寓居人の独言

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東京大空襲が伝えるもの

2015年03月10日 22時40分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

 3月10日は私にとって忘れてはいけない特別な日です。70年前の昭和20年3月10日未明数百機のB29の大編隊が東京の下町に大量の油脂型焼夷弾をばらまいた。
 一説によると隅田川の河口から上流の浅草付近までそして東に向かい小松川に沿って河口までの下町周辺部に焼夷弾を落とし、そのあげくその内部に更に大量の焼夷弾を落とした。まるで狩りをするように周囲の逃げ道をふさいでおいて内部を焼き払うという凄まじい殺戮の方法を採った。しかも軍事工場で働いているとはいえ一般市民の居住地域に的を絞ったやり方は人間に対する尊厳を破壊するために実行したとしか思えない。
 その空襲で約100,000人前後の人が犠牲になった。
 私の家は隅田川の西数百メートルの所にあった。空襲による火災で発生した火の粉は、折からの強風にあおられて墨田川を渡り猛吹雪のように隅田川のこちら側まで飛んできた。有馬国民学校へ避難する途中でも防空頭巾や衣服に火の粉が沢山着いてが燻り出すのもかまわず、ひたすら避難路をたどった。火の粉により水天宮の東側の道路まで類焼した。午前3時頃に風向きが変わり(一説では焼夷弾による火災で隅田川の東側には燃焼するものがなくなったので本来の西風に変わったとも言われている)。私たちは焼夷弾攻撃の周辺部の外側だったので直接焼夷弾攻撃を受けなかったが、吹雪のように飛んできた火の粉によって類焼しただけで済んだ。10日の午後火災で無くなったわが家の跡へ行った。有馬国民学校から見た光景は子供心に声も出なかった。焼け跡は水道管の立ち上がり部分とほんの数本と焼け残った電柱が見えるだけで見渡す限り何もなかった。
 新大橋の上から見た隅田川の川面は惨憺たる光景であった。川の水面は隙間がないほどの沢山の溺死者で埋め尽くされていた。
 翌日再びわが家の焼け跡を見に行った折浜町公園を見に行った。近くの大きな劇場から運び出された焼死者で浜町公園の地面は埋め尽くされていた。私と姉そして母の3人もあの人達の中に入っていたかもしれなかったのだと思うとゾッとした。というのは突然の空襲のために、その劇場へ避難することになっていた私たちは渦巻く火災で道を塞がれ避難するどころではなかったのだ。それが幸いして焼死することはなかった。
 父が言っていた"この様子を見ておけ、これが戦争だ"という言葉の深い意味が今でも私の心の中にどっしりと重く残っている。
 世界から戦争を無くし社会から殺人という行為を無くすようにしたいと思う。1人の力は微々たるものですが大勢の人が協力して大きな力にしていこうではありませんか。


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