寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

「逝ってしまった姉の想い出」Memory of My sister(20131019)

2013年11月05日 07時50分39秒 | インポート

  10月初めに姉が向こうの世界へ逝ってしまいました。
 今年になって多くの恩師や友人達の逝去の報に接してきました。その方達にはいろいろな意味でお世話になってきました。恩師の方の中には私の生き方に決定的な助言を下さった方もいらっしゃいます。そして友人の方々にも言い表すことが出来ないほどの親切を受けました。改めて感謝の意を申し上げます。
 さて、私の姉は87才になる十数日前に亡くなりました。姉には両親以上にお世話になりました。私が、今多くを望まなければ不自由しない生活が出来ることは姉の様々な援助のお陰と言っても過言ではありません。
  私は末っ子でした、それも直ぐ上の兄とは5才も離れていましたから兄姉喧嘩も出来ませんでした。私が物心ついた頃には兄が4人と姉と私の6人兄姉でした。太平洋戦争中から戦後の混乱期を通して姉は母とともに家族の食料確保に懸命にがんばりました。終戦の翌年春、宮城県の開拓地に行った時には、戦災を逃れ僅かに残った姉の着物を次々と米に代えていきました。年頃の娘だった姉の心中を察して幼心を痛めたものでした。村祭の時にお米に換えた着物を着た村の娘さんが歩いている姿を見て姉は涙を隠して泣いていました。

 私が高校へ進学できるかどうかを決めなければならないとき、姉は東京でM船舶KKという会社に勤めていて東京の様子を知らせてくれました。そしてこれからは学問を身に付けなければいけないと言ってくれました。当時のわが家の経済状態は、毎日の食事には困らないが学校へ行く費用まではとても都合が付かない状態でした。そんな折に姉は私がお金を送ってあげるから高等学校へ行きなさいと励ましてくれました。当時(昭和27年)の姉はどのくらいの給料をもらっていたのか知りませんが(例えば、昭和35年の大学卒の国家公務員の初任給が1万2,3千円程度だったと記憶しています)、東京でアパートを借りて生活していくのは大変だったと思いました。その中から毎月1500円を送ってくれたのです。県立高校の授業料他は月に550円でした。それに教科書や通学代(自転車、冬季には列車通学の定期乗車券代も必要でした。私は、村に一軒あった自転車屋さんで捨てた部品をもらって片腕の店主に教えてもらいながら組み立てた自転車に乗って通学しました)。しかし弁当はいつもカツオの削り節を醤油で味付けをしてご飯の全面にかけたいわゆる猫飯でした。たまに1枚を半分にきった海苔が削り節に変わり弁当の上部に1枚おきその上から醤油をかけたものになりました。級友に”また猫飯か”などと言われたのを思い出しました。おんぼろ自転車に乗って片道18kmを冬根雪になるまで雨の日も強い西風の日も通いました。それでも私は高校へ行けたのでよかったと思います。姉が仕送りをしてくれたから私は県立高校へ通学できたのです。高校卒業が近くになったとき、高校のPTA?がよい教師を招聘するために教員住宅を作るという話が出てきました。卒業生全員が3000円を出し合って5(3?)棟の家を建てるというものでした。これには私はほとほと困りました。ようやく卒業できることになり、これ以上姉に負担をかけることはないと思っていたからです。それで最後まで先生にお金がありませんと言いましたが、体育の先生や他の先生も私を説得にきました。それでとうとう親に相談しました。その結果、最後のお願いと言うことで姉に無心をしてくれました。そのために高校3年生の3学期の成績表には体育のすべての項目で1が並んでいました。今思うと体育がすべて1というのは卒業単位取得に関係なかったのかと疑問に思うことがあります。このことは後々になっても私の夢に出てきました。今風に言うとトラウマになってしまったのかも知れません。
 私は、2月の期末試験が終わると直ぐに上京して受験の日まで国分寺市に家を買って住んでいた姉夫婦の家にお世話になりました。受験は失敗しましたが、1年浪人して翌年は東京の公立大学に入ることが出来ました。その後もいろいろ相談に乗ってもらいました。姉は優しい夫に出会うことが出来、親思いの2人の子供に恵まれ幸せな生涯を送ったと思います。お姉さん、ありがとうございました。安らかにお休み下さい。


異次元からの便り?(Touch from another dimensional world?(20131105))

2013年11月05日 07時34分26秒 | インポート

 先日姉が他界し49日の法要も済みました。姉の夫は脊椎圧迫骨折と言うことで姉のいた施設に入所しているのですが、その義兄が次のような話をしていました。
 寝ているときだけで無く覚醒しているときにも、自分の周りに姉がいてうるさくいろいろ世話を焼いているような感じがする。こういう話はいろんな人たちからよく聞くことである。
 私自身も似たような経験があった。20才になる前に急死した(妻の)弟とは5,6回くらいしか会ったことが無かったのだが、妻の実家に行くと戸を開けていらっしゃいと言って出てくるような錯覚を受けることがあった。また妻の祖母には私は大変かわいがっていただいたが、やはり妻の実家に行くと夕方畑からひょっこり帰ってきたような錯覚に落ちることがあった。これは決して宗教的な話では無く、むしろ心理学的な問題かあるいは一種の習慣によるものなのかも知れない。
 義兄は、話し好きで子供たちの自慢話を(当時=昔)辟易するほど聞かされたことがあった。姉のことも「○○さんはね、こんな言い方をするんですよ」などと話してくれた。義兄にとっては姉の言い回しや動作がとても気に入っており、それが嬉しくてしょうが無かったのだと思う。義兄は、姉のことを深く愛していたのだろうと思うし、姉も義兄を非常に頼りにしていたのだろうと思う。それでその習慣がまだ残っており、こんな場合にはこうしてくれたなどと思うことが現実感として感じるのだろうと思う。
 ところでこの話を読んで下さっている方の中にこんな経験をしたことが無いだろうか。
 私は、時々誰かに肩の辺の衣服を引っ張られることがある(と感じることがある)。驚いて後ろを振り向くが誰もいない。それは一人で車を運転しているときであったり、がら空きの電車の中だったりする。SF的には面白いと思うのだが、もしかすると異次元の世界の生き物(人間?)が私にコンタクトしてきたのかも知れないと思ったりする。前にも書いたが、有料道路を走っているときに何気なくスピードを落とすとすぐ後ろに覆面パトカーがついていたりすることがあった。そんな時には何かが警告してくれたような気がするのであった。こんなようなことは1,2回というのでは無くかなり頻繁に経験したことである。