『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

石ころと星・宇宙の誕生と死24

2017年10月28日 | 学ぶ

 ガクの目を見ていると、今週掲載した写真のように、とても表情が豊かなことがわかります。スッポンは、ぼくたちが考えているより、もっと高度で複雑な感情があるかもしれない、そんな気がします。

我が輩はスッポンである
 わたしはスッポンである。名前は「疾うにある」、と云いたいところだが、これには一悶着あった。
 そそっかしいハゲエモンが、あろうことか、オスだと思い込んで「学」と名付けたのだ。あっハゲエモンとは、オーナーである塾の教師のニックネームだ。
 「捕虜」になって間もなく、小うるさい腕白坊主たちが、オスだのメスだの、ギャンギャン騒ぐ中、ハゲエモンが「こいつはオスだろう」。「甲羅からしっぽがはみ出ていたら、オスだというから・・・」と宣った。つまらない本を信じたようだが、知ったかぶりもいい加減にしなさい。中途半端な本は「時々嘘を教える」から、ほんとうに困る。

 「しっぽが長いの、短いの」と云っても、スッポンの間ではそんなに厳密に区別されているものではない。人間だって、デブもいればノッポもいる。「スッポンよりオス・メスの区別がわかりにくくなっている」場合もあるでしょう?
 スッポンも、鼻の下をのばした「おっさんスッポン」が、濁り水の中でメスとまちがえ、同性の「おっさんスッポン」の後を追っかけたこともあるらしい。甘樫丘の下、飛鳥川の美人友だち、スッチーに聞いたことがある。
 単純にしっぽだけで決めつけるのはやめなさい、いろいろいるんですよ、人間もスッポンも。  
 『オイ、まちがえるなよ』と一言文句を云ってやりたかったが、やはり声が出ない。しょうがないから、精一杯睨んでやった。ふんッ。今に見ていろ! 

 思いっきり予想外だったのは、ハゲエモンと、生命の危険さえ感じていた腕白坊主たちが、よく面倒を見てくれることだ。うれしすぎる誤算だ。週に一度みんなで水槽のゴミを掃除し、ポンプをきれいに洗って水を入れ替え、快適な環境を維持してくれている。子どもたちが作業のスピードが遅くて、忙しいハゲエモンに毎回叱られるのはご愛嬌だ。

 思い起こせば、教室に来た当座は不安でしょうがなかった。というのも、飛鳥の田んぼの溝でひっくり返っていたとき、ひとりのチビが、「アあぁ 亀みたいなやつ死んでる~」。
 スッポンに向かって、「亀・ミ・タ・イ・ナ」とは何事だ。「みたい」とは。少し怪我はしていたが、お腹の白さや甲羅の模様を見れば、スッポンのなかでも、飛び抜けた「美人」だとわかるはずだ。それに、ひっくり返っていただけなのに、「死んでる~」とは何だ、縁起でもない!

 こんな、訳も分からない、わたしが生きているのか死んでいるのかもわからない、小うるさいチビどもに連れて帰られたら、たいへんだ。中には「食っちゃおう」という、恐ろしいやつも出てくるかもしれない。生命の保証はない。そんな感じだった。
 子どもたちと一緒だった厳ついおっさんが、農作業をしていた隣の田んぼの持ち主の元に行き、「このスッポン、持って帰ってもいいですか?」と聞いていた。顔なじみだったおじさんが「いいよ。でも殺生しないでよ」と言ってくれた。
「わかっています」。いかついが、ニコッと笑ったオッサン顔が憎めなかった。それがハゲエモンだった。
 こいつは単細胞そうだから、「二言」はなさそうだ。気は向かなくても、からだのデカさから逃亡はムダな抵抗だ。逆らえない。もはや、ついていくしかない。

 現在の住まいは教室にある90cmの水槽である。授業中、周りを囲むように子どもたちが座る。いつでも見ることができるように、というハゲエモンの配慮だが、「他に場所がない」という方が本音かもしれない。
  住まいをあてがわれ、落ち着いたわたしは、オスと取りちがえられていることに、少しずつ腹が立ってきた。セクハラだ。それに、誰彼なしに「ガク、ガク、ガク」。うるさくてしょうがない。

 学じゃないッ。オスじゃないっうの。この美しさがわかんない? 誤解されたままでは「スッポンクイーン・ミス飛鳥」の称号が泣く。
 というわけで、一人のチビが休憩時間に水槽をのぞいているとき、「エエイ」と気張って卵を産んでやった。そのときのチビの、おどろいたのなんの、大声で、「センセエ! ガクが卵みたいなの生んだぁあ」。
  「なんだ? 卵みたいとはなんだ、ミタイとは。タマゴだよ、正真正銘のタマゴっ!」。云ってやりたかったが、残念なことに「声帯不足」で、やはりしゃべれない。
 ハゲエモンと、もう一人のチビがあわてて駆け寄ってきたとき、今度は用がなくなった卵を「ゴクン」と飲み込んでやった。これで、みんな、「ミス」だって認めただろう。

  その後、ハゲエモン先生(一年間お世話になったので、先生をつけるようにしようと思う)によって、わたしの名前は「飛鳥学美(あすかまなび)」に変えられた。飛鳥で捕まって、学習塾だから「まなび」。これなら、「ガクと云う、呼び慣れたニックネームがそのままでいいから」というのが理由だという。
 結構な「手抜き」だが、メスと認知されたのだから、今回は「よし」としよう。もったいないから腹立て卵も、もう生まないことにした。

 そうだ、最近、子どもたちと一緒にハゲエモン先生の講義を聴くようになった。授業中、時に気をそらせて、美しいわたしに見とれる腕白坊主がいる。先生は一言、「エサにするぞ」。
 「みんなア、エサにされちゃたいへんだからサ、勉強なさいョ」。いつもわたしは、心の底から子どもたちに、そうエールをおくっている。
  
逆転の発想
 子どもたちを指導しているぼくたちが指導の際、とくに気をつけなければいけないことを、年を重ねるごとに、より意識するようになりました。天才を育てた「ファインマンのお父さん」と、「天才になるエジソンを育て損ねた」エングル先生との、「認識の大きなちがい」です。
 ファインマンのお父さんはブリタニカこそ読み聞かせましたが、その「教科書」は「避暑地の森」でした。エングル先生の方は、きっと「計算問題の問題集」や「書き取りノート?」だったでしょう。さらに、その中に家で膝にのせてブリタニカを読み聞かせてもらったり、森でおもしろがるお父さんに興味ある話を聞かされた子はほとんどいなかったはずです。
 二人の立場のちがいは当然考慮に入れるべきものとしても、注目すべきは、「教えるときの感覚」です。「ファインマンのお父さんは『自分もおもしろいこと』を教えよう」とし、「エングル先生は『教えなければならないと勝手に思い込んでいるもの』を教えよう」としたことです。「何がおもしろいか。子どもたちが何を知りたがっているか」なども考える余裕はまったくなかったでしょう。
 ふだんよく見えませんが、ここには、予想外に大きな問題が隠れています。「自分がおもしろいこと、おもしろいと思っていること」を教えずに、はたして「教えたいこと」がうまく子どもたちに伝わるだろうか、という問題です
 自分がおもしろいと思っているからこそ、その面白さを何とか伝えたいし、伝えようとする熱意も生まれ、工夫も重ねるのでしょう。教科書で教えるのであれば、「借りてきた教科書」ではなく、その教科書を「自分がおもしろいと思う内容と体裁に自ら変えて伝える」ことこそ求められることではないか。こうした問題は百年を経過しても、その多くは個人的な問題になってしまうので、ほとんど未解決のままではないでしょうか。

 当時より教科書はよくなり、教え方も少し変わってきたかもしれません。教科書をよく教えようとする工夫は重ねられているのかもしれません。もちろん、中にはそう思って指導されている先生方もたくさんいらっしゃるだろうことはわかっています。心からエールを送ります。
 しかし、本質的な問題の解決は図られたでしょうか。エングル先生ではなく、ファインマンのお父さんはどれだけ増えたでしょうか。
 「おせっかい承知」で申しあげると、エングル・スタイル打破の突破口は、まず「子どもたちの感覚」に対する意識改革だと思います。「観念」やイメージではなく、「子どもたちの現実の姿」をもう一度虚心に見なおす。経験から、これは何度やっても、やりすぎることはありません。

 ヒントになればよいですが、「指導をこちらから進めるという意識ではなく、今ある『現実』に彼らが注目するような問いを子どもたちに投げかけ、彼らが考えた解答にアンチテーゼや例外を投げかけ、彼らが自らの考察の枠にそれらを取り入れ、さらに考えを進めていくことをくりかえす」、というスタイルが最良だと思います。結論や解決に至ればそれもよし、たとえ結論が出なくとも、彼らの「考える力」は次に向かいます。
 それがファインマンのおとうさんがやった方法の基本です。古くはソクラテスの問答も、類似のパターンだったのではないでしょうか。それによって、子どもたちは「考えることと、学習対象の奥行きと広がり」を学んでくれると思います。「好奇心のきっかけ」のひとつにもなり得るでしょう。

 釈迦に説法かもしれません。しかし、ぼくが指導を始めたときのことを振り返ると、「反省ばかり」が頭に浮かびます。「学習指導要領」や「それに類するもの」がまず頭にあって、それをいかに教えるか。そこから抜けきれない。抜けられない。「それを教えればよい」と考えている自分がいる。みんな自分自身の経験知がそうだったからです。それ以外の方法に出会うことがほとんどなかったはずです。
 あるいは受験問題「馬鹿裏」(考えながらマックのキーを打っていたら、今こんなふうに変換しました、こいつ! おもしろいやつだ、その通りだ!)が頭にあって、それの得点力をいかに高めるか? それ以外のことが、ほとんど「の売り」(「脳裏」と打とうとしたら、今度はこう!ハハハ最高だナ、こいつ)に浮かばない。

 既定のテキストを使うことを前提に、学習対象・学習内容を教えようとすれば、どうしてもそうなります。さらに、自分たちが指導されてきた姿しか見えない、知らない。なまじ知っている知識がある故に、勉強してわかっている(と思っている)が故に、「結論や理由を知ったつもりになってしゃべってしまい、それで済ませる」。そうなってしまいがちです
 これでは、いつまでたっても「抽象を抽象で教える」という、従来のサイクルから抜け出ることはできません。子どもたちの感覚を脳裏に、学習対象や学習内容をもう一度分解して身近に引き戻し、内容と方法を考え直し新たに組み立ててみる努力は欠かせません。「銀の匙」の灘中の橋本先生の努力に比べれば、元があるのですから、まだ容易ではないでしょうか。
 子どもたちは「抽象」を知りたいのではありません。「自然をはじめとする周囲のこと、身の回りのこと、そのなりたちとしくみ」をもっと知りたいのです。自分がそこで生きていかなくてはならないわけですから…。その現実をどうしても知りたいはずです。「現実」です。それらを考えたいのです
 事情が許さないのであれば、少なくとも彼我の『狭間』を、常に意識して授業を組み立てなければならない。それが次のステップです。子どもたちの興味ある、おもしろい勉強のスタートです。

 左の写真を見てください。これはサヌカイトの切断面です。サヌカイトの切断面は写真のように黒っぽいのですが、表面は風化して「他の石」と区別がつきません。石器に使用された特別な石ですが、現物を知らず風化のままなら、取り立ててなんということはない、ただの石です。意識が向かいません。観察や考察の対象にはなりません。「学び」は進まないのです
 道端の石も、たいていの場合キラキラ光ったり、特徴ある姿をしていることは少なく、また近くでは石ころも見なくなり、子どもたちも忙しく、石ころなんかに目をくれる暇もないので、よけい興味がわきません。つまり『狭間」の存在です。「単なる石」を乗り越えられません。学習内容が「現実の石」ではありません

 それなのに中学校の段階になって、岩石や地殻のことを少し詳しく勉強させられ、主要な岩石として、地殻では大陸地殻が花崗岩、海洋地殻が玄武岩、マントルは橄欖岩と核は鉄等・・・と学習するわけです。受験知識で火山岩や深成岩のでき方をイラストと二・三行の紹介で勉強していても、実際の花崗岩は見たことがない。海洋地殻の玄武岩やマントルの橄欖岩は見たくても見られない・・・。
 さらに、いずれの石も、さっきのサヌカイトのように風化しているので、道を歩いていて、時に岸壁や地層に出会っても、その違いが目には留まりません。「花崗岩が大陸地殻を構成している姿を見たくても見ることができないまま」なのです。地球にとってはそれだけ身近でたいせつな石なのに、です。

 「現実に存在する姿」を知らないまま、そのたいせつさがわからないまま、「勉強する対象」である花崗岩という受験事項を文字の抽象によって頭に溜め込んでいくだけです。学習が進むとともに、「狭間」はさらに広がっていきます
 子どもたちは「身の回りのこと」を知るのではなく、ずうっと「勉強のための勉強」をしているのです。「知りたい周囲のSomethingに何ら興味をもてない感覚」のまま、好奇心が届かないまま中学校に行きます。

 そして、年齢から云えば、ほとんど「異性にガンガンの頭」のときに、あるいはそこまででなくとも「興味津々」のときに、いきなり、地層や岩石の区別を詳しく「勉強しなければならない!」のです。
 異性への興味で「燃えるような思い」、「身体が火のように熱くなっている」ときに、教科書の溶岩や爆発なんか、「もうどうでもいい」はずです。ともすれば、自分の肉体が熱で溶け出したり、自分が爆発してしまいそうなんですから。
 偶に真面目な子がいて、我慢して受験知識として蓄えても、所詮そこどまり。裏付けやバックグラウンドがないので、多くの場合そのまま発展性は生まれません。知識は「クイズの解答」のゴミ箱です。

 現在のところ、特に例に挙げた岩石(地学の学習)に限らず、ほとんどの学習(勉強)が、類似のすすみ方をしているのではありませんか?「必要性」にも、「なじみ」にも迫られず、学習対象や学習内容は、子どもたちの中で、こうして疎遠なもの、取り立てて価値が見られないものになりつづけていくのです。学習指導のこの壁はどうしても突破しなければならないと思います

 教育にかかわる人たちはすべて、この「教科書は見知らぬアルバム(過去ブログ参照)状態」から抜け出す発想と方法を現実化する必要に迫られていることを意識すべきだと思います。それによって、ぼくたち(日本)は、数十年後すばらしい科学者を、もっともっと送り出せるはずだ、いつもそれを夢見ています。 


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