車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

実は料理人ではありません(笑)

2022年01月06日 21時45分41秒 | 日記
「卓球王国読みましたよ!」という声をあちこちでいただく。

知らなかったこともいろいろ知れて良かった、良い記事だったと好評いただいてます。

すごく嬉しいことだけど、こっ恥ずかしいので「盛ってますからw」なんて言い返していますが(笑)



ただ、誤解のないようにこの場でひとつ言わせていただくと、タイトルのとおりそもそも僕は料理人ではありません。

「飲食業でフランス料理に従事していました」というと、「シェフだったんですね」と毎回のように言われます。

だからその都度「いえ、サービスの方です」と言っています。

言われる前に「調理ではなくサービスの方です」と言うことも少なくありません。

でも、偉大なシェフと、優秀な料理人達と同じ現場に立ち、彼らの仕事ぶりを目の当たりにし、それをお客様にお伝えするのが僕の仕事でもあったので料理そのものが大好きですし勉強もしてきました。また、食材や調理技術だけでなく歴史に紐づく食文化にも特に強い関心を抱いています。

だから、今までに積み重ねてきた知識を活用してプライベートで今も料理を楽しんでいます。

パラ卓球活動を行っている僕にはそんな一面があります。

ということで、今回はそんな僕の飲食時代の経緯を語りましょう(笑)



僕が飲食業に初めて関わったのは高校3年生の時です。

推薦入試で大学進学が決まったのが12月。

それで、翌1月からの3か月間、人生初のアルバイトをしたのが小さなうどん屋さんでした。

ごく短い期間でしたけど、ものすごく濃い時間を過ごせたし、めちゃくちゃ良い勉強(社会勉強)をさせてもらえました。

当時、店長やそのお母さんから教えてもらったことははっきり覚えていて、僕の人生の教訓として今も活用しています。

僕が進んだ大学は文学部史学科で、選考は考古学でした。

当時の僕は大学で学芸員の資格を取って卒業後は歴史資料館で働きたい、という目標を持っていました。だから同期はみんな自治体の専門職や教育機関で頑張っています。

けれど、いざその授業を受けていくと僕の中で「これは僕が一生楽しめる仕事ではない」と思い、別の道を模索し始めます。

その時はいろいろなアルバイトをして様々な道を模索しました。

そうした中で出会ったのがホテルでのサービスの仕事。

当時は大学の先輩に「時給のいい仕事があるぞ」と勧められたのですが、これが実に楽しかったのでした。

それからはその仕事に打ち込み、ホテルマンとしての知識や技術を学んでいくのですが、次第に意識はワインやフランス料理に向かっていきました。

そこにも深いエピソードがあるのですが、その話がまた長くなるので端折ります(笑)

大学で学ぶ道を人生の道とせず、これから進む道をどれにするか、「一生楽しんでいける仕事」を基準に考えていたのですが、学生ながら様々な経験をし、色々な人に出会い、見て、聞いて、「これだ」と思い至ったのがホテル・飲食業のサービスです。そこには高校時代のうどん屋さんでの経験が背中を押した感もあります。

そして卒業後の進路をフランス料理のサービス(ソムリエを含む)と見定め、地元で最も勉強できる環境としてフランスをはじめとするヨーロッパでの長期修行経験のあるシェフの元でお世話になり、そのシェフの紹介で福岡や東京の有名店へ勉強に出させていただくなどもし、2年後にさらなる修行先として上京する決断をしました。

東京のレストランにはもちろんサービスとして就職したのですが、当時レストランのサービスというのは料理人を目指す若手の最初のステップというケースが大半だったので、サービスマンとして働きたいというのは意外と少なく、そうしたことから僕はいきなりマネージャーを任されました。

とはいえ、田舎から出てきた身で経験も浅い僕が優秀な料理人を育てる専門学校(フランス校も少なくない)で勉強してきた連中の中に飛び込んだ訳ですから、彼らとの差は明らかで、それに危機感を抱きつつ、またそんな彼らに認めてもらいたいという思いで必死になって頑張ってました。

そして様々な仲間たちに出会い、刺激を受け、彼らがフランスへ旅立つのを見送り、いつかは自分もと思い、また彼らの帰国を出迎え、その度に大きな刺激を受け、学び、更にサービスの現場では毎日様々な人(お客様)に出会い、そのドラマに触れ、人として実に多くのことを学びました。

これらの「学び」が今の僕を形作る礎であり財産となっています。



都内のお店をレストラン、ビストロ、カフェ(的レストラン)、そしてブラッスリーと渡り歩き、中にはスタッフ入れ替えのリニューアルを任されたり、新規オープンの店舗を内装レイアウトも含め任されたりもしました。

そして事故に遭います。

リハビリを含め入院期間は約7か月。

その間も気持ちは常に現場に向いていました。

僕は事故直後3週間の記憶がないのですが、その時は寝言でフランス語を言ってたり、「〇番テーブルのお客様が・・・」なんて寝言も言ってたそうです(笑)

リハビリの期間中はシェフをはじめ現場のスタッフが入れ替わりに見舞いに来てくれたのですが、それは半ば現場の愚痴を聞くような時間(笑)

でもその問題解決の為に自分に何が出来るかを試行錯誤し、思いつく限り様々なことを文字越こしし、その量はWordで100ページを優に超えます。読む方は大変(笑)

そして現場に復帰。

車椅子の身体で現場復帰できたことはものすごく嬉しかったし、それを受け入れてくれた会社も現場もものすごくありがたかったです。この会社・お店じゃなきゃこうはいかなかったとも思いました。

でも、現場で以前と同じように動けない現実は僕にとてつもないストレスを与えたし、また「普通」であったことが普通ではなくなり思うようにコントロールできない自分の身体も大きなストレスを与えて、それが毎日どんどん積もっていくので、最終的には現場スタッフだけでなく経営においても僕の存在が足を引っ張っている、僕の人件費をもっと有効活用出来るじゃないか、僕の存在が会社としてマイナスになっている、と考えるようになり、やがて「この身体で飲食の現場に立つのは現実的じゃない」と思うようになり、ついにはその仕事を辞める決断をするに至りました。

今思えば、あの時は僕の人生で最も、ある意味人生で唯一の、ブラックなネガティブ思考に陥っていたと思います。

上司からも「心療内科にいってみてはどうか」と言われましたが、僕はそれを否定。

そのことを当時のかかりつけのドクターに話したところ、「私はその専門医ではありませんが、渡邊さんに限ってそれはないと思いますよ」と言っていただきました。

でも今思えば、それは僕の外面の良さがそう言わせていただけで(笑)、深層心理では間違いなく闇に落ちていたと思います。

でも、そんな状態から脱出できたのはまさにパラ卓球のお陰。

いや、正確にはパラスポーツのお陰です。

それまでは障害を負ったことにより四方を壁に囲まれたような感覚に陥り、その先の人生をどう生きていけばいいのか、全く上を向けなかったのが、スポーツに取り組むことで目標が出来、その結果「まだまだ自分には伸びしろがあるじゃないか!」と自覚、確信し、自然と上を向いて頑張っていくようになれたこと、するとすぐに忘れていた本来の感覚に戻っていた自分に気づいたのでした。

中学の同級生のパラリンピアンが僕に教えてくれた言葉。

「健常者はスポーツをやった方が良い。障害者はスポーツをやらなければならない。」

その言葉の意味を身をもって知ることが出来たし、それをより広く伝えていくことが僕の使命とも思えました。

さらには、こんな経験を持つ僕だからこそそれを伝える言葉により熱が加わるのだろうし、その言葉により説得力と信憑性を持たせるためには僕に結果が必要なのだとも思っています。



飲食時代のエピソードは語り切れないくらいにたくさんあります。

僕はその仕事が本当に大好きで、それは過酷で今でいえばブラックな職業であったと思います(笑)

でも好きだからこそ夢中になって頑張ってたし楽しんでましたから、一生続けていくつもりでもいました。

仕事に取り組むそんな姿勢も評価されてか、実は専門誌の取材を受け、その記事が掲載されたなんてことも複数回あります。

車椅子になってからは動けない分自分のサービスに対する考えと行動を忘れない為に、具体的なテクニックやサービス理論みたいなことをブログで書いたりもしていました。

また、過去の仕事を知る仲間からの依頼で、都内のレストランやホテルのレストランのサービスの指導を行ったこともあります。

それくらい、僕はサービスという接客の仕事が大好きでした。



では最後に、飲食時代の僕の仕事っぷりが分かりやすいエピソードをお聞かせしましょう。

飲食業時代の経験として、「本日のおすすめ」をお客様にどう勧めるか?これはひとつの大きな課題でした。

でも今だから正直に言うと、僕はシェフの指示に反してスタッフには別の指示をしていました。

もう時効ということでカミングアウト(笑)

シェフには勧めて欲しい食材・料理がいつもあります。

だからそれを事前ミーティングで打ち合わせします。

そして「今日のおすすめはこれ」となります。

けれど、僕はスタッフにこっそり小声で「必ずしもそれを勧めなくていいから。その時自分が食べたい、あるいはそのお客様に食べて欲しいと思ったものを勧めなよ」と言っていました(笑)

だって、「自分が食べたいものを説明する」方がよっぽど説得力があると考えるから。

「台詞」ではなく「本音」の会話になるんです。だから、言葉に「熱」があり、それは伝導すると考えます。

そしてその瞬間のコミュニケーションは人間同士のリアルなものになるので、双方にとってより濃く楽しい、思い出の時間になるはずです。

すると、マクロでみればそうした要因が店舗の売り上げ増加や顧客獲得につながると考えます。

で、シェフの勧めたいものは口の達者な?僕を含め、チーム全体でフォローし合って勧めればいい、なんて考えていました。

また、いわゆる商品の価格設定、原価率の設定の仕方も僕には独特の考え方があり、それで上司と衝突したことも度々ありました(笑)

「手間を惜しむな」という言葉が僕は好きですが、そうしたことにおいてもシェフをはじめキッチンのスタッフと意見が食い違うことも少なくは無かったので、それをいかにお客様と厨房にとってWin Win になるか、その為に自分がどう立ち回るか、その都度その都度落としどころを探り、自分は前面に出ない、あくまでも黒子に徹し、二つの歯車の間に流れる潤滑油として動く、それが僕のポリシーです。

こんな感じで仕事を楽しんでいたのが僕の飲食時代でした。

多分、サービスについて、あるいは飲食業についてを語ると、僕は卓球についてを語るよりもきっと何倍も持論を展開する自信があります(笑)

それだけ懸命に取り組んできたからです。

今、そのベクトルはパラ卓球に向けています。

それは偶然の出会いによるものですが、障害を負ったからこそ必然のものであるとも思いますし、だからこそ、そこに向かうエネルギーは日を追うごとに増していて、まさか自分がそんな風に出来るとは思ってもいなかったし、でも「やれば出来る!」という自分の持つ可能性を実感できたのもまた事実で、まだまだ、まだまだ僕には可能性がたくさんあるんだと、この先の未来の自分を楽しみに思っています。

2022年の年始のブログが思いのほか熱く長くなってしまったのは、飲食ネタが絡んだからでしょう(笑)

最後まで読んでいただきありがとうございました。

さぁ新しい一年、今年は飛躍の年とすべく、しっかり精進してまいります。

ちなみに、今年の漢字一文字も僕の中で決めました。

それは・・・内緒です(笑)

気になる方は直接聞いてください(笑)

では、この一年が皆さんにとっても素晴らしい一年であることを切に願いますし、僕にとっても素晴らしい一年であるように頑張っていきます!

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