車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

練習動画の公開

2020年07月28日 17時17分45秒 | 日記
コーヒーを淹れて一息、中学生の頃からずっと好きな曲を聴いていた時だった。

「この星空の下で・・・」という歌詞が流れてきた。

そういえば、最近ずっと星空なんて見てないなぁと思った。

ただでさえ星の見えない夜空の東京、最近はずっと雲に覆われていて星はおろか日差しさえも久しいほど。

ましてや、星の見えるところへの移動も自粛すべき状況だから、「この星空の下で」というフレーズに強いインパクトを覚えた。

でも、今の状況がずっと続く訳ではない。

移動の自粛はもうしばらく続くとしても、もう少ししたら星空とまでは言わなくても夜空を見上げることは出来るはず。

その歌は「眠れぬ夜は来るけど、二度と来ない昨日に変わる」とも言っている。

だから、また夜空を見上げて、明日を迎えられたその時の為に、今出来ることをしっかりと行っていなきゃならないのだ。



詩人だなぁ(笑)



さて、今回は自分の練習動画を公開しようと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=eqTmvdLeVa0

何故?

ズバリ自慢です(笑)

何が?

だって、相手が凄い方だから。

あの塩野真人さんです。

車椅子の僕が、まさかこんな方に相手をしてもらえるとは・・・という自慢動画(笑)

塩野さんと打てる機会があったので、じゃぁ撮影させてもらおうと企画。

これまでに練習動画等をいくつか公開してはいるけれど、用具も含め当時とは変更も生じているし、現状の用具でフォアを打っている動画も無く、であればこのチャンスを活かすべし!ということに。



僕はずいぶん昔とはいえ、なまじ健常者での経験があるので、自分の理想とする打ち方、フォームのイメージをそれなりに持っています。

でもそれはあくまでも健常者の頃の感覚。

さらにはボールもルールも違っていた時代。

今の身体でそれと同じことをするのはむしろハイリスクであり非効率的。

それを踏まえた上での今現在の自分のフォームや打ち方を試行錯誤している現状で、それはまだ完成には至っていません。

一般の方からすれば「変な打ち方」と思われるかもしれませんが・・・うん、確かに変ですね(笑)

自分の理想とするイメージとはまだまだ違っている。

でもこうして客観的に見るといい勉強になるし、課題にしていることがしっかり出来ていないと反省もします。

自分の動画を見るって大切だなぁ。

車椅子だからこその、自分の身体に合わせた効率的なフォーム、打ち方、そして戦術を掴んでいかなければなりません。



ちなみに、最後の方で塩野さんにカットしてもらっていますが、これは塩野さんが僕に合わせたボールを「送ってくれている」から打てているだけです。

ガチのカットだったらまず持ち上がらないと思います。

ミートしてネット超えるわけないし・・・

回転の変化も見分けられたかどうか・・・

ですので、カット打ちの参考にはなりませんのでご了承ください(笑)

もし参考に出来るとしたら、せいぜい同程度のクラスの車椅子の方、あとは、車椅子の僕と肩の高さが同じくらいのジュニアの選手、または小柄な選手など、かと思います。



でも、何よりもまず、こうして練習できる、台についてボールを打てることが本当に幸せなことで、まずそれに感謝です。

風を感じるほどに換気を常に行う状況というのはこれまでの卓球の常識ではありえないことですし、マスクを付けて打つなども同様で、今までの常識では考えられないことも多々ありますが、それでもこうしてボールを打てる、プレー出来る、これは本当にありがたいことであり、素晴らしいこと。

その為に卓球場のコーチ達は毎日見えないところで努力を重ねています。

いつも以上に早い時間から換気をし、準備をし、利用者が変わるごとに各所の消毒などの作業も増えて大変なはずです。

その努力があるから僕はこうしてボールを打てている。

何か差し入れしなきゃ(笑)

とにかく今は自分のコンディショニングだけでなく、その場を共有する人たち、また社会への配慮も不可欠な現状ですから、自分自身細心の注意を払って行動しようと思います。

いつかまた見上げるであろう星空を、美しいと思える心でいる為にも、その時の為の準備を今しっかりと行っていこうと思います。

新大関の言葉が響く

2020年07月16日 22時28分20秒 | 日記
ニュース番組を流していた。

僕はキッチンにいて画面は見ずに音声だけを聞いていた。

すると、スポーツのコーナーで相撲の話題を取り上げていた。

その中心は親大関だった。

この状況下、課題はあれどこれまでとは異なり思うような稽古が出来なていないといった報道だった。

けれど、そんな新大関のコメントが耳に響いた。

「これまで自分がやってきたことを信じて」

キッチンで作業をしながら、さすがだなと思った。

信じられるだけのことをやってきたからそう言える。

胸を張れるだけのことをやってきたからそう言える。

僕の胸に刺さった。

この言葉を口にするのは至極容易い。

でも、その言葉にどれだけの重みがあるか、真実味があるか、それは「誰が言ったのか」によって異なる。

それはもちろん聞き手によっても異なるものだけど。

僕の場合、彼が言うから耳に響いたのだと思う。

いや、他にも響く方は大勢いる。

でも、正直、響くかどうかは人による。

また、例えば試合前、自分がそう言われたとしよう。

「信じるだけのことをちゃんとやってきたか?」

もしかしたら自問自答するかもしれない。

それはいわゆるメンタルに直結する。

ただ、どれだけやってきたか、それは相手と比較できることでもない。

だから、「俺の方がやってきたんだ!」と思えるだけのことをやる、やり続ける。

それしかない。

そう思える人の「これまで自分がやってきたことを信じて」という言葉は重さが違う。

アスリートであれば尚の事。



「お前が偉そうにいうな」

「知った風な口をきくな」

と叱咤されるかもしれない。

だから、そう言われないくらいにやっていく、積み重ねていくしかない。

言われたくなければそうするしかない。

文化人であれば積み重ねるべきは知識や教養だから、ある意味それは見た目から判断できるようなことではない。

けれどアスリートであれば、競技によりその違いはあれど、まずフィジカルに表れるから案外見た目で分かりやすい。

だからこそ、その見た目で言葉の重さ、説得力は異なってくる。



若い頃に覚えた言葉がある。

「努力は必ずしも報われるものではない」

この言葉には続きがある。

「けれど、勝つ奴は必ず努力した奴」

という。

その言葉からすると、努力をするということは単にそのステージに上がるための必須条件なだけであって、その中で競い合うのは努力以上のものということになる。

「これまで自分がやってきたことを信じて」

という言葉には、単なる努力だけでなく、その更に向こう側にそれこそまさに血のにじむようなものが存在しているのだと思う。



僕の友人のパラリンピアンの名言も心に留めている。

「努力は絶対自分を裏切らない。でもそれで結果が得られなかった時、それは単に自分の努力が足りなかっただけの事。相手の努力の方が上だったってこと。」

どれだけやればいいのか、どれだけ積み重ねなければならないのか、誰にも分からないし、おそらく、絶対の答えは存在しない。

さらに、次の試合がいつになるのか全く持って不明な今のこの状況ではモチベーションの維持もままならない。

でもやる。やり続けるしかない。

そうでなければ、「これまで自分がやってきたことを信じて」なんて言葉を発することは出来ない。

不安な状況はまだまだ続く。

今年は雨の日が一段と多く、しかも長く続いている。

でもやる。

その向こう側に青空が広がっているはず。

いざその時の為に、今頑張る。

新しいことへのチャレンジとその反動

2020年07月04日 10時47分11秒 | 日記
車椅子卓球といってもクラスは5つに分かれるわけで、そのクラスによって、というよりもその身体能力によって、スタイルや進化すべき方向性というか、ベクトルは異なると僕は考えている。

僕は真ん中のクラス3だけど、だからこその学ぶべきもの、進むべき方向を、現段階においてだけど、見定めているつもり。

あくまでも自分なりのものでしかないけれど。

それを踏まえたうえで、「車椅子卓球」を突き詰めていきたい。

そして、最終的にはクラスを超えて戦えるプレーヤーになりたい。

クラスを言い訳にするというのは、障害を言い訳にすることと同じなので、僕の中でそれは格好の悪いこと。

自分基準でカッコいいプレーヤーでいたいのだ。



車椅子で始めた当初は「そんなの無理」と思っていたことにも最近はどんどんチャレンジし、次第にそれが出来るようになっていった。

それには複数の要因があるわけで、それらは全て一朝一夕で得られたものでもないけれど、逆にそれが自分自身の軌跡として明確につかめるから、「じゃぁ今ならあれも出来るんじゃないか?」と、さらに上を向いて、ステップアップを試みていけるようになる。

障害を有する身体だからこそ、出来ないと思っていたことが出来るようになった時の喜びは、いわゆる健常者よりもより大きなものだし、逆に「障害があるから出来ない」というのがスタート地点なわけだから、出来るようになった時との差は想像以上に大きなものであるはず。

その為の努力はより必要とされるかもしれないけれど、「障害があるから・・・」と思っていたことが案外そうではないということに気づくと、その時点で人生観すら大きな変貌を遂げるかもしれない。



ふとしたきっかけから、自分の考えをコーチに提案し、それを練習で実際に試してみた。

そして「うん、それは出来るようになった方がいいね」と、練習メニューに加えることになった。

そしてそれにガッツリ取り組む。

コーチの目にもそれが留まったようで、そのメニューに割く時間が思いのほか多いものとなった。

以前の僕には出来なかったこと。

きっと「それは無理です」と諦めて、別の手段を考えたに違いない。

でも今はそれに正面から挑めている。

手ごたえも得ている。

それに大きな喜びを覚える。

そこに大いなる自信と、これまで積み重ねたものの手ごたえを覚える。

それが結果に直結するかは全く持って不明。

でも、一人の人間として、そうした成長の実感は人生をより肉付きの良いものにし、より濃いものにしてくれている。



ただし、そのメニューには想像を超えた副産物があった。

それは筋肉痛(笑)

練習を終えて帰宅した時点で、いつも以上の大きな疲労感を得ていた。

でもそれは嫌いなものじゃない。

むしろ好きなもの。

けれど、翌日に残るであろうレベルに思えたので、そうしないためのケアをいつも以上に行った。

がしかし、翌朝想定していた以外の箇所にまで筋肉痛が及んでいた(笑)

目が覚めて、姿勢を変えようとした際に「うわ!」と思ったほど。

そんな自分が楽しい(笑)



何事においても成長度合いをよくグラフで表すことが多い。

理想は右肩上がり。

45度一定に上がり続けるのが最も美しいのかもしれない。

でも、遠くから見ると右斜め上に上がっているその線でも、ぐっと近づいて虫眼鏡で見てみると、実は細かく上、右、上、右を繰り返しているもので、案外上に向かずに横に平行線を辿っているような瞬間が多々あって、そして少し上がって、また平行線になって・・・と、そうした動きを繰り返しているものだと思う。

こと卓球においては、右肩上がりは存在せず、垂直と並行を繰り返すものだと元全日本女子代表監督が教えてくださった。

上に上がった瞬間は嬉しい。

でも、頑張ってるのに平行線だと虚しい。イライラもする。

そして、それが長く続くとそこで腐ってしまうし、そうなると線は下に向く。そこでやめてしまうことだって少なくないはず。

これは何もスポーツに限ったことではなく、人間の活動全てにおいて言えることだと思う。

平行線が続けば大半は腐る。

続ける気持ちも、やる気も失せる。

それは本人だけでなく、指導する側も同じことだと思う。

これだけ教えているのになんで出来ないんだ!?となるから。

でも、「平行線の時もある」と指導する側にも理解があれば、指導される側へのアクションも異なってくるだろうし、その関係性やそれを取り巻くコミュニティも違ったものが構築されると思う。

でも最も重要なのは、やはり本人の「やる気」だと思うけれど。

平行線の状態を耐え抜けるかどうか、それは心の強さに違いない。

で、その状態を耐え抜き、やっと上を向いて上がっていく糸口を見出せた矢先に、今度は筋肉痛に襲われ(笑)、また平行線になるのかもしれない。

それでもまた耐え抜き頑張り続けると、ふとした時に「ポン!」っと上に上がるもの・・・だと信じて続けていく。

ん?宝くじ信者みたいになっちゃったな(笑)

とにかく、それまで耐え抜いていけるコミュニティの存在と、親から授かった心の強さ、それこそが人生の財産だなと改めて思う。



僕は人に恵まれている。

僕を取り巻く、取り巻いてくれる方々には本当に恵まれていると思う。

それを天運とするなら、それを授けてくれた両親や祖父母、ご先祖様にまず感謝。

それを活かすかどうかは自分次第。

しばらくはこの筋肉痛と共に平行線を辿っていく(笑)