『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

石ころと星・宇宙の誕生と死21 立体授業 「二上山の三つの石」Ⅱ

2017年10月07日 | 学ぶ

受験校選択への疑念 
 受験する小学生のお母さん・お父さんたちは、この時期になると受験校の選択・決定に大わらわでしょう。しかし、その段階で「何を選択の基準にするべきか」という落着いた判断力はともなっているでしょうか?

 「難関大学への進学率とその伝統」、あるいは「雲をつかむようなうわさや風評」、「個人の感想」「受験塾のある意味無責任なアドバイスと洗脳」、そして「周囲のプライドや見栄」。それらが選択基準になっている場合が多いのかもしれません。そこで忘れられがちなのは「受験生本人の学力レベルやキャパシティ」を冷静に判断する「作業!」です。
 まず一つ目、「難関大学への進学率」から考えてみましょう。
 団ではこのブログでの塾紹介以外、塾生募集の告知は行ってはいません。その理由は「『学力のみに限らず、さまざまな面で子どもの成長をたいせつに考えている』お父さんやお母さんと子どもたちを、じっくり育ててみたいという思いがあるから」です。中学受験での優劣判断ではなく、その先にある子どもたちのたいせつな人生についても、考えたいと思っています。彼らがどういう夢や目標をもつにしろ、「それらをかなえるためには何がたいせつで、何が必要かを考えたい」のです。それが子育ての基本です

 子どもたちの人生は中学受験で終わるのではありません。そして「学校は何のための学校」か?
 自らが、そこで力を養い、切磋琢磨し、独り立ちできる能力を養うことができること。できれば、自らの夢以外に自らが生きている社会の夢を担える度量や学力を蓄えられること。それしかありません
 これらの力は学校だけで養えるものではありません。周囲に夢や理想を抱え、子どもに接する人の存在がなくては、まず不可能です。さらに「『それらを心から願い、いつも忘れず原点に戻る』という冷静さ」が周囲になくてはなりません。
 定評あるトップ校へ行ったらすばらしい成長が可能になる、という単純なものではありません。何よりも必要なことは「行く学校」ではなく、ふだんからそれらの夢や理想を自らも忘れない客観的な視点であり、広い心であり、そのために自らを律する冷静なセルフ・コントロールです。成長は進学先のみに頼れるものではありません。それが団の実績です。

 もっと誤解を恐れずに云えば、学校はあまり関係ありません。整うもの・整うことが整えば、よほどレベルの低い学校でもないかぎり、どこへ行こうと「素晴らしい成長」は可能だとぼくは思います。OB教室を経た団員の中学進学先と進学大学、そして時折紹介しているOB生の姿を、もう一度振り返ってみてください。

 京大院卒業後就職し神戸大医学部に難関を突破し学士入学、もう次の目標を掲げ合格後すぐケニヤに飛んだK君、医大へ行くというので何を専攻するのと聞いたら、「センセイ、わたし、日本一の看護師になりたい!」といったYさん。
 同じく医大に行くので、「何をやりたいの?」と聞くと、「ぼくがアトピーで苦しんだから、皮膚科に行きます」と夢を語ったKS君(今は北海道で、救急医療に邁進しています)、Kさんは「高校のときにいじめにあい、カウンセラーの先生にお世話になったから、精神科に行きます」。そして、ことばの発生の研究でベトナムに飛んだ京大院のY君・・・進学中学は関係なく、こうして育ってくれたOBがいます。ちがいが分かっていただけますか。

 まず大切なことは、学校ではなく「学ぶことのたいせつさを自覚する(できる)環境」。「学ぶおもしろさに気づくことができる指導と環境」。そして「本人が責任や夢を自覚できる余裕」。
 これらを可能にするには何が必要か? 決して学校ではありません。必要なことは、日々の「周囲の」細やかな対応と指導です。そして、指導者・保護者の「思いの共有」であり、「熱さ」であり、「両者の協力と信頼関係」です
 それらによって、子どもたちの「学体力」が育まれ、健やかな成長を重ねていきます。たいせつなものは、まず「これらの環境がもっともたいせつであるという自覚」と、「それに対するアプローチ」です。
 学校ではありません。「学校の指導力を当てにしない本人の『学体力』の養成が根本」です。その方法については、五年間のブログを参考にしてみてください。ヒントがたくさんあると思います。

進学中学レベルより「学体力」
 進学先の選択をすることについてのアドバイスです。先の進学中学や子どもたちの成長のようすをヒントにしていただくと、「無理矢理進学」はどういう結果をもたらすか、想像できると思いますが、そんな例を一つ。
 以前、ぼくは「小学校3~4年生のときに、京大や阪大へ行ける(進学可能性のある)子がわかる」と述べました。学力については「このまま僕のところで指導を受け、保護者の適切な理解と協力はあればまちがいない」という確信があります。表の京大・阪大へ進学した8人は、小学校の段階で本人や保護者にそう伝えたはずです。そして、そのために必要な頭のはたらきの判断の基準についても以前披露しました。もうひとつ、彼らの保護者のみなさんはアドバイスをきちんと聞き入れ、指導にもすこぶる協力的でした。

 逆に、そうではない場合、例えば背伸びして進学しても、本人には過重負担で、良くない結果を招くだろう(たとえば低迷するだろう)ことも、はっきりわかります。そうしたとき、保護者や本人には、それとなく何回も懇談等で伝えていきます。しかし、なかには冷静に対処できないお母さん・お父さんたちもいます。
 自らの学生時代、友人たちのようすや指導経験を振り返ると、日々自らの手に余る過酷な競争の中で、過重な負担とコンプレックスを背負い続けるだろう悪影響は痛いほどわかり、一生にかかわる自負や自信にも影響するので、何度もアドバイスを繰り返すのですが、わかってもらえないこともよくあります。近年もそんな例がありました。

 5年生初めの段階で、模擬テストではほぼ同じ成績だった子がいました。ひとりは5年生で入団した子で、もう一人は3年生から団で学んでいた子(B君)です。模擬テストの成績は、その時点ではほぼ同じでも、「関連をとらえる力」や「ひらめき」が、A君とB君では明らかにちがいます。
 つまり、学力を究めるための「前提」が大きくちがうのです。B君は私立小学校で、1年生からそれなりの受験学習をしていたので、模擬テストの基礎点ぐらいはとれます。もう一人のA君は公立ですが、明らかに勘が鋭くひらめきが豊かです。経験は不足ですが、現在の力と将来の可能性や能力はまったく別です

 6年生になったとき、三者懇談で、ぼくは、進学しようとしている中学での生徒の能力レベルや学習内容がそんなに甘いものではないこと、ついていこうと思えば、おそらく相当の学習量をこなさなくてはならないことを、当該のB君のお母さんにも本人にも伝えましたが、聞き入れてもらえません。
 それよりも、ランクを少し落としてでも、プライドを保てる余裕のあるなかで、先々の学習を進めたほうが良い結果が出るだろうことを、やはりそれとなくほのめかすのですが、「本人が行きたいというので」の一点張りです。冷静な判断ができず、こちらの進学先アドバイスも効果がありません。

 残念に思いましたが、強制的にあきらめさせるわけにはいかず、そういう結果であれば、ぼくはその方向で最善を尽くすしかありません。できるだけ思いをかなえてあげたいからです。彼の学力と受験先レベルを考え、受験対応をしていきました。そして、二人とも合格できました。
 B君(と呼んでおきます)もなんとか合格はさせましたが、わがままに甘やかされて育てられた子ですから、調子に乗り、合格後の注意を聞かず、すぐ手抜きです。最初の中間テストで、ビリから5番になりました。

 最近、進学先の先生があいさつに来られ、「センセイ、A君は素晴らしいですね」。ぼく「そうでしょう、今のまま育ってくれれば阪大は大丈夫でしょ」。「ですけど、B君の方がちょっとシンドイんですわ」。「わかっています、進学先について、何度もアドバイスしてみたんですが、聞き入れてもらえなかったんです・・・」(B君はすでに退塾)。
 進学先を決める場合、きちんと子どもたちを見ている能力の高い先生ならば、学校と子どものレベルのイメージは高い確率で合致するはずです。選択のアドバイスを聞くことが大切です。学校レベル優先では決してありません。学校と本人の可能性レベルの比較が、まず優先です
 子どもの将来は日ごろの観察ときめの細かいしつけや指導が基本です。やるべきことをやるべき時にやる。やってはいけないことをやらない。それを教えること。可能性は、きちんとした指導やしつけによる人間性の確立、余裕ある学習の中での教養の定着、それらと本人の能力という、「総合力」の展開です。他力を期待しすぎることはできません
 単純な基準をまず徹底し、学ぶおもしろさや学ぶ大切さを心の底から伝える努力をする。それによって、彼らは、もっている能力をはるかに凌駕して、花開く未来を手にすることができるのではないでしょうか?

立体授業 「二上山の三つの石」Ⅱ

 この立体授業の学習指導内容については、次の書籍・リーフレットの内容を参考、また引用させていただきました。なお、ご紹介できなかった学術内容引用分があるかもしれません。お詫びとともに、厚くお礼を申し上げます。内容に誤謬があれば、ご教示いただければ光栄です。また、今回の二上山の写真は、畏友の写真家辻本勝英氏の撮影です。
 日本列島地学散歩 近畿・中国編 竹内均 平凡社カラー新書/大地のおいたち 地学団体研究会大阪支部編著 築地書館/日本列島の誕生 平 朝彦著 岩波新書/よみがえる二上山の3つの石 展示解説 二上山博物館/山はどうしてできるのか 藤岡換太郎著 講談社ブルーバックス/二上山博物館案内リーフレット他

近畿地方
  近畿地方は、北部には中国山地の延長と云ってよい丹波山地・比良山地など、平均高度約600mの高原状の山地が続いている。日本海側は急な崖になっているところが多く、若狭湾沿岸はリアス式海岸である。
 南の方には、高く険しい壮年期の山である紀伊山地の北の端には日本の二大構造線のひとつである中央構造線が走り、紀伊山地は海にまで迫り、熊野灘や志摩半島は複雑なリアス式海岸が発達している。紀伊山地は日本有数の多雨地帯で、尾鷲市は日本一降水量の多い市である。
  中央低地には、ほぼ南北に並行して走る伊吹・鈴鹿・笠置・生駒・金剛・和泉などの小さな地塁山地があり、その間に近江・京都・亀岡・上野・奈良等の、これまた小さな地溝盆地がある。地塁・地溝というのは、ほぼ平行には知る『断層』によって区切られ、その両側より高まったところを地塁といい、低まったところを地溝と呼ぶ。鈴鹿山脈や生駒山脈をつくる褶曲運動が始まったのは、第三紀の終わりに近い約500万年前である。その後その運動がはげしくなり、断層やこれらの山々ができた。
 ヒマラヤ山脈の誕生のときも学んだが、歴史を大きくとらえると、おもしろいことがわかる。仮に1000メートル級の山であっても、100万年でできたとすれば、その隆起スピードは年1mmにすぎない。また、このような隆起は現在でも日本列島のあちこちで見られる。
 つまり、地球は今でも絶えず変化している、生きているのである。立体授業の化石採集地は約1500万年前の地層と云われているが、その間、もし毎年1mmずつ成長している山があったとすれば、現在標高15000メートルと云うような、飛行機が飛ぶ高さを超える、とんでもない山ができていることになる。

サヌカイトと1500万年前の火山活動
 サヌカイトという名前は外国人の命名だった。今から100年以上前、ナウマン象でおなじみのドイツのナウマン教授が、ドイツの学術誌に「日本の讃岐地方(香川県)に、カンカンと澄んだ音を立てる珍しい石がある」と書いて、そのサンプルをワインシェンクという知人の学者に届けたことによる。それを調べたワインシェンクが岩石学的にも珍しいタイプだと、1891年に「サヌカイト(讃岐の石)」と名付けた。
 それはサヌカイトが火山岩で安山岩であるにも関わらず、安山岩に特徴的な大きな結晶(班晶)と小さな結晶(石基)の区別がないガラス質であることだ。これはサヌカイトが特に急冷されてできた石であることを物語る。ガラス質は黒曜石などと同じく、鋭い刃をつける石器に最適だ。そのため、サヌカイトは、名前で有名になった香川県産ばかりではなく、みんなも知っている二上山産でも旧石器時代から弥生時代にかけて、さかんに石器に利用されていった。
 なお、香川県下では、7カ所でサヌカイトが見つかっているが、その成分の微妙なちがいにより、それぞれの産地が特定されるという。サヌカイトは、類似の石もあわせて『サヌキトイド』と総称される。

 サヌキトイドは、この二カ所に終わらず西南日本の数カ所で発見されている。また香川県下の1300万年前をはじめとして、生成されたのが1400から1200万年前の間だけであることがわかっている。それはサヌキトイドがふつうの安山岩によく見られる化学組成以外に、マグネシウムを極端に多く含んでいること(学会での呼び名は、高マグネシア安山岩)から判明した。
 マグネシウムが多くなるには、マントルの物質に多くの水が供給されなければならないというが、この時代の少し前、1500万年前くらいからアジア大陸にくっついていた日本列島が日本海の拡大により太平洋に向かって押し出された時期があったという。それによって太平洋の水をいっぱい含んだ堆積物の上に乗り上げ、その堆積物が日本海溝からマントルに引きずり込まれ、マントルに水が供給されたからと想定されている。そのため西南日本に一時的にサヌカイトのできやすいマグマが発生したと云うわけである。
 1500万年前の日本列島は二上山近辺に限らず、現在の地形で云えば、屋久島から九州・瀬戸内海・四国の足摺岬をこえ、紀伊半島の奈良・三重県境の室生を抜け、千葉の銚子あたりにかけて短い期間であるが、全域にわたり火山活動が起った。渓流教室で、赤目の地勢を学習した時にも述べたが、先の室生をはじめ、大和三山の畝傍山・耳成山や生駒山周辺も激しい火山活動があった(左図は「上記「大地のおいたちより))。

 二上山は約1300万年前には活動を終えたが、その間サヌカイトなどの安山岩の生成だけではなく、屯鶴峯の白い凝灰岩の景観や、石切場火山岩(シソ輝石ザクロ石黒雲母デイサイト)と呼ばれる岩石にザクロ石を大量に含むような地殻変動が続いた。それらの岩石が長い間に風化し、周辺にザクロ石が大量に堆積した。「金剛砂」である。
 これらは平安時代から昭和初期までさかんに採掘され、利用されていた。平安時代には天皇の住まいの御所の敷き砂としても利用され、室町時代には、特産品として税の代わりに納められた。江戸時代の終わりには、瑪瑙の研磨用として利用され、その後戦闘機のガラスを研くのに利用されたり、サンドペーパーの材料として盛んに使われた。

 金剛砂の中にはザクロ石ばかりではなく、サファイアや石英・ジルコン・紅柱石など、さまざまな小さな鉱物が含まれているが、このサファイアを産する元の岩石は見つかっていない。しかし、この石切場火山岩に「捕獲岩」となっている片麻岩礫の中に含まれているのではないかと考えられている。


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