『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

石ころと星・宇宙の誕生と死25

2017年11月04日 | 学ぶ

 今週は、立体授業の指導をしたり、このブログで指導の紹介をしたりするときによくお世話になっている本を一部紹介してあります。
 紹介以外にも良い本がたくさんあります。「数研」や「とうほう」、「東京書籍」などの高校生用生物資料集、小学館の図鑑NEOシリーズ、主婦の友社のふしぎ!なぜ?大図鑑シリーズなど、いずれも子どもたちの環覚養成にビジュアルアプローチをするのにとても役に立っています。なお、「これが物理学だ!」は何度読んでも、指導への愛があふれていて、指導の参考になるのではないでしょうか。
 団の子どもたちの「心・技・体」が健やかに整うのは、みなさんのおかげです。日ごろの引用使用のお礼とともに、ここで紹介させていただきます。

「受験コース分け」で失ったもの
 ぼくが卒業した高校は、それなりにレベルの高い奈良県の県立高校でした。
 高校二年くらいのときから進学希望別にコース分けされ、授業配分もそれ(入試科目)にもとづいていました。ぼくの選択は国立の文系だったので、理科はほとんど生物だけ、という変則受講です
 つまり、それ以外の理科科目は高校で満足に学習できなかったわけです。いまはどうなっているのでしょう? 相変わらず、「将来の教養」より、「受験効率優先」なのでしょうか?
 当時は何もわからず、受験中心で指導されていたので、「そんなもんか。」と云う軽い気持ちで疑問も持たなかった(持つ余裕がなかった。これも問題です)のですが、成長するに連れて、特にこどもたちを指導するようになってから、「あんな馬鹿なことはなかったな」と、その理不尽さを痛切に感じるようになりました

 たとえば、簡単にいえば、物理・化学・生物・地学という理科4科のうちの1科や2科では、「世の中(環境)を知り、解釈する力が半減して(すべて中途半端に終わって)しまう」ということです。それによって「おもしろく興味ある対象として覗ける世界」が半ば鎖されてしまうことになります
 年齢を重ねて余裕もでき、いろいろなことを見る(が見える)ようになると、その指導されなかった科目が、もし素晴らしい先生の指導によって少年時代に解きほぐされていたら(少なくとも興味をもたせる指導を受けていたら)、老年になっても、孤独をかこたず「興味津々で、日々おもしろいことを探し、また考えて一生を終われる人」だって、少なからずいるだろうと想像しています。それこそ「生涯学習」です。

 20年以上前になりますが、こどもたちを教え始めたとき、基本的なことさえ満足に知らない(忘れている)ことが多く、不便を感じ「再勉強」を始めました。それ以降、「できるだけ子どもたちのレベルで丁寧に」と考え、勉強をすすめていくと、「こういう科学的な考え方や知識が若いときにきちんと身についていれば、成長の過程で、どんなに興味や大きな可能性が広がったであろう、おもしろく過ごせただろうに」と振り返り、情けなくなりました。これは就職や職業関連だけで云っているわけではありません。
 今でも受験に有利だ(ほんとうにそうかな?)として、まったく疑問をもたず、その指導スタイルに賛成する人の方が多いのではないかと思いますが、その「受験をターゲットにしか学習(勉強)を考えられなくなっている思考形態・習慣」そのものが、「勉強(学習)」から『学ぶおもしろさ』という『最重要要素を欠落させる』要因になってしまっていると、ぼくは観じています。
 現状の教育体制では、どんな意味においても受験を避けては通れませんが、決してすべてではないはずです。途中経過です。
 受験を含んでも、もっとおおらかに、余裕をもって乗り切れまいか、それをいつも探しています。もちろん前提として、保護者のみなさんとの信頼と共通理解がなければなりませんが。

 団のお母さん方は最初、受験学年になっても年間10回以上も課外学習に出かけ、遊びほうける、そののんびりしたようすにびっくりされるようですが、幸せなことに、そうした経過をへても、その後多くの子どもたちは、後年もすばらしい成長を続けてくれます。これは課外学習や立体授業による、学習の周辺や奥行き、関連事項の、いわば『受験勉強』以外の「余裕の指導」によってもたらされたものではないか、と推察しています。
 ふだん取り組んでいる子どもたちの「学習するおもしろさ、学ぶおもしろさの取得は? その方法は?」ということを考えると、ぼくの場合の例のように、既に捨象されてしまっていた(あるいは気づかなかった)科学的知識や思考法(ぼくの場合は物理・化学・地学)のなかった感覚の不幸に行きつくのです。子どもたちの学習では、いわば、「関係のないものはない」のです。何もないところからはじめるのですから。「枝葉の広がり」が「学ぶおもしろさと大きな喜びを生む」のです
 ふつうであれば身につけていたかもしれない科学的な知識や考え方が、現実解釈や判断に相乗効果を発揮し、その思考の先のステージや研究の道が開かれたかもしれないこと、あるいは逆に、その不足によって「学ぶことそのもののおもしろさがわかる、したがってさらなる成長の可能性を制限してしまったかもしれないこと」に、思いが至るのです。高々(!)『一回の大学受験』のために。

 こうして考えれば、受験効率しか考えない「仕打ち」は、将来の子どもたちにとっても、とても残酷なことではないでしょうか。「大学に合格するための受験勉強」は、「その大学に合格しておもしろさや興味をもてるものを追求するため」のはずが、逆に「それらをすべて喪失してしまって、結局何を学びたいか、何を知りたいか、何で生きていきたいかもわからぬまま卒業する羽目」になる。冷静に考えれば、「本来さらなる広がりを求めるべき、研究や専攻に直結する大学教育そのものに対して、進学する方は正反対の教育方法、指導形態になっている」ということでしょう。
 どちらにしろ、成長過程における精神的「豊かさ」の喪失です。教育そのものや子どもの成長をもっとちがった視点、先を見た長い視点でとらえ直し、指導法や教育法を深く考え組み直し、という取り組みがもっともっと盛んになるべきだと考えています。

科学の大発見はなぜ生まれたか
 このタイトルは、少し古い本の書名です。「科学の大発見はなぜ生まれたか~ 8歳の子供との対話で綴る科学の営み ヨセフ・アガシ著 立花希一訳 講談社ブルーバックス」。紹介の原書の英語もそんなにむずかしくありません。
 タイトルにあるように、科学哲学者の著者が、自分の子ども相手に科学(史)の手ほどき、科学と哲学について話しあった対話をもとに書きあげたものです。ふだんから、お父さんの指導のもとで、さまざまな科学的知識や考察を指導される機会があったのでしょう、アガシの息子は8歳の子供とは思えない高度なレベルで抽象的思考を巡らせています。もちろん本の体裁を保つという執筆の影響もあるでしょう。
 ところで、ぼくが、この本を読んだのは、「日本版のまえがき」で披露している作者の考え方に興味をひかれたからです。

 まず
 「本書は長年の研究の成果でもあります。私はアカデミックな学問の壁を打破する必要性をいつも痛感してきました。この目的にとって必要なことの一つは、学問研究のもっともよい成果を公に示すことです。この点で、私はガリレオとアインシュタインにならっています。かれらは、科学は贅沢品などではなく、ポップ・サイエンス(一般向けの科学)こそが科学の頂点だと見なしました。 
 いかなる科学的成功も、それが教育を受けた一般の人々に届かないかぎり、全面的なものとはなりません。残念なことに、ほとんどの専門家は、ポップ・サイエンスのほうが、それが模倣する完全な構造をもつ科学以上に大きな利点をもっていることに気がつきません。
 その利点とは、(中略)広い視野のもつ明快さです。自分にもうまく説明できないような科学の細部を暗記するように学生に押しつける科学教師のやり方は混乱を招くだけです。科学に関する骨太のアウトラインを学ぶことは、多くの点で学生に役に立つことでしょう。そうしたアウトラインこそが科学の細部に意味をもたらすのです。(前記書p5~6 下線は南淵)
 

 科学指導また科学教育に対する疑念です。
 「科学に関する骨太のアウトライン」という訳は、日本版がないので原文をたどれませんが、「広い視野のもつ明快さ」という訳語から類推すると、たとえば、先ほどの4科の「骨子となる一般的な事象に対する基本の考察である」とも考えることができます。「それが逆に、自由な考察を促し、科学の細部にも大きな影響を与える」ということをアガシは云いたいのでしょう
 そしてそれらが、大きくとらえ直して環境を再解釈した、ニュートンやアインシュタインの「発見と思考の流れ」だととらえることもできます。いずれにしろ、基本的な科学に対する認知・習得の意味と、その重要性の強調です
 なお、ここで使われている「ポップ・サイエンス」が、よく見かける『手品まがいの見世物』だけではなく、その「『手品』の根拠やしくみを現実に即して振り返る(考えさせる)指導や指導方法が含まれているもの」と、アガシのために想定しておきます。
 その後、アガシは自らの科学教育経験を振り返り、科学教育にも若いころに受けた宗教教育と同じように「教義」があった。しかし、科学教師たちの「教義」に対する独断的な態度にほとんど抵抗できなかった。その独断的な教育にまったく根拠がないことを理解するのに何年もかかった、それが理解できたのはカール・ポパーのおかげだった。そして、どんな教義を押しつけられようとも、寛容で有能な教師さえいれば、学生は、その援助のもとに自由に勉強することができる、と述べています。

 こういう考えのもとに、アガシは自らの子どもと質問や反論を挟みながら、自由な対話を繰り返していきます。「子どもの能力が相当高く、日ごろから観察や指導を繰り返されているからこそ」の指導法です。素晴らしい方法で、条件さえ当てはまれば、相当優秀な子どもが育つでしょうが、一般的ではありません。
 そういう意味から、科学教育へのアドバイスとしては、ふつうのお父さん・お母さんに育てられる子どもは、やはり日ごろから身のまわりの事象に目を向けられ、その謎や不思議に気づく機会、そしてそれを考える機会(時間)をたくさんつくっていくことの方が、現実的で、有意義です。それによって、子どもたちは自ら調べ、考える子に育っていくでしょう
 その結果、知りたいことや質問が出てくるようになったら、間髪を入れず、機会を逃さず、その質問や疑問を解決する準備や手伝いをする、また一緒に考えるという時間をつくってください
 何よりもタイミングを外さないことが大切です。「知りたいことが解決されないまま」だと、知りたい気持ちは次第に薄れていきます。次がなくなります。一生かかわってくる「環覚」の養成にはタイミングが欠かせません。

科学者は社会的な活動のできない人間?
 さて、アガシのアドバイスは続きます。

 多くの西洋の学校や、日本、ラテン・アメリカ、その他事実上すべての学校では、科学のトレーニングには、自由な討論に熟達するためのメニューは含まれていません。(中略)いっそう悪いことに、かれらは、誤りは減点だとしてペナルティを科すように条件づけられています。さらに、教え子を科学者にしたいと思う教師たちは、科学者というものは専門に精通していなければならず、しかもその専門的知識だけを語ることが模範的なふるまいだと指示するのです。この模範にしたがうと、科学者は、社会的な活動のできない人間、おそらくそうしようとすら思わないつまらない人間になってしまいます。(前記書p7 下線は南淵)

 下線部は学習や学習内容を身近に引き寄せる、つまり「環覚」の養成を心がけるに際して、熟読玩味すべき反省点だと思います
 こうした考えのもとに、アガシは子どもとの対話を、科学史だからといって、重要な古代ギリシャの考えから勉強するのではなく、地球が惑星であるというコペルニクスについての議論から始めます。そしてその結果を、やはり、「息子はすぐにコペルニクス説に興味を示しましたが、古代ギリシャについてはそれほどでもありませんでした」と結んでいます。
 しかし、これについては「ある程度の科学的知識を蓄え、知的能力も優れていたアガシの子どもだから」という条件もあるでしょう。ギリシャの科学的考察は、一般人が、科学に目覚める良いきっかけにもなる指導内容や指導法に止揚させることもできるのではないかと、ぼくは考えています。
 いずれにしろ、ファインマンの小さい頃の記憶やアガシの方法からぼくたちが学ぶべき第一は、学習にしろ、科学にしろ、子どもたちに伝えるためには、何よりも「伝えたいという思いと情熱」が先である、ということでしょう。それがなければ何も始まりません


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