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町田康『きれぎれ』(文春文庫)

2018-03-08 | 書評「ま」の国内著者
町田康『きれぎれ』(文春文庫)

若い世代を中心に「ストリート系」、「J文学」などともてはやされる一方で、ナンセンスなストーリー展開やメッセージ性の希薄さなどから「キワモノ」であるという冷ややかな評価も受けていた。ところが、一見、一貫性を欠いているようにも思われる言葉の連射の間隙に、透明感を与えることに成功した本作で芥川賞を受賞したことで評価は一変し、純文学の新たな地平を開く作家としての栄誉を得た。好悪の分かれる作家ではあるが、繰り出される言葉のリズムに身をまかせて一種のカタルシスを得ることができるか、違和感を抱くか、それは作品に触れて確かめてほしい。(アマゾン内容紹介より)

◎『くっすん大黒』でデビュー

町田康は1962年に生まれ、バンク歌手、詩人、俳優、小説家としてジャンルを越えて活躍しています。しかし私は、小説以外の世界での活躍ぶりは知りません。町田康に最初に触れたのは、1996年に発表された『くっすん大黒』(文春文庫)でした。この作品の評価は、賛否両論大きく分かれました。
『くっすん大黒』には、2つの中編が収められています。これまでの小説が着飾ったフォーマルな文章だとしたら、町田康のものはカジュアル以下、ジーパンに革ジャンといった感じでした。
 したがって、読む人によっては、投げやりな文章に嫌悪するかもしれません。またどうでもいいようなことに悩む主人公に、あきれてしまうかもしれません。
ここが著者の新しいところなのですが、文壇の保守派からは批判されました。私の場合は、新しい息吹を感じました。町田康は「バンクノベリスト」として小説界に登場しました。
思いつくなかで最善の単語を選び、それを連ねてみせます。すると何ともいえない、おかしさが顔をのぞかせます。それが町田康の文章なのです。標題作「くっすん大黒」の一場面を引いてみます。
 
――なにしろこの腐れ大黒ときたらバランスが悪いのか、まったく自立しようとしないのだ。最初のうちは自分も、なにしろ大黒様といえば、福や徳の神様だし、ああ大変だ大黒様が倒れてなさる、といちいち起こしてさしあげていたが、何回起こしてやっても、いつの間にか小槌側に倒れていて、そのうえふざけたことに、倒れているのであるから当人も少しは焦ればいいものを、だらしなく横になったままにやにや笑っている、というありさまで、全体、君はやる気があるのかね、と問いただしたくなるような体たらくなのである。(本文より)

 このように「くっすん大黒」は、大黒様の扱いに悩む主人公「自分」の話です。どうしても安定感が悪く、自立しない大黒。それを放置しておけない主人公。彼は大黒を立たせるか、捨ててしまうかの二者択一を迫られるのです。
 不燃ゴミに出す。粗大ゴミとして出す。その都度、主人公は第三者の反応を妄想します。せっかく捨て場を見つけても、捨て方に主人公の美学があります。そのあげく、若い警官に職務質問されることになります。
 町田康はこの作品についてこう語っています。

――歌詞をつくるときも同じで、普通は花がきれいとか、月がきれいなど、花鳥風月を一般的には歌にしてるでしょう。自分は腹が減ったとか眠いということを歌にするんです。(『本の話』1997年5月号)

 町田康はメロディ中心で、リズムのない現代小説のなかに、強烈なリズムを挿入すべく登場しました。そんな予感のする文体なのです。町田康は音楽の世界を、そのまま小説の世界に置換してしまいました。バンクロッカーならではの技といえましょう。著者自身はこの作品集を、「無職者シリーズ」と名づけています。「無職者」の意味は著者自身の言葉を借りれば、次のとおりとなります。
 
――そういういろいろな人がいるなかで、「無職」っていう一生遊んで暮らせる生き方があってもええと思いますよってことです。あらゆる表現はペテンで、書いている人間は希望を書いていても、どうしょうもなく絶望的だったりするわけです。(『本の話』1997年5月号)

*この章はPHP研究所メルマガ「ブック・チェイス」1997年5月30日号に、藤光 伸として掲載したものを加筆修正しました。

◎『きれぎれ』で芥川賞

 町田康は2000年、『きれぎれ』(文春文庫)で芥川賞を受賞します。このとき初めて選考にあたった村上龍には、町田康の世界が理解できなかったようです。

――『きれぎれ』には魅力を感じなかった。(中略)文体は、作者の「ちょっとした工夫」「ちょっとした思いつき」のレベルにとどまっている。そういったレベルの文体のアレンジは文脈の揺らぎを生むことがない。(『芥川賞全集19』村上龍の選評)

 町田康の詩集『懐色(えじき)』(ハルキ文庫)が文庫化されています。そののなかで一番大好きな、「遊び心」を引用してみたいと思います。これを「脱線」とするか、「技あり」とするかで、町田作品の評価は自動的に決まってしまいます。村上龍にはわからないと思いますが。

どんぐりころころ
「鈍愚(どんぐ)、利己 (りこ)、魯子(ろこ)/魯鈍(ろどん)ぶり、子/「おい、毛にはまってさ。変?」/ドジ、用がでて、着て来ん/煮血はボッ/ちゃん、逸(いつ)、小児(しょうに)/阿蘇火(あそび)、魔性(ましょう)

『懐色』の帯には、「第123回芥川賞受賞」「町田康の原点がここにある」の文字が踊っています。『きれぎれ』はこの感覚を小説に持ちこんだものです。この点はデビュー作から一貫しています。

『くっすん大黒』では、座りの悪い大黒様を捨ててしまうか、立たせるかに悩む主人公が登場していました。捨てる場合は、他者の目が気になります。立たせるには努力が必要です。こんな二者択一に主人公は悩みます。日常のなかのさりげないズレを、町田康は豊饒な言語で垣間見せてくれます。

◎抱腹絶倒するでしょう

『きれぎれ』の主人公は、絵心を持っています。バンクロッカー町田康は、はじめて色彩豊かな世界を描いてみせました。この作品の冒頭シーンは、自作アルバム『どうにかなる』のなかの、「やめろ」という歌からとっています。
「俺は僕は」という一人称は、小説の世界ではじめて登場しました。新入社員研修で体育会系の連中が「自分は私は」と、まごまごしながらよく用いている表現です。

町田作品については、ストーリーを紹介する必要はありません。主人公の目まぐるしい思考、主人公が見たもの、聴いた音、何かに遭遇したときの所作などを、一緒に感じ取っていただきたいと思います。「どんぐりころころ」にうなった人は、『きれぎれ』でも抱腹絶倒するでしょう。

「ムラ、噛み、流(りゅう)」の評価と、「不死身、通(つー)、信(しん)」の評価。どちらかに軍配をあげるのは、あなたです。

*この章は「藤光・伸」名義でPHP研究所メルマガ「ブック・チェイス」2000年8月8日号に、掲載したものを加筆修正しています。
山本藤光2017.08.02初稿、2018.03.08改稿

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