山本藤光の文庫で読む500+α

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ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(光文社古典新訳文庫、土屋政雄訳)

2018-02-22 | 書評「サ行」の海外著者
ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(光文社古典新訳文庫、土屋政雄訳)

両親を亡くし、英国エセックスの伯父の屋敷に身を寄せる美しい兄妹。奇妙な条件のもと、その家庭教師として雇われた「わたし」は、邪悪な亡霊を目撃する。子供たちを守るべく勇気を振り絞ってその正体を探ろうとするが――登場人物の複雑な心理描写、巧緻きわまる構造から紡ぎ出される戦慄の物語。ラストの怖さに息を呑む、文学史上もっとも恐ろしい小説、新訳で登場。(内容紹介より)

◎2人のこどもと2人の幽霊

心理小説は、ラファイアット夫人『クレーヴの奥方』(「500+α」推薦作)が先鞭をつけたフランス文学の1ジャンルといえます。その後ラクロ『危険な関係』(「500+α」推薦作)へと流れが継承されます。ヘンリー・ジェイムズはアメリカ生まれで、イギリスやフランスで活躍した作家です。ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(光文社古典新訳文庫、土屋政雄訳)は、パリでの生活から学んだ、心理小説といえます。

主人公の「わたし」は20歳。家庭教師の経験はありませんでしたが、面接を受けました。面倒を見るのは、幼い兄と妹。2人は両親を亡くし、叔父さんの別荘で生活しています。面接者の叔父さんは、何があっても連絡をして寄越さないことを条件に、高給で「わたし」を採用することにしました。

赴任したエセックス邸は広大で、すこぶる立派なところでした。「わたし」はそこで、10歳の兄マイルズと7歳の妹フローラとと出会います。2人は天使のように美しく、素直なこどもでした。しかしマイルズの通っていた学校から、退学通知が届きます。理由は書かれていませんでした。「わたし」は困惑しますが、約束ですのでそれを雇い主である叔父さんには、連絡することができません。

そして「わたし」は邸のなかで、男と女の亡霊を見ます。ずっと住みこんでいる、家政婦のグロース婦人にそのことを告げます。グロース婦人は、男は元馭者のピーター・クイントであり、女は元家庭教師のジェスル先生だと知らされます。2人とも、とうに死んでいます。かっていかがわしい関係だった、とも知らされます。

こどもたちにも幽霊の存在は見えているようですが、彼らは見えないふりをします。家政婦のグロース婦人には、幽霊が見えません。「わたし」は2人を、幽霊の侵略から守ろうとします。そのうちにフローラは錯乱状態になり、マイルズも幽霊に取り憑かれて死んでしまいます。このあたりについて、書かれている文章があります。

――子供たちは二つの圧力のもとに滅ぼされます。一つは、子供たちが受けている目に見えないものからの圧力です。もう一つは、「わたし」(家庭教師)が無理やり白状させようとする圧力です。この二つによって子供たちは滅んでいきます。(辻原登『東京大学で世界文学を読む』集英社P342)

◎乱れ飛ぶ憶測

物語をなぞると、簡単な展開です。ただし読後には、頭のなかにたくさんのハテナマークが点灯します。その理由を清水義範は、文章の構造にあると説明しています。

――この小説はある視点から語られているのだ。徹頭徹尾、この人の視点からはこう見えた、という語り方なのである。/その書き方こそが、文学的な大事件であった。古い文学の、神の如く何でも知っている話者が、すべてを解説してくれる語り方とはまるで違うのだ。(清水義範『世界文学必勝法』筑摩書房P139)

つまりこの構造が、読者に疑心暗鬼を起こさせているのです。私は清水義範の指摘を受けて、そのことに初めて気がつきました。この構造を念頭に、少しだけストーリーを振り返ってみます。

雇い主の叔父さんは、なぜ何がおこっても連絡はしないようにと、念押ししたのでしょうか。ヘンリー・ジェイムズは冒頭でいきなり、主人公の「わたし」を不可思議な物語のなかに放り投げました。20歳のうぶな家庭教師は、叔父さんにほのかな恋情を覚えます。そしていかなる過酷な環境であろうと、叔父さんのためにこどもたちを教育しようと決心します。

「わたし」は天使のように見えていた2人のこどものなかに、邪悪なものが潜んでいることを知ります。彼らは幽霊から、何らかの指令を受けていると想像します。そして幼い2人がみだらな性の洗礼を受け始めているとも考えます。何としてでも、こどもたちを幽霊から隔絶しなければなりません。ところが「わたし」の熱い思いをあざ笑うかのように、こどもたちの異常なふるまいがエスカレートしていきます。

本書に関しては、さまざまな評論があります。たとえば本当は幽霊など存在していなかった、という説。雇い主から「何があっても」と強調されたことにより、「わたし」は邸に何かが潜んでいると妄想をたくましくした結果である。あるいは幼い兄妹は、死んだ元馭者と家庭教師の現し身である、という説。さらに「わたし」には性的コンプレックスがあり、児童に対して異常な関心があるという説。

乱れ飛ぶ憶測に、ヘンリー・ジェイムズはしてやったりと思っていることでしょう。上滑りな会話。曖昧模糊とした心理描写。唐突なエンディング。これらのすべては、ヘンリー・ジェイムズが意図的に仕掛けた罠です。家庭教師は善であったり、悪であったりと評価は両極端にわかれます。

――難解を極めるジェイムズの作品の中でも、この中編ほど多様な読み方、というか、基本的なレヴェルで両極端の読み方を可能にするものは他にはなく、それがこの作品の魅力である。(知っ得『幻想文学の手帖』学燈社P122)

「ねじの回転」というタイトルの意味は、本文中に説明がなされています。しかし私にはヘンリー・ジェイムズが読者に、「ねじをあとひとひねりしてごらん。そうすると物語の深部に届くから」とささやいているように聞こえます。
(山本藤光:2012.09.04初稿、2018.02.22改稿)

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