寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

想い出話 雲仙の地獄は踏み絵の名残消え

2012年07月14日 13時38分41秒 | 旅行記

 長崎から車で約1時間で、雲仙温泉郷へ着く。 雲仙温泉郷には時代の波に揺すられた歴史があるという。

 筆者に強烈な印象を与えた遠藤周作の「沈黙」(1966)は、徳川幕府の鎖国政策と先進外国の宣教師との間の壮烈な精神と権力との戦いであった。

 ここを訪れた筆者は、権力に屈せず、この地獄に散っていった幾多の宣教師たちの霊を慰めたいという感情を持たされてしまった。また権力を行使しなければならなかった、役人もおそらく精神的に甚大な苦痛を持ったに違いない。

 筆者は宗教に関心をもつことはないが、宗教が原因で壮絶な闘争が現在でも起きていることに非常な違和感をもつ。

 このブログの写真は、前回と同じように約半世紀ほど前のものである。最近ここへ行かれた方は、昔と違う景色に気がつくだろう。今は観光が中心になって通路や、道が歩きやすくなっている。観光客は歴史に思いを馳せることがあるのだろうか。

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 雲仙温泉郷にある満明寺は、701年に開山された真言宗御室派の寺院である。この寺院は、記録によるとその全部あるいは一部を焼失再建を繰り返してきた。下の写真は、僧侶の像のようであるが、その由来は記憶から喪失してしまった。

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 下の写真は、半世紀前に初めていったときに宿泊した、公立学校共済の宿舎である。妙見山荘という名であるが、現在はなくなっている。この宿舎の前に人工湖があった。その岸辺から普賢岳が望まれた。

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想い出話 長崎は 試練の時を 乗り越えて(20120703)

2012年07月03日 11時40分59秒 | 旅行記

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 今回の写真も、約半世紀前の物である。

 長崎といえば話題に尽きないが、日本の西洋文化を受け入れた黎明期に多くの日本人に驚きと感動を与えたところである。

 旧日本海軍の造船所があり、今もその伝統が続いている。

 

 しかし、太平洋戦争で、広島に次いで人類未曾有の経験も経験することになった。

下の写真の半分破壊された鳥居は、その象徴である。2008年に行ったときの長崎は、この鳥居付近には家が建ち、原爆遺物の柱が道路脇に並べられていた。

 原爆記念館の展示物の写真を撮影することが出来なかったが、涙する遺物が多数あった。

原爆を禁止して世界の平和を祈る記念像の前には沢山の人々がいた。

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 原爆投下による被災者の治療に昼夜を忘れて働いた、永井博士の記念館も是非見学して欲しい。永井博士は最後に自分も白血病に倒れてしまった。

 永井博士の随筆を元にした「長崎の鐘」という歌もある。

   召されて妻は天国へ・・・・で始まる。

 原爆の被害を内容とした「黒い雨」という映画も公開された。

 

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 筆者の友人の中にも、長崎市から少し離れたところに住んでいた子供の頃に、原爆の爆風によって十メートル以上も吹き飛ばされたという人が数人いる。


 想い出話 平戸では 欧州土産で 世が変わり(日本文化の夜明け) 

2012年06月11日 18時17分28秒 | 旅行記

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はじめに笑い話を一つ。

 「平戸へ行きます」というと、 友人が「何をしに行くのか」と問うた。  

「日本の夜明けを見に行く」と答えた。 

 すると友人は、さらに問うた。

「日本の夜明けは平戸がきれいなのか」と。

「はい。平戸はヨーロッパへ海でつながっていますから」と答えた。 

 友人は、きょとんとした顔をして黙ってしまった。

 他愛もない話であるが、説明が足りないとこうなってしまうことがある。

 西洋人が初めて日本に、一時的にしろ定住したのは、平戸であるといわれている。その後いろんな理由で長崎に居留地がもうけられて、貿易を通して西洋文化が伝えられた。

 初めて平戸へ行ったのは、数十年前になる。

 そのときは、はっきり覚えていないが、”田平口”というところから連絡船に乗って、平戸へ渡ったと思う。

 現在は、写真のような橋が架かり、便利になった。よく認識できなくて失礼しました。

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 1550年(天文19年)初めてポルトガル船が来港した。その後数ヶ月して、フランシスコ・ザビエルがきて、キリスト教の布教を始めた。そのため、現在でも信者が多数いるという。この写真の教会は、1931年に鉄筋コンクリートで作られたものだという。

 1561年には、ある事件が発生し、ポルトガル船との貿易は、翌年から現在の長崎県西海市横瀬に移された。

 日本の文明の夜明けはこうしてはじまった。

 しかし、日本の文化の発展に多大の貢献をしたキリスト教は、徳川時代に入ると殉教の道を歩くようになった。

 遠藤周作の「沈黙」という小説ににその拷問のすさまじさが書かれている。神を信じる心と個と全体の生命を命題にしているが、私にはこの年になっても、宗教は本当に人間の魂を云々できるのか疑問である。(いつかこの問題にも触れることがあるかもしれない)

 平戸藩の設立は松浦鎮信が、徳川家康に認められて、6万3千石を安堵された事にはじまる。

 現在は、平戸城および周辺を含めて史跡公園とした。サクラの名所としても有名である。

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想い出話 焼き物は 人それぞれの かげ映す(伊万里の里で)

2012年06月09日 22時58分04秒 | 旅行記

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 伊万里の里は、小高い山に囲まれた静かなところであった。

 

 伊万里の里は、焼き物だけかと思っていたが、いろいろな果実も生産されており、なかなか名代のものになっているという。

 

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 窯業を専業にした人たちは、左の地図のなかに住んでいるようだ。

 車が注意してすれ違うことが出来るほどの狭い道を上がると、T 字路になっている。そこを右に曲がるとさらに坂道が続いている。しばらく行くと、道の両側に店が並んでいる。

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 店は一軒が一つの窯元のようであった。

 窯は少し離れた山のなかにあるという。

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 一軒の店に入ったところ職人さんが、さらに絵付けをしていた。

 筆一本で画いていく絵は、心休まるような絵柄であった。一枚の皿が完成するまでにいろんな工程をたどり、いろんな人が各工程に関わっているという。

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 絵付けに使う絵の具は、大方のものは金属の化合物である。絵付けされた金属が他の物質と反応したり、高温によって変化して、別な色合いを出す。

 その色合いをどう出すかが作者の特徴になっている。

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 絵付けの終了した皿は、乾かしてからさらに焼くのだそうだ。

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 こうして出来た作品は各店で展示されていた。

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 これはひな人形の焼き物である。何とも気品のある作品であった。

 筆者は、いろんなところへ旅をするのが好きである。旅先では必ず窯元を探して訪ねることにしている。

 伊万里からほど遠からぬところに、三河内というところがある。ここは、かって平戸藩の御用釜だったという。三河内窯を訪ねたとき印象に残ることに出会うことが出来た。後日ここを訪ねたことを書きたいと思う。


想い出話 高齢化? 唐津の朝市 ちとさびし

2012年06月07日 11時27分41秒 | 旅行記

Dsc_01061 福岡空港でレンタカーを借りて、唐津→伊万里→平戸→九十九島→長崎という経路で旅をした。

 今回は、唐津の朝市を紹介する。唐津を訪ねたのは、今回で3度目になる。

 

 平日の故か、さびしげな朝市であった。はじめてきたときは、店が道路の両側に並んでいて、人々に活気があって賑やかだった。

Dsc_0109_106 高齢化の影響かという考えがふと浮かんだが、元々朝市は地元周辺の農家の方や、漁業の方、商いが専業の方々もいるだろう。そのような仕事をしている高齢者の方々が自分の家で取れたあるいは作ったものを持ち寄って商いをしていたので、高齢化のの影響と言うことはないだろうと思う。

 そんななかで水産加工の仕事をしている店をのぞいた。年配の女性が脇目もふらず仕事をしていた。50~60cmの魚(ソイとかいったと思う)をなん百匹も次から次へと裁いていく仕事          

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                        ぶりには感心した。かまぼこなどの練り物にでもなるのだろうか。

 

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 港へ行った。姿のよい帆船が停泊していた。こんな帆船で周遊したらいい気分だろうと思った。海から見る陸の様子は、陸のなかで見るのと違った見え方がすることが多い。

 旅は、いずれにしてもよいものだ。

 またここへ来ることがあろうかと思う。そのときは賑わいを取り戻していることを期待したい。

 

 ここで食べた、焼き芋がうまかったのを突然思い出した。それはなかが白いにもかかわらず金時いものようにうまかった。

 唐津にはその昔、秀吉が朝鮮遠征の時に築いた城の跡がある。

 ”つわものどもの夢の跡”


想い出話 荒波に 削り研がれた 東尋坊

2012年05月24日 22時48分39秒 | 旅行記

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 若い頃から一度東尋坊へ行ってみたかった。

日本海の荒波に削られた玄武岩の柱状節理が写真で見ると、どうしても現地でこの目で見たいと思っていた。

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深く切れ込んだ湾のなかに遊覧船乗り場があった。時間の都合で遊覧船には乗れなかったが、海から見ると又異なった景観を味わえるのだろうと残念に思った。

 

 

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少し離れた岩の上に海鳥が休んでいた。

ここへ来る途中にはたくさんのお土産屋があった。どの店で売っているものもみな同じようなものだったが、明らかに日本産のものではないきれいな小石の袋詰めを一つ買った。


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東尋坊の由来をひもとくと、その地名はやはり東尋坊という坊さんがいた。東尋坊は手に負えないほどの悪さをするので仲間の坊さんが物見を名目にここへ連れ出して、宴会に過去づけて海へ突き落としてしまったという。すると一天にわかにかき曇り猛烈な嵐になったという。それを沈めるためにみんなで鎮魂の催しをした。そして東尋坊の名前を忘れないようにこの値を東尋坊と呼ぶことにしたという。

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東尋坊から望める雄島は、長い橋を渡っていくことが出来る。この島はほぼ全体が原生林?で覆われている。一番高いところに神社があり、高樹齢の大木が生い茂っていた。島を一周する道があり、いろいろな景観を見ることが出来る。

筆者はこの後、信長に滅ぼされた朝倉城を見に行った。