車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

トレーナーって、神(笑)

2021年12月09日 22時17分01秒 | 日記
「餅は餅屋」という言葉が好きだ。

何事に関してもうんちくを語れる人は世の中少なくはないと思うし、僕もそう思われているところは多々あると思う。

でも、僕を含めその辺の人が語るうんちくと、その道の専門家の言葉では、その重みがもう桁違いの更に規格違いなほどに異なってくる。

中途半端な話に乗ってから、いややっぱりと途中で鞍替えするよりも、僕は多少困難であったとしても最初から真っ当な、王道を進みたいと考えるたちだ。

だから、「餅は餅屋」という言葉が好き。

専門家に勝る知識や情報、理論はないと思うから。

料理の世界もそう。

「シェフ」と言えば料理のプロと誰もが思う。

もちろんそれは間違っていない。

でも、専門的な見方をすれば(そういうレベルで見れば)、同じ「シェフ」でも「肉料理が上手い」「魚料理が上手い」「野菜の扱いが」「スパイスの扱いが」「キノコのスペシャリスト」「火入れが絶妙」「ソースがすごい」「調理よりも盛り付けのセンスが」などなど、得手不得手を含む専門性が、それぞれに様々な「腕」が存在する。

シェフという存在にもそれぞれ専門性や得意分野があるのだ。

もっと範囲を広げてレストランという舞台で考えれば、料理だけでなくサービスや空間のプロデュース、マネージメントもとても重要なので、だから、エスコフィエとリッツといった関係性が今も語られるのだ。

それと同じく卓球関係者だったら何でも知っているかというとそうではなく、スポーツの世界においてもレベルが高くなればなるほどその専門性(または得意分野?)は分岐していくので卓球関係者は技術部門のトレーナーとなり、だからそれ以外は競技を超えてフィジカルトレーナーやメンタルトレーナー、栄養士やフードアドバイザー、用具に関する専門家もそうだし、更には睡眠トレーナーなどなど、様々な専門家が存在し、またそれらの専門家にもこの競技だったら・・・といった得手不得手があっても不思議ではない(不得手ではなくノーマルとハイレベルの違いといった感じか)。

とにかく、レベルを上げていけば自ずと「餅は餅屋」という発想になっていくと思う。



で、今回僕が「やっぱりトレーナーの先生は凄い!」

と思った、いや、思わされたことがあった。あらためて。

ホント、餅は餅屋だと痛感。

練習をしていて、ちょっとモヤモヤが発生し、自分なりに考えるけどどうも腑に落ちず、トレーナーの先生に聞いてみると、ほぼ即答で明確な答えが返ってくる。

それは考えれば自分でも簡単に理解できること。

でも今回自分ではその発想に微塵も至らなかった。

「ストン」と腹落ちした音が聞こえたと言いたいところだけど、今回は全くそんな感じじゃない。

「スコーン!」と心にあったモヤモヤがあっちの方角はるか彼方へ飛ばされた、そんな印象だった。



専門家の凄さというのはそうした知識や情報量の多さだけではないと思う。

その答えを速やかに提示し、さらにそれを明確に言語化出来る能力に真髄があると思う。

言語化することに不得手な専門家は、例えればデータはたくさん持っているけど重たいPCで開くのに時間がかかる、みないな感じだと思う。

そのデータを活かすためには言語化が不可欠であり、それを具えているのが優れた専門家だと思うのだ。



優れた選手が優れた指導者になれるわけではない、というのはよく聞く話。

その違いはどこにあるのか?

それこそまさに言語化の能力、アウトプットの伝える能力の差だと思う。

競技において、技術的なことは大半が努力を積み重ねて感覚で身につけるものが多い。

文字を読んで、あるいは人から聞いて、というだけすぐに上手く出来るようであれば、誰も苦労しない。

自分で頑張ってきたからこそ獲得できた「感覚」があるわけで、それは選手にとって大いなる財産になる。

けれどその「感覚」を言語化することは意外と難しい。

「スパっと」「ブワっと」「すっと」「ふわっと」「キュって感じで」などなど、一見すると分かりやすい表現にも見えるけど、そもそもその感覚は人それぞれだから、それらの表現はまさに感覚であり、人によってその捉え方は違う。

例えるなら、時速80キロでの走行を速いと感じるかどうかは人によって異なるのと同じ。

僕の経験では、ワインの味わいや香りの表現がまさにそれだった。

数人でテイスティングしていて、誰かが「フランボワーズの香り」と言えば「あぁこれはフランボワーズなんだ」と覚えられるけど、自分の感覚ではフランボワーズと一致しない印象だったりすることもしばしある。



とにかく、自分の感覚を他者に理解してもらえるように話すことが言語化。

自分が言いたい事を言うだけなのとは全然違う。

ここにはまず明確なデータが必要。それは細かければより細かいに越したことは無い。科学的根拠、エビデンスが明確であれば説得力は格段に増す。

でもそれを延々と羅列しただけでは聞き手が納得出来ないかもしれないし理解出来ないかもしれない。だから、そこには聞き手の理解力に合わせた情報の発信力、即ち表現力が不可欠なので、その為にはまず自分自身がそのことをしっかり理解していないとダメで(受け売りとの違い)、さらには表現するための多様なボキャブラリーも必要であり、相手の理解力を瞬時に察して言葉や表現を判断する必要があるから、洞察力とでもいうのかな?そうした能力も必要になる。



知識だけでなくそうしたスキルも学術的レベルで有していて、アウトプットに長けている、いわゆるコミュ力のあるのが僕の思う理想の専門家なのだけれど、同じ言葉(アドバイス)でもそういう方からのものだと説得力が格段に増してくる。知識に裏打ちされたコミュ力だから。

そして、その言葉そのものが活力を生む。より深く心に刺さるから。

そういう言葉を発信出来る専門家はまさに「神」だと思う(笑)

そうした専門家の方々からの指導・協力を得て、僕はこうして活動出来ている。

コーチ達との練習は楽しいばかりじゃない。

ハードなものもあれば、地味なものもある。

でもそれは専門的な目で見ているからこそ、今の僕に必要なものを提供してくれている訳であり、トレーナーの先生方も同様、僕を成長させたいからこそ率直なアドバイスをしてくれるのだな。

自分が「楽しい」ことを追い求めるのは、それはただ単に「楽」な道を進もうとしているだけかもしれない。

的確なルートには険しく困難な箇所もあれば、時には小川のせせらぎと共に陽光を浴びながら歩く道もあるかもしれない。

今僕に何が必要か、どの道を進むべきか、その選択に主観はもちろん大切だけど、忖度の無い客観的意見もまた必要不可欠。

それを与えてくれるのがその道の専門家。

そういうコミュニティを築けると、人生はより豊かになるし、より大きく育って行ける。

それを受容できるかどうかは自分次第だろうから、真摯に、直向きに、謙虚に、前を見て、竈門炭治郎のように頑張っていかなければならない。

いや、これは真面目に言っている(笑)

まだまだコロナ禍は継続中で、この先どう変化していくか予断を許さない状況は続いているけれど、幸い試合の予定も明確になってきていて、自身のスイッチは久しぶりに切り替わった実感を得ている。

すると、時間の流れ方が一変する。

地球の自転の速度が増したんじゃないかと思うほど(笑)

焦りも芽生える。

そんな自分に安心する面もある。

スイッチを入れられたから。

忘れていなかったから。

でも、前の自分とはまた違う。

この先ももっともっと日々成長していきたい。

竈門炭治郎のように。

いや、真面目に言っている(笑)

でも僕は嘴平伊之助が好きだ(笑)

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