山本藤光の文庫で読む500+α

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東海林さだお『ショージ君の青春記』(文春文庫)

2018-03-08 | 書評「し」の国内著者
東海林さだお『ショージ君の青春記』(文春文庫)

妄想といっては哀しく、純粋というには怪しすぎる初恋をした高校時代。一年浪人の末、九つの学部を受験して、めでたく早稲田大学露文科ダケに合格。さあ女のコにモテるぞ、と張切るが現実はきびしい。青春と恋とはギョーザとニンニクの如くセットのはずなのに、実にグヤジイ。園山俊二、福地泡介などとの愉快な漫研生活、白昼堂々、両親に見送られての〈家出〉をしたころや、プロを目指した辛い売込み時代などを回想する漫画チックな放浪記。ショージ君の原点がここにある。(文庫内容案内より)

◎ユーモラスで軽妙な文章

東海林さだおは絶対に、「山本藤光の文庫で読む500+α」に入れたいと思っていました。思っていましたけれど、彼の作品は「小説」というジャンルでは評価できません。では「知・教養・古典」ジャンルでの起用はどうか。ちょっとちがうような気がします。というわけで、はみだしてしまいました。でも、どうしても読んでおいてもらいたい作品なのです。エイヤーと気合をいれて、「知・教養・古典」ジャンルへのエントリーです。

東海林さだお『ショージ君の青春記』(文春文庫)は、青春を描いた傑作、といわれている作品です。前から読みたいと思っていました。ところが書店でなかなか見つかりませんでした。ショージ君のシリーズは大量に並んでいますが、この作品だけはありません。

神田の古書店で、やっと手にいれました。1998年14刷でした。文庫第1刷が1980年ですから、息の長い作品なのです。東海林さだおの「ショージ君シリーズ」や「丸かじりシリーズ」は、出張のときに連れ出すことにしています。とにかく肩がこらないし、底抜けにおもしろいからです。

「ショージ君シリーズ」は、すでに『なんたってショージ君・東海林さだお自選・東海林さだお入門』(文春文庫)を読んでいました。厚さ5センチ、1340ページの堂々たる1冊です。立てておいても倒れません。友人に自慢気に分厚い本を読んだ話をすると、「もちろん『ショージ君の青春記』は読んでいるよな」と念押しされました。「これを読んでいなければ、東海林さだおを読んだことにはならないんだよ」とまで、いわれてしまったのです。

屈辱からはいあがろうと、やっとゲットしたので速攻で読んでみました。なるほどと思いました。『ショージ君の青春記』は、とても軽快なリズムですべりだします。

――青春を語るには、恋を語らなければならぬ。/辛いことだが語らねばならぬ。/ぼくといえども、だれにせきたてられたというわけでもないのに、恋を体験している。(本文P9より)

――ぼくの成績表は、通称「アヒル」と呼ばれる「2」と、「艦砲射撃」と称せられている「1111」で埋まっていたのである。ぼくの高校生活は、女生徒にはまったくめぐまれなかったが、「アヒル」と「艦砲射撃」には十分に恵まれていたのである。(本文P13より)
 
引用文は、最初の章「初恋物語」のイントロ部分にあたります。この章は倒れない文庫の第10章「東海林さだおができるまで」にも収載されています。つまり「初恋物語」は2度読んでいるわけですが、あいかわらず随所で噴き出してしまいました。

東海林さだおは自分の文章について、つぎのように語っています。そして太宰治の文章に、影響されていることを認めています。特に『走れメロス』(新潮文庫)の文章を絶賛しています。

(引用はじめ)
質問者:その軽妙な文体は、日本語の散文のあり方を変えたと言われています。一部では(笑)
東海林:自分では文章を書こうなんて気持ちはなかったんです。別に文章の練習をしたこともないし、勉強をしたこともない。
質問者:一つの文が終わったら改行するというあの文章。最初に見た時、「あっ、こんなに改行してもいいんだ」という衝撃すらありました(笑)
東海林:僕は、ほっとくと、どんどん、どんどん文章が続いちゃうんですよ。これはまずいなと思って、ぶつ切りにしていくんです。本質はだから長いセンテンスなんですね、きっと。
(『なんたってショージ君・東海林さだお自選・東海林さだお入門』P1325より引用おわり)
 
◎文章に書かれた貧乏は楽しい

主人公「ぼく」は、大学近くの名曲喫茶によく足を運びます。客には芸術家っぽい学生が多くいます。主人公はいつも「なめんなヨ」と思っています。そしてこんな記述で結ばれます。
 
――名曲喫茶にコーヒーを飲みに行くのではなくて、『なめられないため』に行くようなものであった。(本文より)

主人公のショージ君はうぬぼれ屋で誇大妄想、早とちりでおっちょこちょい。どこにでもいる平均的な青年です。収載作「初恋物語」は、こんな場面に展開してゆきます。主人公「ぼく」は、同級生の多賀子さんを意識するようになります。

「ぼく」は住所を調べて、多賀子さんに年賀状を出します。ひたすら返事を待ちますが、何日たっても返信は届きません。

――だが次の日も返事は来なかった。/その次の日も来なかった。/多賀子は今、迷っているのだ。返事を出したものかどうか迷っているのだ。/純真な乙女ならば、一日や二日はだれだって迷うものなのだ。/三日になっても四日になっても返事は来なかった。/いやいや、純真であればあるほど長く迷うものなのだ。/返事が長びくということは、それだけ僕への愛が深いということを意味するのだ。(中略)だがぼくは諦めなかった。/そうだ、彼女は口頭でぼくに返事を伝えるつもりなのだ。/直接会って、思いのたけを、ぼくにぶちまけるつもりなのだ。(本文P46より)

東海林さだおは躍動感あふれる筆致で、高校時代から早稲田大学の漫研時代までを描いてみせます。園山俊二や福地泡介たちの素顔を垣間見せてもくれます。

東海林さだおは、文章家としても優れた才能を持っています。特にひとつの文章に、新しい文章を重ねる技量には驚嘆させられます。東海林さだおの文章について、ふれた記事があります。紹介させていただきます。

――この本(補:『ショージ君の青春記』)から受けた影響のせいか、深刻なことほどユーモラスに書く、というのが信条になっています。思うに東海林さんは、どこかの時点で自意識を飼い慣らせるようになり、この文体をものしたのではないでしょうか。誰にでも書けるようで、誰にも書けない達意の文章。私だけでなく、東海林さんから影響を受けた書き手は、大勢いるはずです。(文春文庫40周年記念特別コラム・奥田英朗「自意識を飼い慣らす」より)

――あの歯切れのいい、文章がまず好きだ。エッセイの内容自体は、ひとつの事象をねっちりと、ねばっこく考察するものが多いのに、胃もたれなく、さくさくと味わえるのは、あの文体があってこそだ。(荻原浩「孤高の哲人に感謝を」より)

阿刀田高はレトリックの名人として、向田邦子と東海林さだおをあげています。阿刀田高の説明(『海外短編のテクニック』集英社新書)では、「レトリックとは、「文章表現を表現の目的によく適うよう巧みに機能させる技のこと」となります。

2014年に他界した赤瀬川原平に、『全日本貧乏物語』(福武文庫)という選書があります。そのなかに『ショージ君の青春記』の「漫画行商人」が採択されています。赤瀬川原平は貧乏について、こんな文章を寄せています。

――文章に書かれた貧乏は楽しい。その楽しさにひたっていると、その楽しさに勝るものはないと思ってします。(赤瀬川原平・選
『全日本貧乏物語』の解説より)

『ショージ君の青春記』を、ぜひ読んで笑っていただきたいと思います。ただし当該作品をゲットするには苦労することでしょう。最近では『ニッポン清貧旅行』(文春文庫)で腹をかかえて笑いました。紹介させていただきます。

東海林さだお『ニッポン清貧旅行』(文春文庫)のなかに、テレビの旅番組を皮肉ったエッセイが登場します。男女の旅番組レポーターが田舎へ行きます。川べりで、偶然に老人がしゃがんでいるのに出会います。

「何をしているのですか?」と、レポーターが声をかけます。「泥鰌を獲っている」と老人が答えます。撮影のために、老人を冷たい川に入れ続けます。どうせ、泥鰌は東京から持ちこんだものだろう。筆者の辛口が浴びせかけます。

やがて老人の家で、泥鰌鍋をごちそうになります。胸元にピンマイクをつけて、老妻が迎えてくれます。ごちそうになった二人は、「近くにひなびた温泉がありませんか?」と質問をします。

温泉は偶然にも、近くに存在していました。「ここのしし鍋はおいしいらしい」とうんちくを傾ける二人。どうして、夕食の献立がわかったのだろう。まるで前から知っていたようだと東海林。

こんな具合に旅番組をちゃかし、最後には番組に、「ヤラセ含有量」をつけるべきだ、と結びます。東海林さだおの作品は、魅力的です。
(山本藤光:2009.10.26初稿、2018.03.08改稿)

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