山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

一気読み「町おこしの賦」001-010

2018-02-15 | 一気読み「町おこしの賦」
町おこし001:九月の雪虫
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
釧路発網走行き電車の朝は、華やいでいる。塘路(とうろ)や茅沼(かやぬま)、五十石(ごじっこく)といった沿線の駅から、多くの学生が乗ってくるからである。電車は釧路湿原を縫うようにして走り、標茶(しべちゃ)駅で通学生をまとめて吐き出す。
標茶町は北海道の東に位置し、釧路と網走の中間あたりに存在している。広さは、東京都のほぼ半分。全国では、六番目の敷地面積を誇る。国立公園に指定されている釧路湿原の半分は、標茶町をしなやかな曲線を描いて流れている。世帯数は約三千七百。人口は約七千九百人と、過疎化が深刻な町である。

 瀬口恭二はいつものように、駅前商店街の入口で友人を待っていた。恭二は標茶中学三年。本日は、二学期の始業式である。
標茶駅からは、百人ほどの通学生が出てきた。そのなかの一人が、猪熊勇太(ゆうた)だった。彼は二つ先の、茅沼駅からの通学生である。駅から中学校までは、徒歩で三十分ほどを要する。
勇太は「おはよう」とあいさつして、恭二と肩を並べる。恭二と勇太の背丈は、百七十五センチとほぼ等しい。しかしやせ形の恭二に対して、勇太はがっちりとした体格である。

 駅前の通りは、閑散としている。通学時間に開いているのは、豆腐店と新聞配達所くらいである。九月になると空気はたちまち、ひんやりと張り詰めてくる。二人は制服の上に、コートを羽織っている。
「F高から入学までの、自主トレ・メニューがきていだだろう。毎日十キロのランニング、五百本の素振り、それに腹筋百回。たまらないね。学校へ行く前から、ヘトヘトだよ」
「ランニングと腹筋は一緒だけど、おれには素振りではなく、シャドーピッチング五百回が課せられていた。濡れタオルでやること、と書いてあった」
「恭二、ちゃんとやっているんだろうな?」
「やっていない」
「一流の野球選手になるためには、とことん自分自身をいじめる必要がある。中学までは、才能で何とかなるかもしれない。高校になったら、基礎体力が大切になる。だから恭二、悪いことはいわない。ちゃんと、トレーニングしなきゃダメだ」
「わかった。努力するよ」
二人は、野球部のバッテリーである。標茶中学を北海道大会の、ベストエイトに導いた立役者であった。そのため二人は、札幌のF高校への推薦入学が決まっていた。

川のない舗道に置かれた、朱色の派手な橋を渡る。しばらく行くと、とってつけたような石畳の急な坂道に行きあたる。さらに進むと今度は、時計のついた白亜の建物が現れる。すべてが最近建造されたものである。標茶中学校は、それらの先にある。

坂の上に藤野詩織の姿を認めて、勇太は肘で恭二の脇腹を突く。
「彼女のお出ましだ。おはようのキスでもしてやれよ」
「ばか」
 恭二は勇太から離れて、詩織と肩を並べる。セーラー服は、ベストに替わっていた。二学期からは、冬の制服になったのである。
「セーラー服もかわいかったけど、ベストも似合っている」
 恭二がそういうと、詩織は持っていたコートを着こんだ。
「恭二に見せようと思って、寒いのに我慢してたんだ。かわいいでしょう」

「食べちゃいたいほど、かわいい。ところで、日曜日の壮行試合は、応援にきてくれるよね」
「理佐もきてくれるって。彼女、勇太に気があるみたい」
 突然耳元で、勇太の野太い声がした。
「リサって、転校生の南川理佐ちゃんのこと? おれも好きだって、伝えておいて」
 後ろを歩いているとばかり思っていた勇太は、いつの間にか並んで歩いていた。
「何だ、おまえ、聞いていたのか。油断も隙もない」
「キャッチャーっていうのは、研ぎ澄まされた神経の持ち主でなければ務まらないの。理佐ちゃんか、おれにもついに春がきた」
 コートの襟を立てながら、勇太は屈託なく笑ってみせる。こいつがいるから、おれの投げるボールが活かされていた。恭二は全道大会で、投げ抜いた日のことを思い浮かべる。

「恭二、ほら雪虫」
 目の前を、白い綿毛のようなものが舞っている。
「勇太には春がきて、おれたちには冬の使者がやってきた、ってところかな」
 詩織は笑った。大きな瞳が細くなり、左の頬にえくぼができた。中学校の玄関脇の噴水は、凍結防止のために、荒縄が巻かれて止まっていた。もうすぐ本物の冬がくる。
 
町おこし002:空気も死んでいる
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
南川理佐が標茶中学校へ転校したのは、三年一学期の後半、先々月のことである。父が標茶町虹別小学校の校長に赴任したため、札幌北高進学を断念している。
虹別から標茶町への交通手段は、一日四往復のバスしかない。住民のほとんどは、酪農か農業に従事している。虹別小学校の児童数は三十八人。虹別は歴史の古い開拓村であるが、過疎化に直面している。

南川理佐には、愛華という姉がいる。姉は札幌北高校から、標茶高校一年生に編入してきた。二人は見た目も性格も異なるが、仲のよい姉妹である。理佐は、百五十センチにちょっと足りない小柄。いっぽう愛華は、百六十五センチと大柄である。成績も理佐は学年の平均であるが、愛華はいつもトップクラスにいた。二人は毎日バスで三十分かけて、標茶町まで通学している。
「学校慣れた?」
バスの震動で、問いかける姉の声が跳ね上がる。車窓には延々と、牧草地が広がっている。理佐はあくびをかみ殺し、放牧されている牛の群れに目をとめる。白黒のまだら模様の牛の乳は、搾乳(さくにゅう)がすんでいるらしく張りがない。
「うん、学校には慣れたけど、この田舎の空気にはなじめない」
「私も。田舎の空気には酸味があって、張りつめたものがないの。人の吐息や車の排気ガスが、少ないせいかもしれないね」

「お姉ちゃん、高校生活は楽しい?」
「標茶高校は、受験生にとっては地獄よ。英語と数学の授業は、まだ一学期のところが終わっていない。この前、大学進学希望者への説明会があったんだけど、参加したのはたったの十八人。同級生の九割以上は、就職希望なんだから」

道端で手を上げている詰襟を認めて、バスは停まる。手を上げると、どこからでも乗せてくれるのである。酪農家の息子・穴吹兄弟が乗りこんでくる。「おはよう」といつものようにあいさつをして、指定席になっている後部座席に座る。穴吹健一は愛華と同学年だが、農業科の生徒である。彼はかばんから分厚い少年漫画を取り出し、あっという間に周囲を遮断してしまう。
弟の健二は、標茶中学の三年生である。理佐とは同学年であるが、クラスが違うために話をしたことはない。

「この前『標茶町だより』で読んだんだけど、ついに町民の人口は、牛の数に抜かれたんだって」
 愛華は鼻を手のひらで覆い、くぐもった小声で理佐に語りかける。穴吹兄弟が運んでくる、サイロの臭いが嫌いなのだ。
「何だか、活気がないよね。学校もそうだし、町の空気も死んでいる」
「お父さんはいつも、空気がおいしいっていっているけど」
 理佐の言葉に、姉は少しだけ笑ってみせてから、「こんなところにいると、だらけちゃうよね」と相槌を求めた。

「お父さんの学校の児童たち、弁当はほとんどが麦ごはんに生味噌だけなんだって。みんな貧乏なんだ。でも……」
「でも、何?」
理佐が飲みこんだ言葉を、愛華は問い正す。
「でも誰一人、貧乏だなんて思っていない。きっと、おおらかなんだろうね」
「ほんと。おおらかの代表格が、見えてきた」
「ばかだね。あんなもので観光客を誘致できる、と思っているんだから。私、札幌でも、見たことがなかったのに」
理佐は白々とした気持ちで、白いまがい物の建造物を眺める。いつものように時計の針は、七時四十分ぴったりだった。

「標茶高校って、日本一敷地面積が広いんだよ。校内には牛舎や牛乳の加工工場があって、トラクターの練習コースまであるの。高校を観光客に開放すれば、受けると思うんだけど」
「中学校には、何にもない。誇れるのは野球部が、道内でベストエイトになったことくらいかな。今度の日曜日に、そのバッテリーの壮行試合があるんだ。詩織から、応援に誘われている」
「薬局の次男坊が、エースでしょう。そのお兄さんが私と同じクラスで、成績はいつも一番。ただし私が入ったので、うかうかできないようよ」
「瀬口恭二はイケメンだけど、お兄さんもそうなの?」
「ちょっとイケてる」
 理佐は姉に猪熊勇太の存在を、教えてあげたいと思った。勇太の日焼けした顔とたくましい体を思い出すと、胸が自然に脈打ってくる。

高校前で愛華は下車し、理佐は次の中学校前でバスを降りる。角を曲がるときに、恭二たちと歩いてくる勇太の姿が見えた。理佐は足早に、校門をくぐる。理佐は自分の臆病さを、情けなく思う。背後から、勇太の笑い声が聞こえた。理佐はもっと近くで、その声を聞いてみたいと思う。

町おこし003:遠距離交際になる
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
二学期の始業式を終えた瀬口恭二と藤野詩織は、藤野温泉ホテルのレストランにいる。詩織はこのホテルの一人娘である。
「あと半年で卒業だね。そうしたら、恭二と別れ別れになってしまう」
 詩織はコーヒーカップをおいて、悲しそうな表情を浮かべた。まずい展開になってきた、と恭二は警戒する。普段楽天的な詩織は、何かを考えこむと深刻な話を突きつけてくる。中学を卒業すると同時に、恭二は札幌のF高への進学が決まっている。
「夏休みには帰ってくるんだし、いつだってスマホで話はできる」
「遠距離交際は必ず破綻するって聞いたわ」
「標茶と札幌は遠距離じゃないよ」
「遠いわ」
 詩織の大きな瞳に、涙の玉が盛り上がった。恭二はそんな詩織を、愛おしく思う。
「おれ、絶対に甲子園に行く。詩織はおれの夢を応援する、っていってくれていた」
「そうだけど、現実が近づいてくると、つらくて」
 止まっていた涙が、頬を伝った。恭二はテーブルのナプキンを抜いて、詩織に渡す。
「ごめんなさい。私ね、札幌の私立に行きたいってお母さんに頼んだんだけど、一蹴されちゃった。私も華やいだところで、高校生活をしてみたい。こんなダサい田舎で、大切な青春を埋没させたくないの」
「高校を卒業したら、二人とも札幌の大学へ通って……」
「一緒に暮らすんだったわね」
「だから、それまでの辛抱」
「恭二のユニフォーム姿は、今度で見納めだね」
 浴衣姿の集団が入ってきた。詩織はそれを見て、立ち上がり腕時計に目をやった。
「いけない。こんな時間だ。お手伝いがあるから、今日はこれまでだね。恭二、日曜日は応援に行くからね。私に恥をかかせないように、しっかりと投げるんだよ」
「わかってる」
 恭二も立ち上がり、詩織の後ろ姿を目で追う。そして、詩織のいない半年後を想像する。寂しいけど、おれには野球がある。

町おこし004:耳慣れない診断名
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
恭二と勇太の壮行試合は、標茶中学校の野球グラウンドで開催された。対戦相手は、隣町の磯分内(いそぶんない)中学校である。ネット裏には、詩織がいて理佐がいた。恭二の父・恭平の姿もあった。恭平は息子の中学最後の勇姿を見たくて、店番を妻・園子に託してきていた。
底冷えのする、日曜日だった。校庭のナナカマドの木は、赤い実をつけていた。詩織は黄色いセーター姿、理佐は緑のハーフコートを着て、同色のマフラーをしていた。勇太は目ざとく、理佐の存在を認めていた。
「理佐ちゃんが、きてくれている。気合いが入るな」
 勇太は快活にいって、拳で強くミットを叩いた。乾いた音が、朝靄のなかに響いた。
「色気は試合がすんでからだ」
恭二にたしなめられても、勇太はまだでれでれしている。恭二は中学最後の野球とあって、意気ごんで試合に臨んだ。勇太を相手にマウンドで何球か投げているとき、肩に違和感を覚えた。寒いせいだろうと思って、恭二は構わずに投げた。
捕手の勇太も、いち早く恭二の変調に気づいていた。何度もマウンドに足を運び、「大丈夫か?」と肩の調子を質問している。そのたびに恭二は、「大丈夫」と答えていた。
 
九回、最後の打者への初球を投げたとき、恭二の肩に激痛が走った。恭二はそのままマウンドに、しゃがみこんでしまった。マスクを外して、勇太は素早く駆け寄った。
「肩が動かない」
 額から脂汗がしたたり落ち、左手はしびれたままだった。父の恭平は、マウンドに駆けつけた。
「病院へ行くぞ」
 父は恭二を抱えて、病院に向かった。

さっきからうつろな目は、活字の波を泳いでいるだけである。上方肩関節唇損傷。初めて耳にする診断名は、両手を広げて行く手をふさいでいる。もうボールを投げてはいけない。手術で完治する可能性もあるが、一年間はリハビリに費やす必要がある。ただし手術には、大きなリスクが伴う。頭のなかで医師の言葉を、何度も並べ変えてみる。

医師の言葉を耳にしたとき、恭二は何かが折れる音を聞いた。生まれて初めて味わう挫折感。震える肩に置かれた、父の手がうっとうしかった。恭二は天を仰ぎ、「誤診に違いない」という言葉を飲みこむ。
目の前の医師の姿が、急に遠くなる。損傷のない方の肩に置かれた、父の手に力が入ったのを感じた。とたんに、意識が遠のいた。気がついたときは、病院のベッドで点滴を受けていた。

家のベッドで仰向けになり、恭二は何度も医師の最後通牒(つうちょう)を思い浮かべる。
――手術をしても完治する確率は低い。
――野球を断念することだね。
 誤診に決まっている。恭二は浮かんでくる医師の言葉を、そのたびに拒絶する。しかしその言葉は、水に浮かべたコルクように、いくら押してもすぐに浮かび上がってくる。突然しゃっくりが出る。恭二はそれで、自分が泣いていたのだと気がつく。

野球を失っては、F高へ行く意味はない。肩への不安の少ない、野手へのコンバートはどうだろうか。絶望の泥沼のなかに手を突っこみ、恭二は野球への未練をつまみ出す。そしてすぐに、それを放り投げる。打つのはからっきしダメなのは、自分が一番よく知っていた。

ただ持っていただけの新聞を放り投げ、恭二はスマートフォンを開く。着信はない。階下からは、魚の煮物の匂いが漂ってくる。母はおれの好物を、用意しているらしい。恭二はそれが母の心からの激励なのか、願いがかなってのお祝いなのかと、ひねくれた思いを脳内天秤にのせてみる。

――大好きな詩織。応援ありがとう。無様な姿を見せて、心配かけた。もう野球はダメらしい。恭二。
一通を送信した後、恭二はもう一通の入力をはじめる。
――勇太。投げてはいけないといわれた。ディエンドだよ。おまえとは、もうバッテリーを組むことができない。おれの分まで、F高で頑張ってくれ。恭二。

町おこし005:月夜の散歩
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
「恭二、詩織ちゃんだよ」
 店舗から、父の声が聞こえた。スマホを胸に抱いたまま、うとうとしていたらしい。恭二はベッドから飛び起き、階段を駆け下りる。恭二の家は、小さな調剤薬局を経営している。両親は恭二に薬剤師の資格を取らせて、店を継いでもらいたいと切望している。
兄の恭一は成績が優秀で、北大医学部を受験する予定だ。それゆえ、恭二に寄せる親の期待は大きい。

 詩織は薬局カウンター前の、ソファに座っていた。昼間見たのと同じ、黄色いセーターを着ている。
「やあ」
恭二は、並んで腰を下ろす。
「びっくりしちゃって、返信しないで飛んできちゃった」
 走ってきたのだろう。詩織の声はくぐもっており、肩が激しく上下に揺れている。
「ごめん、心配かけた。歩きながら話そう」
 恭二は詩織をうながして立ち上がると、調剤室の父に告げた。
「ちょっと出かけてくる」
「もうすぐ、夕ご飯だぞ」
「わかってる」

 九月の戸外は冷凍庫の扉を開けたときのように、冷たい風を身体に浴びせかけてくる。満月だった。足下のおぼろな影を踏みながら、二人は黙って歩いた。歩みに合わせるように、二人の口からは白い吐息がこぼれた。
駅前の商店街を抜けたところに、「藤野温泉ホテル」の案内看板があった。
「おれ、めちゃくちゃ混乱している」
「もうピッチャーはできないの?」
「完治するには、時間がかかるようだ。重度の損傷だっていわれた」
「恭二、ぐずぐず未練を持ってちゃダメ。野球をどうするのか、はっきりといいなさい」
 立ち止まって問いつめる詩織の目に、涙がたままった。
「おれ、断念する。F高へも行かない」
「恭二、かわいそう」
 詩織は恭二を見上げて、深いため息をついた。そして独り言のようにつぶやいた。
「野球がなくなる恭二は、想像できない」
「小学生のときから、野球ばっかりだったからな」
詩織の指が遠慮がちに、恭二の右手に触れた。恭二はそれを握りしめる。そのとき恭二は手をつないだのは、初めてだったことに気がつく。詩織の手は、温かかった。痛んだ自分の心を、包みこんでくれるような確かさがあった。

「恭二と一緒に、標高(しべこう)へ通えるの?」
「もう迷っていない。標高にも入学願書を出してあるから、明日から受験勉強をしなければならないな」
「安心した。恭二はぐずだとばかり思っていたけど、見直しちゃった。野球に代わる何かを、探すお手伝いしてあげるね」
「まずは受験だ。おれ、受験勉強はしたことがない。大丈夫かな?」
「私が特訓してあげる。農業科は競争率が高くて難関だけど、普通科は楽勝だよ」

 目の前に、藤野温泉ホテルのネオンが見えてきた。玄関前には、マイクロバスが停まっている。詩織の父・敏光が、応対に出ていた。詩織はあわてて、恭二の手を離す。
「恭二、『月夜の散歩』をプレゼントするわ」
 そういうなり、詩織は歌い始めた。

――落葉のじゅうたん敷き詰められた/月夜の小道を散歩する/ムーンライトに照らされて/黙って黙って寂しく歩く/頬に涙がきらりと光り/リリリリ、リーリーとコオロギ鳴いた

「これ恭二のお兄さんが、作った曲だよね。去年の文化祭で一緒に聴いた。ちょっと寂しいけど、すてきな曲。私から、今の恭二へのプレゼント。落ちこんじゃダメよ」
 詩織の姿が見えなくなるまで、恭二は立ちつくしていた。手のひらに、詩織の温もりが残っていた。メールでは平気で「大好き」と書いていたが、それを形にすることができないでいた。初めて手をつないだ。そう思うと、心臓がピクっと跳ね上がった。

町おこし006:穴吹家の決断
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
 穴吹貞雄の家は、虹別で酪農業を営んでいる。長男の健一は、工面して高校へ入れた。健一の下には、標茶中学三年の弟・健二と双子の姉妹の茜(あかね)と萌(もえ)がいる。姉妹は、虹別小学校の四年生である。
 貧しい夕食を終えて、健二は父・貞雄に食い下がっている。
「兄ちゃんは高校へ行かせたのに、おれはなぜ行かせてもらえないんだ」
「兄ちゃんはうちの跡継ぎだから、酪農や農業の勉強をしてもらわなければならない。おまえは、学校で就職先を探してもらえ」
「高校へ行きたい!」
「うちには、もうそんな余裕はない」

 二人のやり取りに耐えかねて、健一が口をはさんだ。
「おれ、高校を中退して、ここを手伝う。だから、健二は高校へやってもらいたい。健二はおれよりも、ずっと優秀だ。どこかに就職するにしても、中卒では肩身が狭い。なあ、父さん。おれがバリバリ働いて、健二の入学資金は稼ぐから」
 健二は泣き出した。おろおろしていた母の美津子は、泣きながら貞雄に訴えた。
「私が毎日、卵の行商に行く。だから、健二を高校に行かせて。健一も、せっかく入った高校を辞めたらダメだ」
「おれ、定時制に編入する。そうしたら、昼間はここで働ける。だから、健二を高校に行かせて」「健一がそうしてくれれば、母さんは標茶町へ働きに行ける。健一、本当にそうしてくれるのかい?」
「高校を中退しないで、この問題を解決するには、それしか方法はないさ」
 
貞雄は腕組みを解き、咳払いをしてからいった。
「母さんも健一も、よくいってくれた。おれがふがいないばかりに、みんなに迷惑をかける。すまん。健一は定時制への編入。母さんは標茶で仕事を探す。おれはもっともっと働く。だから、健二、標高へ行け。金はみんなでなんとかする」
 健二は、しゃくり上げて泣いている。美津子は健二の肩を抱き、「健二、よかったね。しっかりと勉強しなさいね」と泣きながら告げた。
 健一は大好きな、漫画の定期購読を止める決心をした。一円でもムダにはできない。何としてでも、弟を高校へ行かせたい。健一はまだ泣き止まない弟に視線を向け、貧乏の底にわずかな光を見出している。

町おこし007:夢と妄想
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
瀬口家の夕食は、店番の関係で二組に別れる。
「キンキじゃないか、今日は豪華な夕食だな」
 食卓についた兄の恭一は、ことさら明るくいった。恭二のことは、すでに母親から聞かされている。店にお客さんらしく、父の大きな声が聞こえてくる。恭二は父の声に覆い被せるように、きっぱりと告げた。
「母さん、おれ、F高へ行かない」
「野球を諦めることにしたの?」
「辞める」
「おいおい恭二、そんなに簡単に夢を諦めてしまっていいのか?」
 口をはさんだ兄に向かって、恭二は自分にいい聞かせるように告げる。
「いつまでもかなわない夢に、しがみついていたくないんだ」
「恭二、おまえは強いよ」
「今は空っぽだけど、野球以外の夢を探してみる」

 恭二は兄の言葉を、胸のなかで転がしてみる。そしてかなわぬ夢を追いかけるのは、単なる妄想だろうなと思う。夢って努力すれば、届くところにあるものだろう、とも思う。さっき開いた猪熊勇太からのメールを思い出す。
――恭二。ずいぶんあっさりとした決断だな。おまえが行かないのなら、おれもF高へは行かない。おまえがどんな新しい夢を拾うかを、見届けなければならないからな。勇太。

 母と交代に、父が食卓につく。そして悲しげな声を出した。
「恭二、母さんに聞いたけど、野球と決別するんだな。未練を断ち切るのは難しいけど、おまえの決断を尊重しよう」
「おれ標(しべ)高へ行く。そこで夢中になれる、何かを探す」
「久しぶりで見たけど、詩織ちゃんきれいになったな」
 胸がチクリとした。恭二は黙って、脂がのったキンキの身を口に運ぶ。そして夢中になれる何か、の存在を意識しはじめている。今のところそれは、詩織の存在なのかもしれない。

町おこし008:2つのプロジェクト
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
 喫茶の看板を、「居酒屋むらさき」に変えたと同時に、二人の男が入ってきた。店の主は秋山昭子、四十五歳。早くに夫を亡くして、女手ひとつで店を切り盛りしている。一人娘の可穂は、標茶中学の三年生である。
昭子は二つのグラスに、ビールを注ぐ。二人とも無言で、一気にあおった。背の高い方の男は、ポケットから紙片を取り出す。そして小柄で太った男の眼前に、ひらひらさせている。
「町民の数は、牛の数に抜かれた。何でこんな記事を、広報に載せたのですか?」
 標茶町町長の越川常太郎を詰問しているのは、標茶町観光協会長の肩書きを持つ宮瀬哲伸である。彼は『標茶町だより』の記事に、腹を立てている。

「ショック療法っていうやつだよ。町民に対する一種の、カンフル剤のつもりだ」
「これは逆療法ですよ。ますます町民の士気は、低下してしまいます」
「流出人口を抑えるためには、ショック療法が必要になる」
「観光客の誘致に全力をあげているとき、それを迎える町民に、情けない思いをさせてはまずいですよ」
「相変わらず手厳しいな。ところで、きみの方の建物は、町おこしのカンフル剤になっていないのかい?」

越川町長は地方再生予算の半分を、宮瀬哲伸の経営する宮瀬建設に投資している。もう半分は弟・多衣良(たいら)が社長を務める、越川工務店へ配分している。
「オープンして半年ですので、まだまだ認知度が低いのが現状です。釧路管内はもとより、札幌の企業にまでダイレクトメールを配信しています。そろそろ効果が表れるころです」
「頼むぞ。あれがコケたら、おれの首が危なくなる」

標茶町は地方再生予算で、二つの大きなプロジェクトを実行した。町議会では一部の反対があったものの、すんなりと予算は承認されている。しかし住人の減少を、観光客の誘致で補おうとする企画は、大きな成果を上げていない。

 居酒屋むらさきに、新たな客が顔を出す。町長の弟・越川多衣良だった。
「噂をすれば何とかというやつだ」
 軽く手を上げて、宮瀬は笑いかけた。
「どうせ、悪いウワサ話だべさ」
 多衣良は、コートを脱ぎながら笑い返す。標茶町には、越川工務店と宮瀬建設の二つの建設会社がある。標茶町の土木工事の入札は、この二つの会社が交互に落札している。
「ところで、兄貴、いや町長。例の三大スポットに、四つ目を追加しようと考えている。川上神社の鳥居が朽ちかけているので、建て直したいとのことだ。それで、無償でやってあげるから、朱色にさせてもらいたいとお願いしてきた」
「神主は了承したのか?」
 越川常太郎は弟のグラスに、ビールを注いで尋ねた。
「ばっちりだよ。これでうちのプロジェクトに弾みがつく」

越川工務店と宮瀬建設は、表面的には仲がよい。しかし宮瀬は、多衣良にだけは負けたくなかった。宮瀬は四十五歳、多衣良よりも十七歳も若い。ただし双方ともに、二代目という共通点がある。父親から受け継いだ汗まみれのバトンは、次へつながなければならない。
ところが宮瀬には、渡すべき相手がいない。妻と死に別れ、子どももいないのである。宮瀬哲伸は孤独であった。仕事以外に、生きがいを見出せないでいる。
 
町おこし009:ハートのストラップ
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 
標茶から釧路までは、電車で一時間ほどかかる。ボックス席には、瀬口恭二と藤野詩織が並んでいる。向かいの席には、南川理佐が座っている。電車が動き出し、座席からきしんだ音が響いた。高校受験の参考書を、買いに行く約束になっていた。 
恭二が詩織と一緒に、釧路へ行くのは初めてだった。並んで座っていると、詩織の臀部(でんぶ)の温もりが伝わってくる。それだけで恭二の心は、電車が鉄路を刻む音に共鳴してくる。

電車は茅沼駅に停まる。猪熊勇太が乗りこんできた。「おはよう」とあいさつを交わし、勇太は理佐の隣りに腰を下ろす。外は冷えているとみえて、勇太の頬は真っ赤になっている。
「寒かったよ、理佐ちゃん。抱いて温めておくれ」
「いやね、勇太くん。通路を走ってくれば、温かくなるわよ」
じゃれあっている二人を見て、詩織はうらやましく思う。どうも私たちは、感情を素直に発露できない。電車は、塘路駅に停まった。乗降客はいない。

「あれが寺田徹の家」
 勇太が指差す先には、粗末な平屋と赤いサイロが見える。
「寺田は農業科を、受験するんだって」
 転校して間もない理佐には、寺田のことはわからない。寺田は中学二年のときに、詩織にラブレターを渡している。恭二は誇らしげな詩織から、それを見せてもらった。きみのことが大好きです。そう書かれた文章を見て、恭二は初めて詩織が好きだったことに気がつく。そして自分の胸のうちを告げたのだった。
――おれの方が何倍も、きみのことが好きだよ。

 それが二人の、交際のはじまりだった。甘酸っぱい思い出が、よみがえってきた。恭二はそれを、嚥下(えんげ)してからいった。
「農業科の受験倍率は高いらしいから、あいつ猛勉強しているのと違うか?」
「あいつは大丈夫だよ。寺田が落ちたら、誰も残らない」

 釧路駅からは、二組に別れた。昼にフィッシャーマンズワーフで待ち合わせることを決めて、恭二と詩織は駅ビル内へ入る。スマートフォンのストラップを、プレゼントし合う約束になっていた。
恭二は詩織の好きな、黄色を選ぶことに決めていた。あれこれ品定めをしているとき、詩織は恭二に一本のストラップを見せた。黄色いバンドに、真っ赤なハートが二つついている。
「これ、恭二のストラップに決めた」
「ハートなんて、恥ずかしいよ」
「これにしなさい」
 
ベンチに座って、買ったばかりのストラップを、スマートフォンに結んだ。
「恭二、すてきよ」
 赤いハートがついたスマートフォンをのぞいて、詩織は快活に笑った。店を出ると、肌を刺すような寒風に迎えられた。釧路の風には、魚の匂いが混じっている。
信号が青に変わるのを待っていると、詩織は突然立ち位置を右に移した。そして詩織は、恭二の手を握った。つないだ手をリズミカルに揺すりながら、詩織はいった。
「恭二、私がなぜ並ぶ位置を変えたのか、気がついている?」
「わからない」
「私はいつも、恭二の左側を歩いていたんだ。でも今日から、右側にすることにしたの。だからつながっているのは、私の左手と恭二の右手」
 詩織の左手に、力が加わった。恭二もそれを、強く握り返す。恭二は詩織の、細やかな心配りをうれしく思う。おれの左腕は、もうボールを投げられない。恭二はポケットのストラップを、左手でまさぐる。

 受験参考書を買い求め、フィッシャーマンズワーフへ着くと、勇太と理佐は並んでベンチに座っていた。勇太の上気した表情を認めて、恭二は二人の初デートが順調だったことを悟る。
「幣舞(ぬさまい)橋をバックに、写真を撮ろう」
 恭二は二人を促して、ハートのついたストラップを、ポケットから引き抜く。理佐はこぼれるような笑顔を、カメラに向けている。肩までの長い髪は、風に揺れている。
二組の写真撮影がすむのを待ち構えていたかのように、その場は中国語の集団に飲みこまれてしまった。

「おれたち何だか、よそ者みたいだな」
 勇太は中国人のグループに一瞥をくれ、理佐の背中に手を回した。詩織は目ざとくその様子を眺め、またうらやましく思った。
 カモメの群れが、釧路川の上を舞っている。遠くから、引きずるような汽笛が聞こえた。それは四人の新たなステージへの、出発の合図だったのかもしれない。

町おこし010:にわか受験塾 
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!
釧路から戻ってから、瀬口恭二、藤野詩織、猪熊勇太、南川理佐の四人は、詩織の家で受験勉強を開始した。受験勉強とは無縁の世界にいた恭二と勇太には、野球の練習よりもつらい時間となった。
藤野温泉ホテルの玄関脇の会議室が、にわかの受験塾である。温泉特有の硫黄の匂いが、室内にも流れこんでくる。
「普通科は、無試験かもしれないって。農業科は試験があるようだけど、普通科は募集人数に満たないようよ」
「ということは、受験勉強はいらないということだ。理佐ちゃん、トランプしよう」
 持っていた鉛筆を放り出し、勇太は笑っている。玄関ホールが、騒がしくなった。団体を乗せた、マイクロバスが、到着したようだ。
 受験勉強は、あっという間に打ち切られた。トランプが用意され、恭二・詩織対勇太・理佐組の神経衰弱大会になった。恭二組は、あっけなく負けてしまった。

 コーヒーを運んできた詩織の母・菜々子は、トランプを見てあきれたような表情を浮かべた。
「もう休憩しているの。お勉強がすんだら、温泉に入ってから帰りなさいね。タオルはフロントに置いておくから」
「いいな、温泉か。詩織は毎日温泉に入っているから、肌がきれいだよね」
 理佐はうらやましそうに、詩織の顔に視線を向ける。そして続ける。
「詩織のお母さんも、肌がつやつや。そして目が大きくて、詩織とそっくりだね。美人だしとっても若いわ」
 詩織は母がほめられたのを、自分のことのようにうれしく思う。父・敏光と母・菜々子は標茶高校バレーボール部の先輩後輩で、大恋愛のすえ結ばれた。

 恭二と勇太が男湯に入ると、湯船には三人の先客がいた。
「何だい、あれは。お笑いだよ。ガラクタばかり並べて、五百円だぜ。こいつは詐欺だな」
頭にタオルを乗せた男の大声は、浴室に響き渡っている。恭二はすぐに、さっき到着したお客さんだと思った。そして話題は、例の建物に違いないと思う。恭二と勇太は、並んで浴槽に入る。真っ黒な、ぬるぬるした温泉だった。
「ここの水質は、モール温泉っていうんだ。植物性の温泉は、珍しいらしい」
 恭二が勇太に解説していると、頭タオルの男が口をはさんできた。
「きみたち、地元の人? この温泉は入っているときはぬるぬるしているけど、出るとさっぱりしている。いい湯だよ」
 恭二は温泉をほめられ、少し照れながら満足げにほほ笑む。

「細岡展望台からの、釧路湿原は絶景だった。道中、丹頂鶴もキタキツネもエゾシカも見た。それが最後にあの博物館だ。すっかり興ざめしてしまったよ」
 タオル男は、またぐちりはじめた。よほど腹が立ったらしい。体を洗っていたもう一人も、負けないほどの大声でいう。
「三大がっかりスポットは、笑えたよな。あんなばかばかしいものを、いっぺんに拝むことができたんだから」
 今度はもう一つの、観光目玉のことのようだ。恭二は湯のなかに身を沈めたいほど、恥ずかしくなった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿