風子ばあさんのフーフーエッセイ集

ばあさんは先がないから忙しいのである。

昭和の思春期

2011-05-25 11:24:15 | 思い出
 
  今から50年前は、ふつうの家には電話がなかった。

   ある日の夕方、
 風子が通う高校の教師が、突然、家に来た。

  あの頃は、どの家も、
 今のように留守にはしなかったのであろうか。

  連絡手段がなかったので、緊急時にはこうして、
 いきなり人が訪ねてくることは珍しいことではなかった。

  雑誌社から学校に連絡があり、
 高校生が作家のお宅を訪問するという企画へ
 参加せよということである。

  明日、田園調布の石坂洋次郎の家に行くように……
 玄関先でおっしゃると、先生は、お茶も飲まずに、
 そのままお帰りになった。

  翌日、田園調布まで、どうやって行ったのか、
 付き添いがあったのか、なかったのかは、覚えていない。

  そのくせ、もう一人、別の高校から来た男子生徒のことは、
 境くんと、名前まではっきり覚えていて、
 その後しばらく文通までしたのだから、
 思春期というのはなかなかに抜け目のない年頃なのであった。

  ちなみに、このころの青少年は、およそ、にきび面と決まっていたのに、
 境くんはつるんつるんの美しいお肌の美少年であった。

 続きはまた明日。

新学期

2011-04-28 16:50:15 | 思い出
まだまだ気の晴れない日本列島だが、幼稚園、小学校の新学期は、じいさんやばあさん達の気分を少し明るくしてくれる。

 デパートの家具売り場、文具売り場も、それらしいデスプレイで、我が子たちの幼く愛らしかったあのころが思いだされて懐かしい。

 デパートで用が足らずに、スーパーへ回ったら、掃除具……、つまりバケツやモップの売り場にも、
でかでかと「新学期」のポスターが貼りだしてあった。
 
「?」

 この頃の新学期は、バケツやモップまで家から持参させるのかしらと、訝しみながら、傍によると、ひとまわり小さな文字で、
「もうすぐ家庭訪問!」と書いてあった。

 なるほど。

 先生が見える! と、緊張して、ぴかぴかに窓ガラスを拭いた日もあったなあ。

 あの頃は、風子ばあさんも、まだまだウブで可愛いママだったのである。懐かしいなあ……。

馬跳び

2011-03-06 10:48:39 | 思い出
 風子ばあさんが中学生のころ、馬跳びという遊びが流行った。
先頭が、廊下の壁に手をついて頭を下げ、馬をつくる。
その脚の間に後ろのものが頭をつっこむ。そのまた後も股の間に頭を突っ込み、長い馬ができる。

 そこへ相手方が跳び乗るのである。
かなり乱暴な遊びだったが、クラスの大方が参加する人気の遊びだった。

 そのころの風子は、虚弱体質で、遠足のあとなど決まって熱を出し、一ヵ月も休むような子だった。保健室で寝ていることもたびたびあった。
でも、休み時間の馬跳びになると、勇んで参加した。
そんな子でも、いじめられるようなことはなかった。
特別扱いもされなかった。
保健室から飛び出してきて、ぱっと馬にまたがったりした。

 男子と女子は別べつのときもあったが、人数の加減で、一緒になることもあった。
中学生にもなって、男の股ぐらの間に、頭を突っ込んで平気だったのだから、大らかなものである。

 それで怪我をしたという話も聞いたことはないが、よしんば多少のことがあっても、
昔の親は、馬鹿だね、この子は、と我が子を叱ってそれで終わりのことが多かったような気がするが、どうだろうか。

ガイショッケンショクドウ

2011-02-25 09:22:15 | 思い出
 子供のころは、言葉を文字で覚えず、音で記憶する。
ガイショッケンショクドウ、というのは外食券食堂だと分かったのはずっとあと、大人になってからである。

 戦後すぐ、極度の食糧難だったころのことである。
米を買うにも米穀通帳というものがあった。
自由に外で食事をすることなどかなわない時代だった。
何かの都合で外食をする場合は、配布された食券が必要であった。

 うちの近くに灰色の建物があり、それがガイショッケンショクドウだった。 
今ならさしずめ、そこの駐車場というべき場所の空き地が、子供たちの遊び場だった。

 風子ばあさんは、いつも背中に生まれたばかりの弟を背中にくくりつけて遊んだ。
当時は珍しくなかった。

 その格好で、ケンケン、パッ! などして遊んだのである。
背中の子は、いつもがくがく揺れていた。
一度ならず弟を地面に落としたこともある。
よくあれで無事だったものと、いまごろになって胸なでおろす。

「また、あした~ ガイショッケンショクドウねえ」
 というときは、そこが外食をする場であるということなど思いもせず、ただひたすら、近くの遊び場の名称としてあった。

 食堂に出入りしていたのは男性ばかりだったような気がする。

 レストラン、和食処、バーガーチェーン、カフェ、寿司屋。
着飾った女どもが、グルメに群れ集うような時代がくるとは、あのころ思いもつかなかった。

 



門番の家

2011-02-20 00:25:53 | 思い出
 終戦で華族制度が消滅した直後、それまで宮様の住んでいた屋敷に住んだことがある。

 住んだのは本邸ではなく、門番の家である。
門も、正面の車寄せのある方ではなくて、車道に面した警護門とでもいうべき門の方である。

 警護の係が交替ででも詰めたのか、あるいは家族と住むためのものだったのか、三間ばかりの部屋があり、トイレも台所もきちんとしたものであった。
 
 門番の家の前からは広く砂利を敷き詰めた前庭に繋がり、和風の本邸のほかに、洋館があった。
和庭園には茶室も、洋庭には芝生の間にスミレの咲く豪勢なものであった。

 敷地内の坂を下ると使用人のための長屋も存在していた。 
終戦後しばらくの間、国が管理していたのであろう、父が公務員だったので官舎として居住していた。

 風子ばあさんはまだ小学生だった。
弟や妹たちと敷地内を走り回って遊んだ。
爆撃を受けて崩れかかった洋館には近づいてはいけないと父母から厳重に注意されていたが、それが却って子供たちの冒険心をそそった。

 洋館の地下へ降りると、毀れた御紋入りの椅子や燭台などが乱暴に放られていた。

 何年かそこに住んだので、風子の古い住所録にはそのアドレスが残っている。
たまたまそれを目にした男友だちから、えっ、××町の××番って、風子さん、もしかして世が世なら由緒ある家のお姫さまだったのではないですか、と訊かれた。

 いやいや、焼跡の門番の家に住んでいたんです、それも官舎でした。

風子が、お姫様のわけ、ねえだろ、と睨んだら、そうですよね、と彼はいたく納得した顔をした。

速記者

2011-02-12 12:30:30 | 思い出
 昨日に続いて父のことである。

 速記者だった父は、ときどき内職と称して雑誌の座談会の仕事をしていた。
ミミズの這ったような横文字は、他人には判読できない
それを原稿用紙に書き起こして依頼者に渡すのである。
 
 風子がまだ高校生のころ、これをアルバイトとして手伝ったことがある。
原稿は、字の上手下手より、とにかく正確で読みやすくないといけない。
父が速記を解読した文字を、書き起こし、それを風子が原稿用紙に清書した。

 二度手間になるから、父にとってそれほど有難い手伝いだったとは思えない。
小遣いをくれる口実だったのかもしれない。

 しかし、役人だった父は芸能ニュースにうとく、女優、俳優の名前も知らない。流行の唄も知らない。
大衆雑誌の座談会の記事には若い風子のミーハー知識が案外役にたっていたのかもしれない。

 風子も、一度は速記者を夢みて、父に速記文字のテキストを見せてもらったが、一人前になるにはそれなりの努力がいる。
 努力の苦手な風子は、手に負えなくて、すぐにあきらめた。
 
 テープレコーダーが普及しはじめると、父は、速記も、もう終わりだなと言っていた。
しかし、パソコンも進化して、発言したら即文字化できる装置もあるはずだが、今もテレビで見る国会中継には、速記者の姿がある。


スルガーハンシ

2011-02-11 11:22:18 | 思い出
 もし、父が生きていれば、103歳になる。
速記者であった父の筆記用具は、役所から支給された黒いシャープペンシルと、ベージュ色の二つ折りにした用紙であった。

父はこの紙のことを、スルガアーハンシと、ンガーのところにアクセントをつけて呼んだ。
これに横書きで速記文字を記した。

 父が役所の文書を家に持ちかえることはなかったが、内職と称して、雑誌の座談会の仕事などは家でこなしていた。 
 もう時効だからよかろうが、風子ばあさんが覚えているのは戦後すぐのことである。

 子供だった風子ばあさんは、スルガーハンシというのは、てっきり速記の専用用紙と思いこんでいた。
ごく最近になって、駿河半紙という紙の存在を知った。

 そうか、あれは駿河半紙というものだったのか、と懐かしい。
 今は、もうほとんど入手困難な和紙らしい。
一枚くらい、父の書いたそれを取っておけばよかったと、今ごろになって残念に思う。

 物不足の時代で、あの紙が手に入りやすかったからなのか、シャープペンの滑りが良かったから使用したのかは、わからない。
 

 内職につかったあとの、速記文字のあるスルガーハンシは、天ぷらの敷き紙にしたりして、中々重宝だったものである。

 今日は父の18年目の命日である。