宗教には唯一絶対の神だけを信仰の対象とする一神教と、多数の神を信仰する多神教がある。住宅をめぐる考え方もそんな区分けができるような気がする。
一神教が数多くある(唯一神しかいないはずなのに…)ように、住宅における「一神教」も多数存在する。
それぞれの「神」は家づくりのためにいろいろな「教義」を持つものの、コアになる「教え」については一歩も譲ることはなく、他の「教え」の方を優先することを糾弾する。
ある「神」は、自然素材の使用を最高教義とし、人工合成物だらけの家を忌み嫌う。
別のある「神」は、超高水準の断熱・気密の確保を絶対教義とし、その方向性を追求しにくい工法を邪教のごとく表現する。
また別の「神」は、ローコストこそが信者を幸せにするとして、高価格な住宅は善人を騙していると主張する。
こうした「神」の教義を布教する「教主」や「司教」は業者側に多く存在するが、それはいたしかたない。仕事に信念を持っていればおのずとベクトルが定まってくるものだからだ。
それぞれはまじめで、悪意があるわけでもなく、頼りになることも多い。
ただ私は、施主サイドは一神教より多神教的考え方のほうがいいのではないかと思う。
「神」は唯一絶対の教えを説く存在ではなく、それぞれの分野ごとに神がいる、というような…。
「自然素材の神」
「断熱・気密の神」
「ローコストの神」
「耐震の神」
「防音の神」
「通風の神」
「デザインの神」
…
それぞれの「神」に、どのくらい自分の家に宿ってもらうか、そんな風に考えたらどうだろう。
一番重要だと考える「主神」を意識しながら、他の「神」にもできるだけ気分よく宿ってもらう。
「自然素材の神」を100%満足させたいけど、「断熱・気密の神」や「ローコストの神」がそれでは困ってしまうから、満足度は80%くらいで我慢してもらおう。そうすれば「断熱・気密の神」も「ローコストの神」にも怒られない程度には満足させられそうだ――。そんな風に…。
絶対の教義を説く「神」を100%満足させると「いい家」になる、というような考え方に身をゆだねたい人もいるだろう。
ただ、それに忠実に従わないと「悪い家」になると考えるのは正直疲れないだろうか。
「一神教」だと「司教」たちの「宗教戦争」に巻き込まれることもある。住宅関連のコミュで「司教」よりも激しく戦う十字軍のごとき「一信者」施主の姿を見かけたりすると、私はほどほどの信心にとどめておけばいいのになあなどと思ってしまう。
そして、自分が信じる絶対神だけに認められた家しか「いい家」に見えないのはもったいない気がする。
・「断熱・気密の神」に愛でられた「いい家」があそこにある
・こっちの「いい家」には「自然素材の神」が気持ちよく宿っている
・あんまり相性がよくないといわれる「耐震の神」と「デザインの神」がケンカもせずにバランスよく同居している「いい家」がある
……
多神教的に考えればそんなポジティブな家の見方ができて楽しい。
八百万の神が住む日本の住人であれば、多神教的な考え方もしやすいのではないか。
自分がひいきにする「神」を定めておけば失敗することもないだろうし、他者に寛容にもなれる。
一神教が数多くある(唯一神しかいないはずなのに…)ように、住宅における「一神教」も多数存在する。
それぞれの「神」は家づくりのためにいろいろな「教義」を持つものの、コアになる「教え」については一歩も譲ることはなく、他の「教え」の方を優先することを糾弾する。
ある「神」は、自然素材の使用を最高教義とし、人工合成物だらけの家を忌み嫌う。
別のある「神」は、超高水準の断熱・気密の確保を絶対教義とし、その方向性を追求しにくい工法を邪教のごとく表現する。
また別の「神」は、ローコストこそが信者を幸せにするとして、高価格な住宅は善人を騙していると主張する。
こうした「神」の教義を布教する「教主」や「司教」は業者側に多く存在するが、それはいたしかたない。仕事に信念を持っていればおのずとベクトルが定まってくるものだからだ。
それぞれはまじめで、悪意があるわけでもなく、頼りになることも多い。
ただ私は、施主サイドは一神教より多神教的考え方のほうがいいのではないかと思う。
「神」は唯一絶対の教えを説く存在ではなく、それぞれの分野ごとに神がいる、というような…。
「自然素材の神」
「断熱・気密の神」
「ローコストの神」
「耐震の神」
「防音の神」
「通風の神」
「デザインの神」
…
それぞれの「神」に、どのくらい自分の家に宿ってもらうか、そんな風に考えたらどうだろう。
一番重要だと考える「主神」を意識しながら、他の「神」にもできるだけ気分よく宿ってもらう。
「自然素材の神」を100%満足させたいけど、「断熱・気密の神」や「ローコストの神」がそれでは困ってしまうから、満足度は80%くらいで我慢してもらおう。そうすれば「断熱・気密の神」も「ローコストの神」にも怒られない程度には満足させられそうだ――。そんな風に…。
絶対の教義を説く「神」を100%満足させると「いい家」になる、というような考え方に身をゆだねたい人もいるだろう。
ただ、それに忠実に従わないと「悪い家」になると考えるのは正直疲れないだろうか。
「一神教」だと「司教」たちの「宗教戦争」に巻き込まれることもある。住宅関連のコミュで「司教」よりも激しく戦う十字軍のごとき「一信者」施主の姿を見かけたりすると、私はほどほどの信心にとどめておけばいいのになあなどと思ってしまう。
そして、自分が信じる絶対神だけに認められた家しか「いい家」に見えないのはもったいない気がする。
・「断熱・気密の神」に愛でられた「いい家」があそこにある
・こっちの「いい家」には「自然素材の神」が気持ちよく宿っている
・あんまり相性がよくないといわれる「耐震の神」と「デザインの神」がケンカもせずにバランスよく同居している「いい家」がある
……
多神教的に考えればそんなポジティブな家の見方ができて楽しい。
八百万の神が住む日本の住人であれば、多神教的な考え方もしやすいのではないか。
自分がひいきにする「神」を定めておけば失敗することもないだろうし、他者に寛容にもなれる。
多神教は認めているつもりで、抑制していますが時たま暴走することがあります。自戒の気持ちは持ちつづけなくてはと思っています。
施主が自分の信じるものを開陳したり応援したりするのはいいし、どんどんやればいいと考えています。現に私にしたって、自分の信じるものに従った家づくりをこうしてブログで紹介しております。雑誌や新聞に色があるように、ブログにだって主催者の色が出てもいいし、そこをあえて訪問してきた人に自分の考えを伝えることもするでしょう。
ただ、こうしたブログでなくコミュニティのような場所において、人の家づくりを自分のやり方に従わせようとする業界人を見ると、現地人を原始的な神への信仰から改宗させようとする大航海時代のキリスト教の神父・牧師の姿と重なります。決して悪気はなく、いい人なのだろうけれども…。
家づくりをビジネスにしている人は伝道者(エバンジェリスト)になってもいいのですが、原理主義者(過激派ばかりではありません)はちょっといけません。他者に「教え」を押し付けようとし、その非寛容な姿勢が衝突を生みます。まして業界人でもない施主が原理主義者にならずとも、と考えます。
原理主義者の支配下では「信教の自由」はありません。
私は「信教の自由」を尊びたいと思います。家づくりの自由もしかりです。「一神教」を信じるのも「多神教」を信じるのも自由で、それぞれが成功できると思います。ただ、他の「神」を認めない「一神教」は「多神教」より原理主義者を生み出しやすい性質があるように思います。そこは注意しておきたいところです。
導入するかはともかく、それぞれの「宗教」の良い部分に目を向けたい(悪い部分も見えてますが)と考える私を煮え切らなく見える人もいるでしょう。モラトリアムであることは自覚しております(笑)。
誰しも大金を掛けるわけですから「一番」良い家を建てたいと思うわけですよね。
また、造る(売る)側もうちが「一番」と思っていますから。
家づくりはたいてい一生に一度のことなんで入れ込んでしまうんですよね。そして自分のチョイスに間違いはないと信じたい、信じたいあまりに信じすぎちゃう(笑)。
ま、自分もそうなんですけど…。はは。
せめて客観的視点は維持したいものです。