車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

さすがに不安になってくる・・・かな?(笑)

2020年04月30日 13時57分35秒 | 日記
ゴールデンウィーク。

これまでであれば、休日ということで練習相手も増えるし、試合にも備え遠方へ出かけることなくみっちりと卓球三昧で過ごすことが多かった。

けれど、今年はそうではない。

むしろ真逆。

全く台でボールを打つこともなければ、コーチ達をはじめ卓球仲間と顔を合わすこともない。

外出すらしないのだから。

もう台でしばらく打っていないし、トレーニングをやるにしても次の試合はおろか練習再開の目処すら立っていないような状況では、今何に向けて頑張るのか?と、心の中はまるで薄暗い部屋で体育座りをして自問自答しているようなメンタルに陥っている人も少なくないと思う。



え?僕ですか?



あはははは(笑)



僕は心身ともに至って健全な状態です(笑)

確かに、台でボールを打てないことはものすごく残念であり辛い心境ではあります。

でも、不幸を感じてはいません。

だから僕は幸せを感じることが出来ています。

そう、幸せなのです。



じゃぁ、幸せを感じる為のコツをひとつお教えしましょう。



例えば、自分を評価するポイントが3段階評価で10項目あったとします。

そのうち9つは最低の1が並んでいる。

でも1つだけ最高評価の3がある。

さぁ、これをあなたはどう評価しますか?

9つも1がある・・・

平均はすごく低い・・・

人よりも劣っているかも・・・

と捉える方も少なくないと思います。

でも僕はそうは考えません。

「やった!3がある!」

それだけです(笑)

これをかっこよく表現したのが「プラス思考」「ポジティブ・シンキング」だと思います。

その逆が「ネガティブ」ですよね?

そのどちらを選択するかはその人次第で、もちろんそれぞれの立場で見える景色や見定める方向は異なりますから一概には言えないことだと思います。

でも大切なことは、「1が9つ、3が1つ」という事実は唯一ということです。

そのたった一つの事実をどのように捉えるか、どこに焦点を当てるか、たったそれだけで自分の心は大きく変わってくるということもまた事実なのです。

さらには、そこで9つの1を2に上げていこうとするのか、あるいは唯一の3をさらに高めて、他の人にはない4はおろか唯一無二の10を目指すのか、その方向性を決めるのもまた自由。

その自由の中に「可能性」が眠っているのですから、そう考えるとほら、その先が楽しみでならないじゃないですか(笑)

ちなみに、9つが1でも残る1つが10だと、世間からは「天才」と評されるでしょうし、10までいかなくても3を超えれば周囲の目は変わると思います。

楽しみをもって生きる。

それこそが幸せなんだと思います。



僕は今、卓球をしたくても出来ない毎日です。

とはいっても無理を言えば出来る環境にはあります。

でもやらない。

なぜ?

今はそれ以上に守るべきこと、気をつけなきゃいけないことがあるから。

卓球は一人でやる競技ではありません。

練習用のマシンはありますけど、マシンではその練習の幅は当然限られてはきます。

それでも無理を言って練習する。

するとそこでマシンや台、ボールなどへの接触が生じます。

さらに、誰かと打つことになれば、当然そこにもリスクが生じるわけです。

人を巻き込む、迷惑をかける、そんな事態を招きかねない。

まず社会人として、今はそれが最も懸念されること。

だからやらない。



でも、自宅で独りでも出来ることはある。

分かりやすいのはフィジカル・トレーニング。

練習や試合がないからこそ、逆にトレーニングに集中することが出来る。

いつも以上の負荷をかけて行えるわけです。

そうして身体のチェックも行う。

お!良い動き!

となれば、早く打ちたい!試してみたい!という気持ちがさらに高まる。

それがモチベーションであり、もっと頑張ろう!となって、プラスのスパイラル効果となっていく。

その状態にあれば、台でボールを打てない今を悲観することは全くなく、むしろ今の自分に幸せを感じることが出来ると思うのです。



今、僕にも皆さんの目にも見えている世界はひとつです。

そのどこに焦点を当てるか、違うのはそこだけ。

ひとつの三角錐を見るとき、真横から見れば三角、真上から見れば丸に見えるはず。

同じものでも見方によっては全然違う形になる。

「幸せは見つけるものではなく感じるもの」というのはそういうことなのかなぁと考えます。



台でボールは打てない。

でもトレーニングは出来る。

外出自粛は社会の為に今行うべきこと。

でも買い物は出来る。

だから食生活も通常通りに出来る。

その買い物帰りに自宅周辺を数周するなどしてから帰宅する。

近所を遠回りして、荷物という負荷をかけてのランニングが出来る。

その時に、「良い感じ」と手ごたえを感じることが出来れば、トレーニングをさらに集中して行えるようにもなる。

すると、食事もより美味しくなり、睡眠もより質を高め、毎日がさらに充実したものになる。



このまず最初の一歩は「どこに焦点を当てるか」です。

人を評価するときも同じだと思います。

そのやり方で、あなた自身も評価される。



今は世界中がこの危機に直面している状況ですが、まだまだ先が見えてきません。

スポーツ活動がこれまでと同じように出来るのか、それがいつからになるのか、今はただ不安の中に身を置くだけ。

それはスポーツ選手だけではなく、文化芸能に関わる方々も同様だし、医療関係者のみなさんもそう、社会インフラを支える方々もそうだし、一次産業から二次、三次全ての産業、職業の方、専業主婦の方も、学生さんから小さな子供たち、現役を引退された方々も、人類すべてが恐怖と不安の毎日を過ごしている状況です。

だけど、明けない夜は無い。

朝は必ず来ます。

その時に、気持ちのいい朝を迎えるための準備を今行う。

身構えている奴にしかチャンスは掴めない。

今は、耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶ時。

そういう経験を自分の人生でも出来ることは逆に貴重なことだと言える。



さぁ、悲観せずに頑張っていきましょう。

まずは少しでも早く終息を迎えられるよう、大きな社会の中では小さな存在である自分が、出来る努力をする。

その中で、足元に転がる些細な幸せを感じながら生き抜いてやります。

引きこもり中の生活 主に食事

2020年04月23日 23時01分40秒 | 日記
車椅子であるが故に、感染リスクの高さはより高いのではないかと思っている。

だって、人と接触した際に顔の位置が低いから、飛沫感染のリスクはより高いように思うから。

さらに、車椅子を自分の手で触って動かすので、そういう点でも手指からの感染リスクもより高いと思う。

実際にそうした注意喚起もされている。

万が一感染した場合、収容される病室や隔離施設もそれに対応した設備が必要となるので、通常よりも手を煩わせてしまうことになるし、今のこの状況でそれは何としても避けたいのが双方にとって正直なところだと思う。

だから、車椅子だからこそ、必要以上に引きこもらなきゃいけないと思っている。

といっても全く外出しないということは社会人としてほぼあり得ないことではあるのだけれど。

それでも、食材の買い出しも然り医療機関の受診も然り、極力外出しないで済むように心がけている。



で、この状況下での今の食生活を書こうと思ったら、引きこもり対策の話になりそうなので、そこは間違えないように注意して書こうと思う。

食材のストック?そんなことは誰もが考えて取り組んでいるわけだし、メディアでも繰り返し言われていることだから、その話を僕がここでする必要はないと思うから。



実際のところ、僕の食生活は普段と全くと言っていいほど変わらない。

朝食、昼食、夕飯から補食に至るまで、いつもと変わらずに取れている。

いや、自宅での活動のみなので、補食においてはタイミングから内容に至るまでむしろ通常よりも良いと言える。

前回書いたとおり、トレーニング後に馬刺しを食べたり出来るのだから(笑)



活動は午前と午後に分けて行っている。

これは通常と変わらないリズムで体を動かしたいから。

体内時計を乱さない為、みたいな感覚。

移動の時間が無いので、その分は身体のケアと落ち着いて補食を得られる時間に充てられるから、それは幸いしている。

朝食と昼食も普段とほぼ同じ内容のもの。

「ほぼ」としたのは、極力買い物に行かなくていいようにしたいので、例えば、通常であれば買ってきたパンを食べるところを、自作のパンケーキで代用するなどしているから。

チーズなどの日持ちするものは十分にストックしてあるからしばらく買いに行かなくても平気。

肉類をはじめ魚も冷凍庫をフル活用しているので、その辺の飲食店よりも充実しているかも(笑)

炭水化物はパスタをはじめ乾麺をものすごい量ストックしている。

米もある。

小麦粉も十分にストックしているので、パンケーキ、ホットケーキなどの主食も作れる。

ということで、糖質、脂質、タンパク質は申し分なく摂取できる。



問題は野菜、それと乳製品。

僕の言う乳製品とはヨーグルトのこと。

こればっかりはこまめに買わないといけない。

と言っても週に一度で十分だけど。

野菜は今どき冷凍も充実しているけど、でもはやり季節のフレッシュのものを出来る限りいろいろと取りたいので、これも買い物に行かなければならない。

果物も同様だ。

こればかりは仕方ない。

さすがに「美味しいものを」とまでは言わない。

極力手短に購入できる場所、ものを選んでいる。



調理の時間も通常よりは余裕があるので、そういう点でも充実していると言える。

外出が重なると外食も増えやすいけれど、それは炭水化物が多すぎるとか高脂質な食事などになりがちなので、そういう点でも今の食生活はかえって良いかもしれない。



さらに、僕は甘いものが好きだけれど、最近は全く食べていない。

今の状況では心がけてはいても運動量は必然的に落ちているだろうから、カロリーの消費量もそれに比例しているはずで、それもあり甘いものは取らないことにしている。

食後に欲しいときは、コーヒーにお砂糖を小さじ一杯、あるいは沖縄の黒糖をひとかけら入れて飲むようにしている。

コンビニでも季節もののお菓子類やプリン、バームクーヘンや菓子パンなどが目に付くけれど、「いかんいかん」と自制した(笑)

市販の甘いものは糖質と一緒に脂質も高く取りがちなので、どうしても我慢できない時はお祭りでよく見かけるベビーカステラを焼こうと思っている。

というか、今は焼いてみたい衝動に駆られている(笑)

僕は南部鉄器のたこ焼き器を持っているのだけれど、それで焼いてみたいのだ。

そして、ベビーカステラだと脂質が低いのでむしろ補食にはもってこいだと思う。

もちろん食べ過ぎはダメだけど。



そんな感じで今のこの状況での食生活は問題なく過ごせている。

補食のタイミングが確保できるのが何よりもありがたい。

ネットでの買い物も通常通り出来るので、その内容面も含め不安はない。

後は自分の活動そのものだ。

自分ではしっかりとやっているつもりでも、果たしてそれが十分なものなのか、結果を導き出すものなのか、それは蓋を開けてみなければ分からない。

世界中のみんながやっている。

そこで差が生じているようでは悔しい思いをする。

「あいつ」がどれくらいやっているのかは分からない。

何をやっているのか、どんなことをやっているのかも分からない。

疑心暗鬼。暗中模索。五里霧中。

それもみな同じだと思う。

そんな中でも、とにかく自信が持てるだけ頑張らなければならないのだ。



練習は何よりも大切だけど、それだけではダメだと思うし、それを下支えするだけのトレーニングや食生活、睡眠、心のケアも同じく大切。

とにかく、この危機を無事に乗り越えられるよう、自分の為に今出来ることをやるだけでなく、社会の為に今自分が出来ること、すべきこと、あるいは「しないこと」を徹底していく必要があるのだと思っている。

今の自分は試されているのだと思う。

自分に嘘はつけない。

引きこもっての運動

2020年04月11日 14時04分30秒 | 日記

外出自粛の毎日。

 

でもそれは社会の為にとても大切なこと、必要なことだと思っている。

 

自分がしたいことが出来ない毎日はストレスに違いない。

だけど、今はそうしていなきゃならない。 それはこの先の自分の為に。

周囲の為、社会の為に今自分が我慢することが、結果的には自分の為にもなるのだから。

でも、自宅だけで過ごす毎日に重くのしかかってくる問題がある。

それは「運動不足」。 海外ではベランダを何千回も往復して42.195kmを走ったという人の話を聞いた。

工夫と少しの忍耐を要せば、自宅内でもそんな風にして汗を流すことは出来る。

でも、車椅子だとそうはいかない現実もある。 スペースの問題などがあるから。

がしかし、そこも「工夫」でクリアすることは出来る。

車椅子を動かさずに身体を動かせば良いだけの話。 そこに多少の負荷を加えることで、十分に運動が出来るのだ。

ということで、自宅での運動不足を解消したい車椅子ユーザーへのおすすめとして、僕はチューブを提案する。

ありきたりだけど、その使い方次第で運動の幅はものすごく広がるのだ。

ポイントは、自分がどのような動き、運動をしたいのかを考え、それにはどの方向からの負荷が必要かを考えること。

あとは、それにふさわしい支点を設ければ良いだけの話。

その支点は、例えばドアノブ、床に置いた重たいもの、車椅子の背もたれやアームレストなどなど、アイデア次第でいくらでも設けることが出来る。

僕はドアのストッパーに掛けているので、上から引く運動が可能になっている。

あとは、その支点に対して自分の立ち位置を変えれば、負荷のかかる角度は変化させることが出来る。

ただし、車椅子の場合はひとつポイントがあって、車椅子を含む自分の体以外を支点として行う場合、チューブの反動で車椅子がずれてしまうことが多い。 それを防ぐ為に、例えばダンベルなど、何か重たいものをズレるその方向に合わせて置くことがポイント。

そうすることで、ストレスなく運動を繰り返すことが出来る。

ちなみに、同じ運動でも体の動かし方で車椅子がズレやすくなったりズレなかったりと変化するので、それが自分は体のどの個所を使って動いているのか、その判断の目安にもなる。

チューブそのものは柔らかいものから固いものまでさまざまあるから、自分に合ったものを選べばいいし、それを使い分けることでいわゆる筋トレから有酸素運動まで幅広く可能になる。

負荷の少ないシンプルな動きでも、好きな音楽を聴きながら「この曲の間はこれを続ける」とすれば、それは立派な有酸素運動になるし、数曲それを繰り返せばもう立派なエクササイズだ。

さらにその時呼吸を意識して行うことで、身体に対してその運動効果はさらに上がると思う。

そうした運動を行うことで、毎日の食事がよる美味しくなるだろうし、鏡に映る自分を見るのがより楽しくなるかもしれない。

すると、それをすることがより楽しくなり、結果的により健康な身体を自分で作り上げ、より充実した毎日を過ごせるようになるはず。

医食同源だからこそ「美味しく食べる」ことがとても重要で、その為にも「ほんの少しの工夫」で行う運動が大きなプラスを生むと思う。

大丈夫、出来ることはたくさんある。

今、僕たちがこうして自宅待機という我慢をすることで、これまでの普通の毎日がまた少し近づいてくる。

話を広げると、来年のオリパラでの日本選手の活躍、メダル獲得数は、選手たちがいかに早くこれまで通りの活動を再開できるかにかかっている。

その為には、まず社会が普通を取り戻すことが不可欠で、その為にも、今の僕らの「我慢」がとても重要なことになると思うのだ。

人類全体の問題ではあるけど、状況は国によって異なるから、いかに早く現状を打破するかでアスリートのパフォーマンスが変わるとすれば、来年のオリパラに向けたレースはもうこの時点で始まっている。

不謹慎かもしれないけど、敢えて言わせていただく。

あなたの我慢は社会の為になっている。 選手の為にもなっている。 世のため人の為になっているのだ。

一選手としてでなく一日本人として、日本選手の活躍を願う為にも、僕は敢えて引きこもる。

さらには、人類の一員として、この事態が少しでも早く終息する為に、世界中のアスリートが思いっきりプレー出来るようにする為にも、僕は引きこもる。

だけど、引きこもってもパフォーマンスを落とさずに、むしろ上げていく為に、自宅で出来ることを行っていく。 本を読んだり、動画を見たりして勉強することも出来る。

すると、あぁ打ちたい!っていう思いが益々強くなる。 それはストレスにもなるけど、モチベーションにもなる。

どちらにするかは自分次第。

ストレスは発想の転換でモチベーションになる。簡単なこと。

身体づくり、健康づくり、モチベーションの維持と構築。 今の自分次第で、明日の自分が決まってくる。

そう、明日の自分は今日の自分が作る。

未来の自分は今の自分が作るということなのだ。

よりよい未来の自分を作るために、自分を導くために、ほんのちょっとの工夫で行う自宅での運動、これをお勧めする。

自宅だと運動後ゴールデンタイムの補食もより充実して行えるからそれがまた良い。

ちなみに僕は先日トレーニング後になんと阿蘇の馬刺しを食べた(笑)

そんな毎日を楽しんでいる(笑)


ついにこの時が来た

2020年04月06日 21時26分41秒 | 日記
1月の時点で、まさかここまでの事態になるとは思ってもいなかった。

でももはやどうしようもない。

逆に、現状を冷静に受け止め、適切に対処していくしかない。

捨己従人の心。

ボールを打つ練習が出来ないのはもちろん、どこかへ走りに行くなんてことも出来ない(控えるべき)なので、活動は完全に自宅のみで行うことに。

でも、出来ることはいくつもある。

逆に、出来ない悔しさがモチベーションにもなるので、これから先がより楽しみにもなる。

今出来ることをしっかりやる。

その時に向けてしっかりやっておく。

台でボールを打つことは出来ない。

でも、僕に課せられたハンディキャップはそれだけ。

後のことはほぼこれまでと変わらずに出来る。

逆に、制限された環境面が新たなアイデアを生み出し、早速チャレンジ。それがこれまでにない手ごたえを掴めたりもしている。

そして、生活インフラも今のところ特に問題もないので、栄養管理も従来通りに行える。

あとは、食事、睡眠、トレーニング、それぞれの質を高く維持することを心がけ、その為には何が必要なのか、何に気をつけるべきなのか、その判断を誤らないこと。

だけど、自分の判断ミス、失態が自分だけでなく広い範囲で関係者に悪影響を与えてしまうので、まずはそれに細心の注意を払いつつ行動していかなきゃいけない。

とにかく今は自分を見失うことがないように冷静でいよう。

そして、出来ることをし、静かに汗を流そう。

こんな時だって、積み重ねることは出来る。

今をどうするか?

そんなことはとっくに考えて準備していたので、今はもう先のことが楽しみで楽しみで仕方ないだけ。

今のこのコロナ・ショックの次の時代(テレビ番組のコメンテーターのそんなニュアンスの発言が印象的だった)、その時に確かな手ごたえを得られるように、今は細心の注意を払って行動する。

そして、その時が少しでも早く迎えられることを切に願う。

まずは、今以上の被害が生じないことを祈ると共に、家族をはじめ、自分以外の皆さんの無事を心から祈る。

その為にも、自分の行動が大切。

無理、無茶、無謀を平時以上に注意する。

世界中のみんなが思うように活動出来ていないはず。

だから、みんな自宅でコソ練状態のはず(笑)

いや、だからこそ、その内容の濃さがそのまま差になって表れると思う。

多分、高いモチベーションをもってコソ練してるやつの方が、普通に打って練習しているやつよりも成長速度は速いと思う。

誰も見ていない、見られないコソ練。

「俺はこれだけやっている」と口ではいくらでも言える。

でも、残念ながら自分に嘘はつけない。

それはメンタルの差になって表れるはずだし、結果的にフィジカルやテクニカルの差にも表れるはず。

これだけ言っててお前はどうなんだ?とツッコまれるだろうけど、敢えて言う。

ノーコメント(笑)

ご想像にお任せします(笑)

まずは、今以上の感染を防ぐこと、少しでも早く終息させること。

その為に今自分が何をすべきか、どうすべきか、それを考え、行動していく。

世界中が少しでも早く、また普通の生活に戻れることを切に願う。

出来ること

2020年04月01日 00時39分15秒 | 日記
大変な事態になっている。

日本だけでなく世界中が。

今の日本はまだマシな方かもしれない。

と言っていられるのも今のだけうちなのかもしれないけど。

今まで普通だったことが普通にできない。

そんなことを去年のクリスマスに誰が想像できた?

当時は外国人観光客の往来を不安する声よりも、インバウンド需要を期待する声の方がはるかに多かったと思う。

ところが、わずか数か月後にはこの状況。

自身の生活にも不安を抱く状況で先は未だ見えず、さらに自分だけでなくごく近しい人達を含む「死」までがすぐそこにまで近づいていて、これを穏やかに過ごすことの方が難しいことと思う。



でも、それでも穏やかに、冷静でいなければ判断を誤りかねないし、その誤った方向へ進んでしまうことになりかねない。

こんな時だからこそ、現実を見つめたうえで、「発想の転換」を行うべきだと思う。

様々な人のそれぞれのポジションで見える景色は異なるから、その人それぞれのものでいい。

社会全体のこととか、別段難しいことを考えるべきと言っているのではなく、規模の大小を問わずそれぞれの立場でその人なりの発想の転換を行うことが大切なのであり、何かしらの発想の転換を行えればそれで良いと僕は考えるのだ。

発想の転換をするということ、それが出来るということは「心の余裕」があるということだろうから。

それが無ければ、現実を終始悲観するだけで、そのネガティブな思考は他者へ向かい、ごく狭い範囲の思考による安易な他者の批判になるだけだと思うから。

そうならない為の「心の余裕」であり、そのバロメータのひとつとしての「発想の転換」なのだ。



そもそも、このウィルスによる苦難は、誰が悪いわけでもないはず。

遅かれ早かれこうした事態は起こっていて不思議ではないし、これまでの人類の歴史においても度々繰り返して起きていること。

であればこそ、特に日本のアニミズム文化においてはそれと共存する思考すらあったんじゃないかと個人的には考えたりもする。

しかし今回のウィルス問題、それこそ発想の転換を行えば、このウィルスによる苦難を世界中で共有することで、この地球上の全ての人々が一つのベクトルで動くチャンスになるわけだし、その経験はその先の人類にとって間違いなく財産になると思う。文明の進化を促すことになるとも思うのだ。

既に世界中で多くの命が失われている中でこういうことを軽々しく言うべきではないかもしれないけれど、それでも敢えて言わせていただく。



ピンチはチャンスなのだ。

それをベースとして発想の転換を行い、自分なりのアイデアを絞り出してみる。

もしそれが成功につながったら、どんなに嬉しいことだろう。

そこでひとつの、人生の成功体験を得られたことにもなる。

それは紛れもなく、自分の人生の財産になるはずだ。




それと、今、様々なところから「出来ることをやろう」という声が聞こえてくるし、僕もその通りだと思っている。

じゃぁ「出来ること」とは?

現状の限られた範囲で「可能なことをやる」ということに意識は向かいがち。

アスリートとしての活動がかなりの範囲で限られている中、僕も試行錯誤して「出来ること」を実行している毎日だ。

でも、そこにも逆転の発想はあり得ると思う。

「何もしないこと」も出来ることの一つではないだろうか?

それは「我慢すること」とも表現できる。

やりたい、出かけたい。

でもしない、我慢する。

それも「出来ること」。

自分の我慢は社会全体で見ればほんの小さなことに過ぎないと誰もが思うはず。

でも、その「小さなこと」は自分が思っているほど小さいことではない。

例えるなら、選挙の一票と同じものだ。

それは全体からすれば小さな一つの塵に過ぎないかもしれない。

でも、それが積もれば山となるのは周知の事実であり、それがものすごく大きな力となることを、僕らは知っている。

逆にその力を使わないということは、社会に対しての自分の持つ力を放棄したことになる。

自分がその小さな力を発揮した結果、社会が良い方向へ進んだ時(自分の力の効果を実感することはほぼ無いだろうけど)、でもそれは自分の小さな力があったからこその結果であり、そのほんの小さな自分の力(我慢)がそれに貢献したことを例え誰ひとり知らなかったとしても、でも自分はそれを知っているのだ。

その社会を「自分があの時出来ることをやったから」と、ちょっと上から目線で見れるはず(笑)

自分自身の社会貢献をささやかながらでも実感できるはず。

その時、きっと空の青さはいつも以上に清々しいものだと思う。空気がより美味しく思えるはず。太陽の日差しをより気持ちよく、ありがたく感じるはず。そして、そばにいる人の笑顔をより嬉しく、自分自身の幸せとして受け止められると思う。

逆に、そこで何もしていなければ、自分にとって社会は遠い存在になるかもしれない。

親しみを持てないだろうし、その先も疎遠な付き合いとなってしまうかもしれない。

その社会の一員なのに。

ちなみに、「誰も知らない、自分だけが知っている」と僕は言ったけれど、歌手Bette Midlerの "From A Distance"という曲を引用すれば、自分以外に神様が見てくれていることになる。ありがたい、心強いことじゃないか。



出来ることをやる。

それは人それぞれでいい。

でも、こんな時だからこそ、それぞれがただ好き勝手にやるのではなく、社会の一員としてのベクトルを合わせて、公私を考えたうえでの「出来ること」を行わなきゃいけないと思う。

金額は問わないからお賽銭を入れてくれ、みたいな感じなのかな。



繰り返しになるけど、未だ先は見通せていない。

決して楽観視は出来ない。

でも、僕たちが進みたいのは前なのだ。

五里霧中だからこそ、手と手を取り合い助け合って前進していかなきゃならない。

「出来ること」とは、「我慢すること」も含まれれば、「助け合うこと」も含まれる。

出来ることはたくさんある。

僕は車椅子という身体であるが故に、非常時には人の手を借りる、煩わせるということが想定される。

そうしない為に今自分が出来ることを含め、やるべきことを考えて行動していきたい。

本心は毎日思いっきり台でボールを打ったり、トレーニングルームで汗を流したり、坂道を走りに行ったりしたいけど(笑)

とにかく、少しでも早く今のこの状況が改善し、普通の毎日を取り戻せることを切に願う。