寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

記憶に残っている映画(3)「2010年宇宙の旅」

2016年01月25日 21時41分52秒 | 寓居人の思い出話

 少し前に共同研修をしていた方が亡くなりました。

その方は病気のために骨粗鬆症になり、校庭を散歩

中に小さな石につまずいて転んで足の骨を折ってし

まいました。その方はまだ50歳くらいだったと思い

ますが、それほど骨がもろくなっていたのですね。

そんなある日、ある国立病院の方と骨粗鬆症の研究

を一緒にやる機会ができました。骨粗鬆症と診断さ

れた方の骨を少し採集していただいて化学成分率を

調べていて大変なことを発見してしまいました。そ

の話は別の機会に書きますが、骨粗鬆症の原因とし

てストレスが関係ないかを調べてみることになりま

した。ラットを使った実験では毎日定時刻に長時間

水中に泳がせていたラットと対照群のラットとの骨

を調べてみますと明らかに泳がせたラットの骨に異

常が見られることがわかりました。

 そんなとき宇宙飛行士の向井さん話をする機会が

ありましたので、実際に宇宙へ行った宇宙飛行士の

方々のストレスに尋ねました。当時そのことはNASA

でも話題になり研究する準備をしているということ

でした。

 さてここで映画の話になります。「2001年宇宙の

旅」という映画は皆様もご存知と思いますが、その後

の「2010年宇宙の旅」という映画の一場面で面白い

画面に気が付きました。というのは宇宙船から宇宙船

乗り移るときに、ある研究技術者は宇宙服の中を酸素

で満たし酸欠状態にならないようにしたにも拘らず移

乗の途中で身動きできなくなり呼吸困難状態になって

しまいました。仲間によって救助されて事なきを得ま

したが、恐怖というストレスで生命の危険な状態が出

来したのですね。この場面を私は忘れることができな

くなってしまいました。もともとこの映画は、月で発

見された”モノリス”という謎の碑のようなものの正体

を明らかにするという設定だったと思いますが、製作

者はこんな細かいところまで調べていたのですね。私

にとっては思い出に残る映画となりました。

 蛇足ですが、最近の宇宙飛行士はどうかわかりませ

んが、宇宙遊泳をするときに宇宙服を着て酸欠になら

ないように酸素シャワーを1時間以上続けるというこ

とを聞いたことがあります。地に足がつかないという

のは人間にとって最大のストレスになるのでしょうか

ね。

 宇宙の旅シリーズは小説でも都合4本存在します。

最終的には進化の過程で逃走的な部分が強調されてし

まった地球人類を抹殺して、木星を太陽にして衛星の

エウロパに発生していた生物の進化を待つという設定

になっていました。広い意味では人類の現状に警鐘を

鳴らしたということでしょうか。

 


節約することは探すとあるものですね

2016年01月25日 19時08分37秒 | 日記・エッセイ・コラム

 最近、カード決済の明細書を見て少し節約しなければ

いけないと考えさせられました。通信費(ネットを含め

て)、あまり見もしない有料TV視聴料、PCの安全管理料

がかなりの金額になっていたのですね。それとユニセフ

への寄付金ももう20年以上続けてきました。これは私が

生きてきた証にもなるのでもう少し継続することにします。

 前記3項目を再検討することにしました。手始めにネッ

トの無線ランシステムを調べました。昨日まで使用してき

た装置は迂闊にも知らなかったのですが毎月3000円かかっ

ていましたが、それがOCNの無線ランカードにしたら1か

月100円で利用できることになりました。孫たちが来ると

1Fで2台のノートPCを使います。それと寝室でもタブレッ

トを使いますので家全体をカバーする、しかしあまり強く

ないものでセキュリテイのしっかりしたものにしました。

 今衛星放送の契約を調べています。これは3台も総合契

約をしていましたが、必要なch.だけにすると1/3程に節

約できることがわかりました。PCの安全管理契約は年利で

したがどうやったらよいかを検討しています。不正アクセ

スのことを考えると難しい問題ですね。

 最後に電気代ですが、照明器具を半数ほどLED照明に変

更することで40%ほど減少することができました。この

頃LED照明器具が廉価になりましたので初期費用が少なく

なったことは嬉しいですね。ということで全体ではかなり

の家計費を減少することができました。

 いろいろなことを探すと節約できる問題はあるものです

ね。


琴奨菊 優勝おめでとう

2016年01月24日 21時57分40秒 | こんな出来事がありましたよ

 大相撲初場所は琴奨菊が優勝して15日間の幕がお

りましたね。日本人とか外国人とか差別をする心算

はありませんが、日本人力士が優勝したのは久しぶ

りのことですからやはり嬉しいですね。

 今場所の横綱白鳳には何か張りが欠けていました

ね。報道によると横綱引退した後のこと(親方にな

るとか)をいろいろ考えているのではないかんなど

という人がいました。しかしそれは相撲の取り組み

に影響するとは思えませんが。やはり長い場所をや

ってきて疲れが出てきたのかもしれませんね。

 それと一昔前には、九六大関などと横綱に勝てな

い大関がいましたが今場所も一人が途中休場、一人

九勝六敗、もう一人は大幅に負け越してしまいまし

た。

 番付表を見ると前頭の上位陣は勝ち越しが難しい

ようですね。

 私はあまり大相撲には興味がありませんでしたが

今日は特別の関心がわいてきました。琴奨菊もそん

なに若くないのですから、今年中は体をさらに大き

くして頑張ってほしいものです。


学生紛争の思い出(4)

2016年01月23日 21時36分19秒 | 寓居人の思い出話

 文系学部の校舎が占拠されてしばらくすると全共闘

系の武闘派の学生の一団が理学部教授会になだれ込ん

できました。すると近くに待機していたらしい全学連

系の学生がすぐ会議室へ入ってきて前者を追い出しま

した。

 そのとき逃げまどっていた強硬派の学生が玄関の屋

根に追い詰められましたが、彼は高さ6メートルほど

のところを飛び降りて怪我をした様子を見せずに校門

のほうへ逃げていきました。彼は空手部に入っていた

とかで運動能力も高かったのでしょうね。

 私はその少し前に、手ぬぐいで顔を隠していた彼と

対面したことがありました。そのとき彼は細長い金属

製の棒を持っていました。私が説得していたとき、彼

は突然その金属製の部を私の顔面めがけて突き出して

きました。私は身を引くこともできず、彼をぐっと睨

みつけました。その勢いに押されたのか棒は私に僅か

に届かなかったのです。彼は”お前は怖くないのか”と

激しく迫ってきましたが、私は”私は戦争中空襲で何

回も死にそこなってなってきたんだ、こんなことぐら

いで驚くか”と大声に叫びました。彼はたじろいで引

き下がっていきました。その後、彼は私の姿を見ると

身を隠すようになりました。

 私も熱かったのですね。危うく自治会系学生の二の

舞になるところでした。君子ならぬ身の悲しさ危うき

に近寄ってしまいました。


手作り餃子とヨーグルトの食べたか

2016年01月23日 21時03分59秒 | 男の手料理といえるかな?

 手料理なんてものではありませんよ。昨日は餃子を

40個作って30個ほどを夕食の菜として家族で食べまし

た。残っでいた10個ほどを今夕食べました。中身は、

玉ねぎ(0.5個)、ピーマン(1個)、シイタケ(小2

個)、白菜中心部の葉(5まい)をみじん切りにした

ものと豚ひき肉(200g)をボールの中でよくこねて1時

間ほど寝かせたものを大判の餃子の皮で包み形を整え

ました。

 これらの餃子を例の”Happy Call"のフライパンを

予め温めて置き、油をひかないでそのまま餃子を入れ

ます。水を50ml入れて中火~小火で2分間焼き、ふた

ごとひっくり返して3分間焼いて5分間ほど蒸らします。

これできれいに焼き色のついた餃子の出来上がりです。

 ニンニクかせめてニラを入れるともっと美味しくな

るのでしょうが、これらの香り(臭い)を好まなき家族

のために使いませんでした。

 このフライパンは特に焼き物には使い勝手が良く、

重宝しています。

 さて、娘にすすめられてヨーグルトを食べるように

なりましたが飽きてきましたので違う食べ方を探して

いたところ、我が家でもちをついた(パン焼き器で)

時に食べた黄な粉がありましたので、それをヨーグ

ルトに入れて食べてみました。これが私にとっては

大当たりでおいしい黄な粉ヨーグルトの誕生になり

ました。いろいろ試してみると思わぬ味に出会うこ

とがあるようです。これからもいろいろ試してみま

す。

 

 


教育界でも教科書選定に関する賄賂?

2016年01月22日 22時04分15秒 | こんな出来事がありましたよ

 初めは、池の水が微風にさざ波を立てているだけ

かと思っていましたが、波は少しずつ大きくなって

日本中に大きな波となって広がろうとしています。

 出版社も数千円の薄謝あるいは交通費と考えて渡

していたようですが、出版前の教科書について意見

を聞くだけといっても教科書選定には少なからず影

響があるかもしれませんそのような行為は避けなけ

ればならないでしょうね。

 しかし大学の教師にはもっと酷い?人がいました

よ。大学の教師は自分の授業の内容を指示されると

いうことはありませんから、自分で執筆した書籍を

教科書として使用する人がいます。それは認められ

るとしても、教科書というのは使用後は後輩に譲る

ことが多いのですが、教科書に綴じ込んであるレポ

ート用紙を使わないと単位を取得できないシステム

をとっているために後輩に譲れないようになってい

ました。それで毎年新しい教科書が売れるというこ

とです。この授業は単位を取りやすいという評判で

受講者は多かったようです。

 この事例は特に贈収賄には関係ないようですが学

生の負担を考えると考えさせられてしまいました。

 前の問題に戻りますが、1、2社の問題ではなく教

科書出版社の多くが同じようなことをしていたこと

がわかってきましたね。日本の将来を担う子供たち

の教育という立場を利用して少額とはいえ贈収賄と

誤解を招きかねないことは速やかに中止してほしい

ですね。


記憶に残っている映画(2)「生きていた男」

2016年01月22日 15時36分13秒 | 寓居人の思い出話

 映画はどんなものでも面白いと思いますが、私の見

ない種類の映画があります。というより私が好んで見

る映画は、時代劇、スリラー、これらは父の好みと同 

じです。そしてSF映画です。他のジャンルの映画を全

く見ないということはないのですが、ほとんど見ない

ジャンルは恋愛が筋の中心になっている映画いわゆる

メロドラマですね。それとドタバタお笑いに終始する

喜劇映画です。

 さて、今日紹介するのは「生きていた男」という題

名の映画です。この映画は、ある富豪の資産を受け継

いだ兄妹の兄が交通事故で死亡したために、妹が莫大

な財産(宝石)独り占めして優雅な生活をしていた。

ある夜のパーテーに最中に兄であるという男に出会う。

妹はいろいろ確かめるが、すべての適切な答えをした

男を海岸線の危険な道路を3分間で走れるかと試すこ

とを考えついた。男は危険なカーブの連続した道路を

時間内に走り抜けた。妹はそのほかにもいろいろ試し

たが男はすべてクリアしてしまった。妹は追い詰めら

れて、その男が兄であることはあり得ない、兄の死因

を知っているからと叫んだ。周りにいた男たちは警察

官だったのだ。これ以上内容を書くのはもしかしてこ

の映画を見たいと思う方がいるかもしれないのでよし

ますが、心理的に追い詰められていく妹の変化が面白

く見ごたえのある映画でした。しかし疑問点もありま

した。妹はなぜ庭で出会った男を兄かもしれないと思

ったのだろうかということです。これは......

 少しずつ追い詰められていく心理の変化過程が面白

かったですね。 


記憶に残っている映画(1)「青い大陸」と「世界残酷物語」

2016年01月21日 20時59分53秒 | 寓居人の思い出話

 私が学生のころ住んでいた品川区大井町には国鉄大

井町を中心に6館の映画館がありました。その映画館

では週替わりで通常2本立てで映画を上映していまし

た。当時は映画全盛だったのですね。その他に通常の

映画上映が終了すると、古い映画、例えば「カサブラ

ンカ」とか「外人部隊」などを深夜映画として安い料

金で見せていました。

 私の両親は、ラジオで落語とか浪曲を聞くくらいで

趣味らしいものを持っていませんでしたので、よく映画

に行きました。時々は私もいっしょに行きました。

 そんなわけで私も映画を好きになり、たくさん映画を

見ました。これまでに見てきた映画で今でももう一度見

たいという映画について書き残しておこうと決めました。

しかし古い話ですから筋書きはあいまいなところがある

かもしれませんがご容赦願います。

 初めに前にブログに書きました「青い大陸」という映

画です。その映像の美しさに心を奪われましたね。世界

にはこんなにきれいなところがあるのかと感動しました。

 その感動は今でも思い出します。その後に「世界残酷

物語」という映画を見ましたが、世界の地域が違えばこ

んなに風習が違うものかと別な意味で感動しました。この

映画はあとになっていわゆるやらせだったと知りましたが、

世界各地の風習や習慣をある程度知ることができましたね。

 例えば風葬の場面がありましたが、もちろんやらせだっ

たのですがすざましいものでした。しかしよく考えると、

水や燃料(薪)が不足している地域では死者を自然に返す

というのは合理的かもしれないと思ったものでした。この

考え方は少なからず不遜だとは思います。でも日本でも風

葬をつい最近までやっていたところがありました。さすが

に現今はやっていないと思いますが。私は終焉を迎えた時

には骨粉を海に流してほしいと思っています。これは一種

自然葬と言えるかもしれませんね。 


学生紛争の思い出(3)

2016年01月21日 14時18分13秒 | 寓居人の思い出話

 1969年、私のいた大学でも全共闘の学生?に占拠

されてしまいました。それまでにも占拠の兆候はあっ

たのですが現実のものになるとは思っていませんでし

た。ある学部の教授会の中に乱入して何か訳のわから

ない要求と称するものを拡声器でがなり立てて教授会

を妨害したり、対立していた自治会系の学生の目を鉄

の棒で突いて失明させたりもしました。

 ある日出勤すると校舎に入れず困っていると、前に私 

に助けられたという学生が来て、当分の間校舎を占拠す

ることになったと教えてくれました。何か持ち出したい

ものがあったら、私と来てくださいと言って研究室へ連

れて行ってくれました。研究室には危険な薬品や高価な

装置・器具がありましたが一応当時暗室として使ってい

た部屋に隠してローカに大きな戸棚をおいて入り口をわ

からなくしておいたので安全だったことが確認できまし

た。校舎の占拠は6月頃から半年以上にわたり継続されま

したので、授業は年度いっぱい行われませんでした。

 校舎を占拠されていた文系学部の卒業予定の学生はどう

処理されたのかは記憶にありません、理・工学部の学生は

通常通りに卒業したと思います。

   

      

   

 

  研究室は写真の通り荒らされてはいましたが、化学科の

学生が頑張って管理をしていたようで予想していたよりは

良い状態でした。一人分の寝床がありました。

 屋上にはレンガの破片や砂利などが大量に置かれていま

した。最後の写真は機動隊が突入しようとしている場面で

す。この日のうちに校舎は解放されました。

 

 


学生紛争の思い出(2)

2016年01月20日 22時17分12秒 | 寓居人の思い出話

 1955年、米軍立川基地の拡張計画が明らかになり

予定地域な愛の住民が反対同盟を結成した。この人

たちに労働組合員が支援した。そんなことが起きて

いることを全く知らなあい私は、1956年大学に入学

した。

 大学生も砂川支援に駆けつけようと学内で盛んに勉

強会を開いていました。授業開始時刻を少し遅らせて

もらってクラス討議をしている最中に、数人の自治会

役員と称する人たちが入ってきて話を始めました。

 クラス委員が今討論中だから出ていくように要求し

ましたが、彼らは話を中止しませんでいた。そこで全

員で取り囲んで教室から追い出し、討論を続けました。

結果は、全員で行くのは個人の考え方があるから止め

て任意で行くことになりました。クラスの半数近くの

学生が砂川へ行ったと思います。

 そして、1956年10月の闘争では千人を超す負傷者が

出たが、予定地の地権者23人が買収を拒否し続けたまし

た。私も1回だけ砂川へ行きました。何処からこんなに

たくさんの人が集まってきたのかと驚いたほどものすご

い数の人たちが集まってデモ行進をしていました。この

紛争は約10年ほど続きましたが、1968年に米軍が基地

拡張を中止し、さらに翌1969年日本政府も閣議で拡張計

画を中止を決めて拡張計画は終焉を迎えました。その後

立川基地は1977年に全面返還されました。

 これが私が初めて参加した学生運動でした。そして一

般市民が結集して行動し、政府の計画を阻止した歴史的

な事件になりました。