堀江敏幸『熊の敷石』(講談社文庫)
「なんとなく」という感覚に支えられた違和と理解。そんな人とのつながりはあるのだろうか。 フランス滞在中、旧友ヤンを田舎に訪ねた私が出会ったのは、友につらなるユダヤ人の歴史と経験、そして家主の女性と目の見えない幼い息子だった。 芥川賞受賞の表題作をはじめ、人生の真実を静かに照らしだす作品集。(アマゾン内容紹介)
◎なりゆきの旅
堀江敏幸は1964年生まれで、現在早稲田大学文学学術院教授です。1995年『郊外へ』(白水Uブックス)でデビューし、2001年『熊の敷石』(講談社文庫)により芥川賞を受賞しています。
『熊の敷石』は、いきなり夢の世界からはじまります。主人公「私」は二年ぶりに会った友人ヤンの田舎家で、夢から目覚めます。「私」は日本の出版社に委託され、フランス語の原書にあたり、その要約をしています。ヤンは写真家で「私」が目覚めたときには、すでに旅に出ています。「私」がパリからここへやってきたのは、
――ノルマンディ地方の小さな村のはずれにある田舎家にやってきたのは、正直なところまったくのなりゆきだった。(本文P14)
ときわめてあいまいなものです。
そして物語は、「私」があいまいな旅立ちを決めた日へと戻ります。
◎ブランコからの視点
ヤンは駅に迎えにきていました。「私」はヤンの運転する車に乗り、途中花崗岩の加工工場などに寄りながら田舎家へとたどり着きます。二人は。いろいろ語り合います。
以下、ポイントとなる場面のみ羅列してみます。
豚肉の燻製小屋の写真から、ユダヤ人であるヤンの一族の話になります。一族はホロコーストで悲惨を味わいます。そこからいきなり現在の、ボスニアでの惨劇に話は飛びます。
さらに「私」はヤンの写真のなかの、一枚の赤ん坊の写真に目を留めます。先天的に眼球のない赤ん坊の隣には、大きな熊のぬいぐるみがあります。熊の目は、糸で×印がつけられています。赤ん坊はヤンの隣家に住む、母親カトリーヌの子どもです。
ヤンが口にしたアヴランシュという地名から、「私」は『フランス語辞典』を編んだエミール・リトレを連想します。「私」はちょうど、リトレの伝記を翻訳中です。
そして物語は、すでにヤンが不在の日へと展開されます。「私」は二日間、ヤンの家に留まります。
「私」は知り合いになったカトリーヌの書棚のなかに、フォンテーヌの『寓話』を発見します。
本書のタイトルは、『寓話』(岩波文庫)に収載されていた「熊と園芸愛好家」によります。山奥に一頭の熊が住んでいます。孤独な熊は園芸好きの、一人暮らしの老人と親しくなります。
――熊のいちばん大切な仕事は、老人が昼寝をしているあいだ、わずらわしい蝿を追い払うことだった。ある日、熟睡していた老人の鼻先に一匹の蝿がとまり、(中略)「忠実な蠅追い」は、ぜったいに捕まえてやると言うか言わぬか、「敷石をひとつ掴むと、それを思いきり投げつけ」、蠅もろとも老人の頭をかち割ってしまったのである。(本文P113)
そして堀江敏幸は、次のように続けます。
――無知な友人ほど危険なものはない。/賢い敵のほうが、ずっとましである。/この訓話が転じて、いまではいらぬお節介の意味で、「熊の敷石」という表現が残っているのだが(後略)(本文P114)
堀江敏幸は、あるきっかけから、ストーリーを過去から現在へとつむぎだします。小さな田舎の情景を丹念に描きながら、中世や様々な史実へと思考を展開ます。
地面にあった目線が、突然中空へと移動します。堀江敏幸の文章は、揺れるブランコからの視点のようです。しかし表現は平易で、読みやすい文章です。
◎評価は真っ二つ
私は本書に好感を持ちました。しかし、芥川賞の選考会はもめました。選評を並べてみます。(引用は講談社『芥川賞全集』第19巻)
――この作品はあまりにもエッセー風で小説としての魅力に乏しかった。(三浦哲郎)
――作品の主題なのかどうなのか、熊の敷石なるものも、私には別段どうといったことのないただのエスプリにすぎないのではないかという感想しか持てなかった。(宮本輝)
――人と人との関りの内にある微妙な温もりを知的な言葉で刻み込もうとした大作品であるといえよう。民族の歴史の孕む必然と個々の偶然との織り成す人間の生の光景が、幾つものエピソードを通して浮上する。(黒井千次)
――人間の心のゆがみや人間同士の関係のずれで偏光する精神の微妙な光も射しこんでいて、緻密に感じとるとなかなか複雑で不気味でさえある非凡な作風なのであった。(日野啓三)
――言ってみれば破綻だらけだ。エッセーから小説になりきっていない。細部がゆるい。タイトルに魅力がない。(池澤夏樹)
芥川賞の選考で、評価がこれほど極端に割れるのはマレなことです。選考委員の石原慎太郎は「論ずるに値しない」とまで言い放っています。
◎その他の論評
文庫の解説は、川上弘美が書いています。そのなかに次のような表現があります。
――(堀江敏幸の文章は)いろっぽいのだ。
いろっぽさは感じませんが、繊細さや知性は感じられます。また石原慎太郎に代表される選評に、首を傾げる論評もあります。
――彼ら(芥川賞選者)と私の感想が毎回こうもズレるのはなぜ? 「小説」観の違いか、それとも私がバカなのか。不安になる。(斎藤美奈子『本の本』ちくま文庫P159)
まったく同感です。私は「本屋大賞」の眼力の方が、私の評価に近いと断言できます。
最後に、怜悧な視点での論評で結ぶことにします。
――「おせっかい」という軽薄なものと、「血なまぐさい」ものがある瞬間には強烈に同一のものとなる言葉の魔法を読者に感じ取らせる迷路が仕組まれている。解説するのではない。感覚させるのだ。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P396)
(山本藤光2001. 04.15初稿、2018.01.12改稿)
※初校はPHP研究所「ブック・チェイス」に掲載しました。
「なんとなく」という感覚に支えられた違和と理解。そんな人とのつながりはあるのだろうか。 フランス滞在中、旧友ヤンを田舎に訪ねた私が出会ったのは、友につらなるユダヤ人の歴史と経験、そして家主の女性と目の見えない幼い息子だった。 芥川賞受賞の表題作をはじめ、人生の真実を静かに照らしだす作品集。(アマゾン内容紹介)
◎なりゆきの旅
堀江敏幸は1964年生まれで、現在早稲田大学文学学術院教授です。1995年『郊外へ』(白水Uブックス)でデビューし、2001年『熊の敷石』(講談社文庫)により芥川賞を受賞しています。
『熊の敷石』は、いきなり夢の世界からはじまります。主人公「私」は二年ぶりに会った友人ヤンの田舎家で、夢から目覚めます。「私」は日本の出版社に委託され、フランス語の原書にあたり、その要約をしています。ヤンは写真家で「私」が目覚めたときには、すでに旅に出ています。「私」がパリからここへやってきたのは、
――ノルマンディ地方の小さな村のはずれにある田舎家にやってきたのは、正直なところまったくのなりゆきだった。(本文P14)
ときわめてあいまいなものです。
そして物語は、「私」があいまいな旅立ちを決めた日へと戻ります。
◎ブランコからの視点
ヤンは駅に迎えにきていました。「私」はヤンの運転する車に乗り、途中花崗岩の加工工場などに寄りながら田舎家へとたどり着きます。二人は。いろいろ語り合います。
以下、ポイントとなる場面のみ羅列してみます。
豚肉の燻製小屋の写真から、ユダヤ人であるヤンの一族の話になります。一族はホロコーストで悲惨を味わいます。そこからいきなり現在の、ボスニアでの惨劇に話は飛びます。
さらに「私」はヤンの写真のなかの、一枚の赤ん坊の写真に目を留めます。先天的に眼球のない赤ん坊の隣には、大きな熊のぬいぐるみがあります。熊の目は、糸で×印がつけられています。赤ん坊はヤンの隣家に住む、母親カトリーヌの子どもです。
ヤンが口にしたアヴランシュという地名から、「私」は『フランス語辞典』を編んだエミール・リトレを連想します。「私」はちょうど、リトレの伝記を翻訳中です。
そして物語は、すでにヤンが不在の日へと展開されます。「私」は二日間、ヤンの家に留まります。
「私」は知り合いになったカトリーヌの書棚のなかに、フォンテーヌの『寓話』を発見します。
本書のタイトルは、『寓話』(岩波文庫)に収載されていた「熊と園芸愛好家」によります。山奥に一頭の熊が住んでいます。孤独な熊は園芸好きの、一人暮らしの老人と親しくなります。
――熊のいちばん大切な仕事は、老人が昼寝をしているあいだ、わずらわしい蝿を追い払うことだった。ある日、熟睡していた老人の鼻先に一匹の蝿がとまり、(中略)「忠実な蠅追い」は、ぜったいに捕まえてやると言うか言わぬか、「敷石をひとつ掴むと、それを思いきり投げつけ」、蠅もろとも老人の頭をかち割ってしまったのである。(本文P113)
そして堀江敏幸は、次のように続けます。
――無知な友人ほど危険なものはない。/賢い敵のほうが、ずっとましである。/この訓話が転じて、いまではいらぬお節介の意味で、「熊の敷石」という表現が残っているのだが(後略)(本文P114)
堀江敏幸は、あるきっかけから、ストーリーを過去から現在へとつむぎだします。小さな田舎の情景を丹念に描きながら、中世や様々な史実へと思考を展開ます。
地面にあった目線が、突然中空へと移動します。堀江敏幸の文章は、揺れるブランコからの視点のようです。しかし表現は平易で、読みやすい文章です。
◎評価は真っ二つ
私は本書に好感を持ちました。しかし、芥川賞の選考会はもめました。選評を並べてみます。(引用は講談社『芥川賞全集』第19巻)
――この作品はあまりにもエッセー風で小説としての魅力に乏しかった。(三浦哲郎)
――作品の主題なのかどうなのか、熊の敷石なるものも、私には別段どうといったことのないただのエスプリにすぎないのではないかという感想しか持てなかった。(宮本輝)
――人と人との関りの内にある微妙な温もりを知的な言葉で刻み込もうとした大作品であるといえよう。民族の歴史の孕む必然と個々の偶然との織り成す人間の生の光景が、幾つものエピソードを通して浮上する。(黒井千次)
――人間の心のゆがみや人間同士の関係のずれで偏光する精神の微妙な光も射しこんでいて、緻密に感じとるとなかなか複雑で不気味でさえある非凡な作風なのであった。(日野啓三)
――言ってみれば破綻だらけだ。エッセーから小説になりきっていない。細部がゆるい。タイトルに魅力がない。(池澤夏樹)
芥川賞の選考で、評価がこれほど極端に割れるのはマレなことです。選考委員の石原慎太郎は「論ずるに値しない」とまで言い放っています。
◎その他の論評
文庫の解説は、川上弘美が書いています。そのなかに次のような表現があります。
――(堀江敏幸の文章は)いろっぽいのだ。
いろっぽさは感じませんが、繊細さや知性は感じられます。また石原慎太郎に代表される選評に、首を傾げる論評もあります。
――彼ら(芥川賞選者)と私の感想が毎回こうもズレるのはなぜ? 「小説」観の違いか、それとも私がバカなのか。不安になる。(斎藤美奈子『本の本』ちくま文庫P159)
まったく同感です。私は「本屋大賞」の眼力の方が、私の評価に近いと断言できます。
最後に、怜悧な視点での論評で結ぶことにします。
――「おせっかい」という軽薄なものと、「血なまぐさい」ものがある瞬間には強烈に同一のものとなる言葉の魔法を読者に感じ取らせる迷路が仕組まれている。解説するのではない。感覚させるのだ。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P396)
(山本藤光2001. 04.15初稿、2018.01.12改稿)
※初校はPHP研究所「ブック・チェイス」に掲載しました。
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