含め「ダブルスは控える」という指針が出ているので、もちろん、この一年ダブルスの練習なんて一度も行っていない。

「半分遊びみたいなもんだからダブルスの練習なんてしなくてもいいよ」とすると、そんなリスクを伴った遊びをしていいの?ともなる。

それもまたおかしな話。

もし万が一申し込み期間内に「ダブルス解禁」が発表されたら、その時はあらためて考えると思う。

解禁されたからといって必ずしも安全になったとは限らないし、シングルスだって環境によってはまだまだ不安でもあるから、そこも細心の注意を払いつつ、何でも良いではなく自分の意志で見極め、責任をもって判断、行動を取らなければならないとも思っている。



このコロナ禍を抑えるのは政府でも自治体でもWHOでもなく、自分自身の注意と努力、それとある意味我慢でもあり、ひとりひとりのそれだと思う。

「社会」というのはそういう「物体」が存在するものではなく、「個」の集団により生じるものなのだから、その「社会」を動かすのもまた「個」の集団の力だと思う。

余談になるけど、「社会」を動かすそれ以外の力となるとそれは「外圧」であり、人以外の力となればそれはまさに「天変地異」であり「自然災害」であり、それこそ今のこのパンデミックがそうなのかもしれない。事実、人類の歴史から鑑みればパンデミックはその後の社会に大きな変化を生じさせているといわれる。



試合はしたい。

自分の立ち位置を確かめたい。

でもそれは「私」的発想であり、「公」としての自分はどう行動すべきなのか、冷静に判断する。

品行方正。

今も両親から度々言われること。

わかっちゃいるけど・・・ですね(笑)

まぁ、日々精進、明けない夜はない。冬来たりなば春遠からじ。

過去の偉人たちの困難や苦労に比べたら、今の僕らなんてまだまだかわいいものだ。



晴れて、大手を振って試合に出場できる日が来ること、そして、このコロナ禍の終焉が少しでも早く訪れることを切に願う。

さぁ、明日も頑張っていこう!

出会いも進歩も偶然の産物には必ず下地がある

2021年02月21日 13時28分40秒 | 日記
オフの週末にノーアラームで睡眠を取る。

春眠暁を・・・という言葉があるけれど、まさにその通りの長く深い睡眠(笑)

長い夢まで見ることが出来た。

それは僕に取って実に久しいことで、内容はともかく、そうした夢の見方がすごく懐かしく、また嬉しかった。

ゆっくり本を読んだりして過ごせたから、脳がいつもとは違う、ある意味以前の思考が優位に立ったようなことなのかな?なんて考えたりもした。

いずれにしても、学生の頃、20代の頃と変わらない自分を確認できた思いで、テンションが上がる。

ついでを言うと、その長い夢の中にはフランス料理店でサービスに従事する自分も出てきて、その時反射的に取った行動が実に自分らしく(笑)、昔取った杵柄は未だこの手にあり、今でもそれが自然と出てくる自分をすごく嬉しく思った。

あらためて思う。経験は財産だ。

その大きさは、それにどれだけ真面目に、一生懸命に取り組んだか、それ次第なのだと思う。

目覚めてカーテンを開けると、空は雲ひとつない澄み切った青空で実に清々しい。

でも、花粉が怖いので窓は開けない(笑)



さて、最近練習をしていても勉強をしていても、自分で「おお!」と思える瞬間が続いている。

技術的なこと、戦術的なこと、身体の動き、人との出会いやコミュニケーションなど、別段新しいことを行うのではなく、従来のメニューを行なっていく中で、「あ、そういうことか」とそれまで理解できていなかったことがふとした瞬間に突然腑に落ちたり、新しいことに気づけたり、出来なかったことがスッと出来るようになっていたりと、嬉しいことが度重なっている。

水平に動いていたものが突然垂直方向へ向きを変えるような、自分で言うのもなんだけど、そんな変化を感じている。

あぁ、早く試したい。

でもその変化は単なる偶然の産物ではない、とも思っている。

それは間違いなく下地があるからこそ、だと思う。

超手前味噌(笑)

でも逆に、それを実感出来れば、モチベーションはさらに上がる。

前と言わず上を向いていける。

困難に立ち向かえる。

もっと頑張れるってことだ。

まさに「成功体験」なんだな。



その下地はまさに環境の恩恵でもある。

僕を取り巻く周囲の方々があればこそ。

先日の練習でもまさにそれを痛感できた。

今この環境がなければこのことに気づけていなかったし、理解することは出来なかったと痛感もした。

実にありがたいこと。



全てのことにおいて理解力を上げる為には、その基礎となる知識・学力が欠かせない。

ことスポーツにおいては実際に体を動かす訳だから、知識だけでなくそれこそフィジカルという物理的要素が欠かせない。
スイングスピードは理論だけでは上がらないのだから。

健常者でも同じ動きをする時に、手足の長さだけでなく筋力も骨格も関節の可動範囲も人それぞれ違うから、出来る出来ないもやり易さの違いも人によって違ってくる。

パラになるとそのフィジカル面にさらに障害という「個性」が加わるから、それをどう克服するか、回避するのかの創意工夫が必要になるし、障害そのものが十人十色であれば尚の事、絶対的な参考は無きに等しいから、もはや個人個人で、自分で考えていくしかない。

けれど、改善に取り組むにも障害があるが故にトレーニングも一人では出来ない、或いはサポートがなければ危険というものもある。

・・・パラスポーツは大変だ(笑)


じゃぁどうする?

そこも人それぞれ。

言ってみればそれが分岐点。

自分が進みたい方向をしっかりと見定め、そこへ向かって進むべき道を自分の足で進むしかない。

自分で選んで自分の力で一生懸命に進んだ道であれば、例えその道が途中思いがけず行き止まりになったとしても、きっと後悔は無く、また別の一歩を踏み出せるはずだし、清々しい思いでその道を振り返ることが出来るはず。



僕は更なるステップアップを行っていきたい。

その為に何をするか。

それも誰かに教えてもらうのではなく、まず自分で考える。

考えて、やってみて、確認し、また確認してもらって、さらにアップデートしていく。

この一年間、試合もなく外との交流もほぼほぼ無かったので、積み重ねたものに自信があったとしてもそれは井の中の蛙とも言えるから、そろそろいい加減にその確認と自分の立ち位置をまず確認しておきたい。

そして次のサイクルをどのようにしていくのかも考えたい。

でも、感染対策も怠らないようにしなければならない。

う〜ん、これもまた分岐点か。

自分の都合を押し通すのは簡単なことだけど、それが周囲にとって、社会にとってどうなのか、その判断もまた不可欠。

う〜ん、悩ましい・・・

とにかく、今何が出来るのか、何が必要なのかをしっかり考えて、それに自信を持って取り組んでいくこと。

結果的にそれが次への下地になっていくのだと思う。

全てのことを計画的に行っていくことも大切だけど、次の瞬間という未来は誰にも分からないものなのだから、まず今を一生懸命に生きていく、それこそが未来への下地になっていくことなのだと思う。

いや、僕はそう確信する。

そういう思いを胸に抱きながら、オフを楽しむ(笑)

好きな小説を読むのは良い。頭を使って情景をイメージしながら読むから。対して漫画はイメージの必要がないから楽だ。だからリラックスできる。それを使い分けることで、同じ時間を過ごすにも心身に与える影響が変化するだろうし、心身の成長もまた道を分けるのだと思う。

それもまた分岐点。

今日はどう過ごす?

なんて考えることが楽しい(笑)

やっぱり食事は大切

2021年02月13日 20時32分29秒 | 日記
あらためて思う。

常々思うことだけど。

僕は学生時代のアルバイトからパラ卓球を始めるまではずっと飲食業で現場に立っていたし、それ以降もしばらくの間は飲食業に関わっていた。

それもホテルやフランス料理店という非日常空間をステージとした飲食。

だから、その根幹には「贅沢」というキーワードがあったし、常々それを意識していた。

「贅沢=心の栄養」みたいなところがあるのだけれど、だから逆に、直接的な体への栄養、食材の栄養価やカロリーには無頓着で、良いものを美味しく食べる、食べたい時に食べたいものを食べる、それこそが「幸せ」だとして食を捉えていた。

ついでを言えば、その結果運動量の少ない車椅子になってから体重は激増。
今よりも30kg近く太った(笑)

そしてパラ卓球に出会い、まずダイエットに取り組み、増えた分の約30kgの減量に成功。
同時に身体づくりも意識的に行うようになり、今に至っている。

その時、僕の中で大きく変化したのは食。

それは具体的な食生活というよりもむしろ、自分の中での食への意識だった。

贅沢を否定するものではない。

それは大切だと今でも思っているし、心の栄養としてむしろ必要なことだとも思っている。

だからその演出やサービスにおいては依然高い意識を持っているつもりだし、そうすることの楽しさや喜びは今も変わらず持っている。

飲食業で僕はサービスに従事していたので、その部分には人並み以上の意識があると自負しているし、実際に様々なシーンでの業務を経験している。



そもそも、味覚というのは感情で変化すると思っている。

僕がよく例えに使うのは、四畳半の部屋で一人ぼっちで食べる世界最高級のオマール海老(最高級のフォアグラとトリュフでもいい)と、憧れの芸能人と一緒に公園で食べるおにぎり、どっちが美味しい?と。

味覚も食べたいという欲求も、感情や心境によって変化するものだし、外的要因で「変化を加える」ことも出来る。だから、サービスや演出が重要だと僕は学んだ。



そんな僕が、心の栄養よりもストレートに身体の栄養を意識するようになった。

その変化には自分でも生活の中で感心することが多々ある。

そして、それを行動に移した時、飲食の知識や経験が思っている以上にプラスに働いていることを嬉しく思う。

人生に無駄はないのだな、きっと。

以前、アスリートフードマイスターの授業にゲストとして参加したことがある。

その時、自分でも時々作るラタトゥイユについて質問をさせていただいたのだけれど、「アスリートからラタトゥイユなんて言葉が出るなんて思わなかった」と言われたのが印象的だった。
僕に言わせれば、ラタトゥイユなんてのはむしろ基本中の基本みたいな存在で、それを料理にどう派生させていくか、その定義は?その調理法は?その文化的背景は?なんてレベルで料理人仲間ともいつも話をしていたから、単語ひとつをそう言われたことで、「僕が今いるステージは全然違った世界なんだ」と実感した記憶がある。

他にも、アドバイザーへチーズについて質問した際や調理を教わる際にも同様の印象を受けたことが度々あった。



でも、僕が持つ知識は「いかに美味しく食べるか」であって、「いかに効率よく栄養を摂取するか」ではない。

だからこそ、必要な変化の大きさを痛感したし、逆に「食」という世界に深く関わっていた経験が大きな財産となったのは確かなことで、新しい世界へ挑むにあたってのハードルは実に低く、いやむしろ無く、新たな扉を開きその先に見える世界には楽しみ、喜びしかないと感じたことは間違いない。

そして、専門書を含め色々な本を読むなどしていても情報の消化吸収にあたってはことのほかスムーズで、それ自体を大いに楽しめていたりもする。

何よりも、「美味しく作る」ことだけでなく「身体のために」を考えながら食材を選び調理をする、その楽しさを得たことが人生のプラスになったとも思っている。

逆にそれを得ていなければ、今の自分はないだろうし、これから先の自分も大きく道を違えていただろうと思う。

これもまたスポーツの恩恵。



あらためて思う、食は大事。

人は食べたもので出来る。

身体は食べたもので作られていく。

でも、腸内環境なども含めそれらは未だ全てが解明されているわけではない。

むしろ、分かっている範囲はまだまだごく狭いものだとも思っている。

そんな中で、何を食べれば良いのかだけではなく、やはり心の栄養も大切だとも思う。

どこで、誰と、どのように、そして何を食べるか、それも重要。

それが「心の栄養」に直結するから。

「食べることは体の栄養、それを『楽しく』食べることで心の栄養も摂取することができる」が、若い頃に学んだこと。

30代まではそれを信念として食と向き合ってきた。

40代からはそこにさらに「何をどう食べるか」が加わった。

自宅には様々な専門書を多く持っているけど、最近そこに加わるのはスポーツ栄養学的な書物。

それを完璧にこなしていくことはかなり難しい。

物理的にも専門家レベルの知識と技術を要するし、時間的金銭的コストも大きくなる。

また、様々な点で制約を設けることにもなるから、ある意味食における「贅沢」とは真逆の方向へ向いていることになるし、それが心の栄養に繋がるかどうかは個人差もあるだろうけど難しい部分も少なくない。

そのバランスをどう取るか?

それこそがアスリート・マインドの問われるところなのかもしれない。

そんな自分を楽しめている。

今これを書いているのも料理の合間の時間だったりする。

キッチンとつながっているリビングはブロッコリーの香りで充満している(笑)

でもこの後はカレーの香りになる予定。

オフの日は料理を大量に作り、あるいは仕込み、ストックして、練習から帰宅したら時間をかけず直ぐに食べられる環境作りをしている。

その時間もまた楽しい。

面倒なのは調理後の片付けか(笑)

そうした段取りを組んで調理することが自然と出来るのも、多くの優れた料理人の仕事を目の当たりにし、彼らと現場を共にしてきたからだと感謝している。



食は文化だ。

グローバル化ということで、その文化は横に大きく広がり、交わり、便利になりつつも、文化を時間という縦軸で考えた場合には、変化とともに失われつつあるものもあるし、核家族化が進むことで食卓という環境の変化から「伝統」や「習慣」という文化の伝達が成されなくなってきていると一日本人としての危機感を覚えてもいる。

大手メーカーのTVCMを見ていても「これが許されるのか」と驚くこともしばしあるし、今は丼ものが様々見られるけれど、江戸時代の武士が見たらそれをどう思うかとも思ったりもする。

「食」は見る角度を変えればその形は大きく変わる。まさに千変万化。

だからこそ、それとどう付き合うか、どう向き合うか、それが大切なのだと思う。

それ次第で、自分自身も大きく変わるし、その先の人生すらも大きく向きを変えるものだろう。

なんて偉そうに言うけど、僕は何か特別なこだわりがあるわけでもなければ、別にオーガニック信者でもなんでもない(笑)

人類の躍進には農薬の存在があったからこそだとも思っているから別段農薬を全否定するつもりもないし、菜食主義でもなんでもなく、動物にも野菜にも同じ「命」があると思っているから動物も植物も同じ「生物」として捉え、それを自分の生命維持のために「いただきます」と思っている。

僕はそれが古代日本人のアニミズム思想から継承されている文化であり、アイデンティティだからこそ大切にしたいとも思っている。

だから、ジャンクフードもお菓子も、ラーメンだって粉物だってなんでも、否定することはしないし、そうしたものを食べたいと思うことは僕も多々ある(笑)

まぁ添加物には多少の恐れを抱いてはいるけど。



とにかく、食は大切。

さぁ、カレーを作ろう。

今回は豚ひき肉と玉ねぎでカレーソースを作るつもり。

玉ねぎは先ほどすでにシュエしてある。

野菜は茹で野菜をトッピングすればいい。

今回茹でたブロッコリー、茹でる際の水を硬水にしてみた。

いつもよりも甘さを強く感じるけれど、それが水の恩恵なのか野菜のクオリティなのかは不明(笑)

自己満足でいいのだな。

自分で作る料理はそれでいいとも思っている(笑)

そして、カレーは作るとしばらくそれが続くことになるとも思っている(笑)

今年もジャパンオープンの開催中止が決定・・・

2021年02月06日 13時34分40秒 | 日記
毎年3月に開催されるジャパン・オープン、今年は神戸で開催予定だったけれど、先日その中止が発表された。

こういう状況だから仕方ないとは思う。

パラ卓球の場合はボランティアの方々もより多くに協力いただくし、車椅子利用者は導線が限られるなどの問題もあるから、賢明な判断が下されたとも思っている。

もちろん、僕に限らず選手はみんなそれに向けて準備をしてきたし、特に僕は自分の中で課題や目標も設定していればイメージするものもあったので、いざ開催が無くなったとなると、それは残念で仕方ない。

けれど、大会の中止によって何かを失ったという訳ではない。

それに向けて積み重ねてきたものはしっかりとこの手にある。

何も失ってはいない。

だから、何も残念に、また、悔しく思う必要はない。

次がいつになるかは全く不明な状況となったけれど、その時に向けて粛々とまた積み重ねていけばいいだけの話。



まぁ正直な話、時間を得たということになる。

ステップアップの為の時間を。

新しいことにチャレンジすることは誰だって、いつだって出来る。

でもチャレンジの途中で次のステージを迎えてしまうと、技術を含め物理的な点においてもメンタル面においても中途半端な状態となってしまうので、それはプラスではなくマイナスの効果を生むことにもなりかねないから、やはり新しいことへのチャレンジはタイミングが大切になると考える。

チャレンジして、それをものに出来るだけの時間を有するタイミングが必要なのだな。

第一に、チャレンジしてみる新しいことが、まず自分に相応しいものであるかどうかの判断にはそれなりの時間が必要だということ。

直感的に「良い!」「あ、ダメ」と判断することは容易い。

けれど、直感というのはまさに主観。

そこには客観的な分析も必要だと僕は考える。

だから、時間を要する。

そして、必要なものを見つけた時、それを「自分のもの」にする為には、そこからまた更なる時間を要すると思う。

一朝一夕なんて、そんな都合のいい話はそうそうないし、特に僕はぶきっちょだから人よりもより多くの時間がかかる(笑)

だから時間を有するのだ。



でも、今がその時間なのかもしれない。

いや、それは既に一年前から始まっている。

この一年をどう過ごしてきたかで今の立ち位置は大きく変わっているはず。

それを確かめる試合がまた失われたわけだけど、自分の立ち位置がどの辺りにあるのかが分からなくたって、今ここに自分が立っていることはゆるぎない事実なのだから、五里霧中、暗中模索であったとしても、今は少なからずいろいろ考える時間の余裕もあったりもするので、地に足をしっかりとつけて、これぞと思う方向へ自分の足で、自らの意志で、前進していけばいい。

足を動かせない車椅子だけど(笑)



そもそも試合というのは「試し合う」ことなのだから、それぞれの日々の積み重ねを披露し、その成果を確かめる場なのだ。

だから、極論を言えば、「試合に向けた練習」というのは、日々の積み重ね+αのものであるべきで、それがトップアスリートのいう「調整」というものだと思う。

それを、試合があるから練習する、なんていうのは言ってみればテスト前の一夜漬けに過ぎない。

そんな勉強法では基礎学力の向上にはならないし、そこで得た知識は忘れるのも早い。身に付きにくいということだ。

自分がそうだったからよく分る(笑)

だから、大切なのは毎日の積み重ね。

その点が続いて線になっていて、その途中で試合というポイントがあるのだな。

僕たちはどのポイントに焦点を当てて、その為にどう進んでいくのか、それを常に考えて、時には修正を入れて、日々積み重ねていかなきゃならない。

試合の予定が定まっていない今は、まさに先述した五里霧中でなかなか苦しい状況にある。

けれど、毎日の努力が大切なことに変わりはない。

だから、現状を悲観している暇はない。

やることをやる。

でも一社会人として、やるべきでないことはやらない。

例えやりたいことでも我慢しなきゃならないこともある。

やるべきことを積み重ねていく。

自分の足で、自分を前に進めていく。

車椅子だけど(笑)



とにかく今は、少しでも早いこのパンデミックの終息を願う。

日本だけでなく世界中の。

そして、また海外の連中と顔を合わせ、それこそ「試合」が出来て、グータッチや握手が出来て、ハグし合える、そんな日をまた迎えられることを切に願う。

その為にもしっかり頑張るぜ!