幼少の頃、祖母の語る”お話し”を聴きたくて”寝間”を同じにしていた事は日記にした。
思い出される二話目は「チャックリガキフ」と言うフレーズで語られた、祖母の”お話し”である。
祖母なりに拍子をつけて語る”お話し”が可笑しく・好んで聴いていた様に記憶している。
・
時代は”昔”
主人公は、物売り(行商)の少年である。
そして、主人公の家庭環境(*)については、祖母の語る物語(お話し)に設定されていたか記憶にない。
*:少年が行商しなければならない家庭環境
要するに、私が記憶しているお話しの舞台は”物売りをする街中”となる。
「お茶(葉)はいらんかなぁ!」
「栗はいらんかなぁ!」
「柿はいらんかなぁ!」
「麩はいらんかなぁ!」と、大声を出して行商に励んでいた。
ある日「一つ一つ(商品名を)云うのは面倒だなぁ!
よっしゃ!これでいこうと思い附いたのが「チャックリガキフ」である。
「チャックリガキフ!」
「チャックリガキフ!」と大声で行商した。
そうしていると「ボン(坊)何を売っているんや!」と声を掛けられた。
「判らんかなぁ!」
そして、一計を講じた。
「チャックリガキフ! チャは茶で別々・クリは栗で別々・カキは柿で別々・フは麩で別々!」
結局は、複雑になって、手間がかかる事に気付いた、と言う内容であったと記憶している。
いま、思うと行商する品目も、どうなんだろう?と考えさせられる。
「労して功なし」の御話であったのだろうか?
・
当時の娯楽としては「紙芝居」が一般的であった。
思い出される紙芝居の題材は「黄金バット」であろうか?・・・
しかし、紙芝居屋さんが来た合図の拍子木の音を聴いても、小遣いが無ければ、観に行く”後ろめたさ”もあったことを思い出される。
時折、母におねだりして、小遣いをもらって、水飴(ギョウセンと云っていた様に思う)を買った。
オマケに、赤や青の色粉をつけてもらって、三本の箸(棒)で起用に捏ねていた。
水飴を販売する”紙芝居屋”のおじさんや、買った水飴を捏ねる私達は、決して衛生的であったとは、云えなかった。
やがて、小学生の頃になると、NHK・新諸国物語(注)と言う、ラジオ番組があり、熱中した。
月曜から金曜日の、18時30分~45分に放送されていた。
父の商売上、来客との会話であったり、作業の騒音(ガス溶接であったり、グラインダーの音など)が家中にはあった。
特に来客中にラジオの音量を大きくする事は、母に注意されていた。
ラジオは箪笥の上にあった。
音量を大きく出来ない事から、私の”耳”を近づけるしかなかった。
箪笥の引き出しを階段代わりにして、ラジオのスピーカーに耳を近づけて聴いていた。
それは、高学年になり、箪笥を倒すまで続いた。
そして、中学生になった頃には、TV放送での「番頭はんと丁稚どん」や「びっくり捕り物帳」に移行していった。
当然、家にはTV受像機等は無く、電気店の店頭であったり、知り合い(父の門下生だった人)の家でしか、観る事は出来なかった。
高校生の時代には「力道山」のプロレス中継に熱中する事になる。
・
時代は進み、東京オリンピックで始まったTVのカラー放送(全国中継網)の一員になるとは、幼き当時としては予想だに、しなかった事であった。
そして、祖母の語る”お話し”が唯一の娯楽であった、幼き当時を、思い出されるのである。
・
注:「新諸国物語」には、白馬の騎士・笛吹き童子・紅孔雀・オテナの塔、などが思い出される。
思い出される二話目は「チャックリガキフ」と言うフレーズで語られた、祖母の”お話し”である。
祖母なりに拍子をつけて語る”お話し”が可笑しく・好んで聴いていた様に記憶している。
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時代は”昔”
主人公は、物売り(行商)の少年である。
そして、主人公の家庭環境(*)については、祖母の語る物語(お話し)に設定されていたか記憶にない。
*:少年が行商しなければならない家庭環境
要するに、私が記憶しているお話しの舞台は”物売りをする街中”となる。
「お茶(葉)はいらんかなぁ!」
「栗はいらんかなぁ!」
「柿はいらんかなぁ!」
「麩はいらんかなぁ!」と、大声を出して行商に励んでいた。
ある日「一つ一つ(商品名を)云うのは面倒だなぁ!
よっしゃ!これでいこうと思い附いたのが「チャックリガキフ」である。
「チャックリガキフ!」
「チャックリガキフ!」と大声で行商した。
そうしていると「ボン(坊)何を売っているんや!」と声を掛けられた。
「判らんかなぁ!」
そして、一計を講じた。
「チャックリガキフ! チャは茶で別々・クリは栗で別々・カキは柿で別々・フは麩で別々!」
結局は、複雑になって、手間がかかる事に気付いた、と言う内容であったと記憶している。
いま、思うと行商する品目も、どうなんだろう?と考えさせられる。
「労して功なし」の御話であったのだろうか?
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当時の娯楽としては「紙芝居」が一般的であった。
思い出される紙芝居の題材は「黄金バット」であろうか?・・・
しかし、紙芝居屋さんが来た合図の拍子木の音を聴いても、小遣いが無ければ、観に行く”後ろめたさ”もあったことを思い出される。
時折、母におねだりして、小遣いをもらって、水飴(ギョウセンと云っていた様に思う)を買った。
オマケに、赤や青の色粉をつけてもらって、三本の箸(棒)で起用に捏ねていた。
水飴を販売する”紙芝居屋”のおじさんや、買った水飴を捏ねる私達は、決して衛生的であったとは、云えなかった。
やがて、小学生の頃になると、NHK・新諸国物語(注)と言う、ラジオ番組があり、熱中した。
月曜から金曜日の、18時30分~45分に放送されていた。
父の商売上、来客との会話であったり、作業の騒音(ガス溶接であったり、グラインダーの音など)が家中にはあった。
特に来客中にラジオの音量を大きくする事は、母に注意されていた。
ラジオは箪笥の上にあった。
音量を大きく出来ない事から、私の”耳”を近づけるしかなかった。
箪笥の引き出しを階段代わりにして、ラジオのスピーカーに耳を近づけて聴いていた。
それは、高学年になり、箪笥を倒すまで続いた。
そして、中学生になった頃には、TV放送での「番頭はんと丁稚どん」や「びっくり捕り物帳」に移行していった。
当然、家にはTV受像機等は無く、電気店の店頭であったり、知り合い(父の門下生だった人)の家でしか、観る事は出来なかった。
高校生の時代には「力道山」のプロレス中継に熱中する事になる。
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時代は進み、東京オリンピックで始まったTVのカラー放送(全国中継網)の一員になるとは、幼き当時としては予想だに、しなかった事であった。
そして、祖母の語る”お話し”が唯一の娯楽であった、幼き当時を、思い出されるのである。
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注:「新諸国物語」には、白馬の騎士・笛吹き童子・紅孔雀・オテナの塔、などが思い出される。