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一気読み「町おこしの賦」021-030

2018-02-27 | 一気読み「町おこしの賦」
一気読み「町おこしの賦」021-030
021:……はずだ
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

恭二たちの部屋で、トランプをした。しかし恭二の頭のなかは、別のことでうつろになっている。十時を回った。女性陣は「おやすみ」といって、部屋を出ようとした。勇太は理佐に向かって、「歯ブラシを持ってくるの、忘れた。ちょっとコンビニまで、つきあってくれないか」と告げた。
「先に寝ているぞ」
 恭二は勇太の背中に向かって、声をかけた。声が震えた。詩織には「おやすみ」と片手を上げてみせる。詩織も手を振って、隣りの部屋へと消えた。ついていこうと一瞬思ったが、ぐっと自制した。

部屋に残った恭二は、ひたすら時を待つ。セーターを脱いでいる。ズボンも脱いだ。パジャマに着替えた。電気を消した。布団に入った。情景を思い描いているうちに、心臓がドクンドクンと鳴りはじめる。電気を消して、詩織は目を閉じている、はずだ。
大きく深呼吸をして、恭二はそっと詩織のいる部屋のドアを開ける。彼女は布団に仰向けになって、スマートフォンの操作をしていた。黄色い水玉模様の、パジャマを着ていた。電気は消えていない。

恭二はすかさず、理佐の赤いかばんを廊下に運び出す。ドアを閉めて、電気を消した。そして、詩織の横に滑りこむ。詩織は、「あっ」と声を上げた。抵抗はしない。スマートフォンをもぎ取り、恭二は詩織を抱き締める。石けんの匂いがした。唇を重ねる。詩織は、目を閉じている。長いまつげは、ピクピク震えていた。動悸が激しくなった。「好きだよ」と告げた。背中に回った詩織の手に、力が入った。「好きよ」と、上気した声が聞こえた。

 勇太たちは、部屋にやってこなかった。恭二と詩織は一組の布団で、手を握り合ったまま眠った。何度も唇を重ね、恭二は白桃のような胸にも触れた。小さな隆起を、手のひらに包みこんだ。乳首を軽く、ひねってもみた。詩織の吐息が、乱れるのを感じた。しかしそれ以上の行為は、自制した。

022:卒業とは
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて!

カーテン越しに、朝の日差しを感じた。詩織はそっと、目を開ける。恭二の寝息が、耳元で聞こえた。小さな胸の隆起には、恭二の右手が乗ったままだった。熱いものが、こみ上げてくる。恭二が最後まで求めてきたら、どうなっていたのだろうか。詩織はそんなことを考えて、赤面してしまう。
詩織はそっと恭二の手を持ち上げ、はだけた胸を隠して、静かに起き上がる。幸せって、これなんだわ。カーテン越しの日差しに目をやり、詩織は満たされた気持ちで、大きな伸びをする。
身体が、こわばっているように思う。恭二の寝顔を見下ろし、詩織は甘酸っぱい何かを飲みこむ。

気配で恭二は、目を覚ました。少し照れくさそうに、「おはよう」と告げる。詩織も真っ赤になりながら、「おはよう」と返す。詩織の長い上向きのまつげが震え、大きな目から大粒の涙がこぼれた。詩織はあわててパジャマの袖でぬぐい、照れたようにいった。
「うれしかったの。恭二と二人っきりで、朝を迎えたのね。ごめんね」
 初めてのキス。初めての抱擁。そして初めて詩織の胸に触った。昨夜のことを詩織の涙に映し、おれたちは、まだ卒業していないと思う。高校生になって、まだ詩織との仲が続いていたら、卒業だよな。それまでは、ピュアなままの詩織でいてもらいたい。手のひらに、昨夜の温もりが残っていた。

卒業って、すべてが終わってしまうことなのかもしれない。あるいは新たなステップへの、第一歩なのかもしれない。恭二はこんがらかってきた思考に別れを告げ、トイレへ向かった。

勇太たちが眠る、部屋の前を通る。廊下には、昨夜のジンギスカンの匂いが残っている。恭二はドアに向かって、心のなかで「おはよう、お二人さん」とつぶやく。そして、思わず微笑んでいる。
廊下には朝の陽光が、横たわっていた。新しい朝。最高の朝。廊下の日だまりを踏み、恭二は窓越しの藻岩山に向かって、大きな伸びをした。

023:黄色いマフラー
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて! 

午前十時、理佐の祖父母に見送られて、四人はバスに乗る。席が別れたせいで恭二は、勇太に成果を問いかけることができない。バスを待つ間、何度も目で合図をしてみた。伏し目がちの勇太は、何も語ってはくれなかった。
札幌駅に着いてから、帰りの電車の時間までは、二時間ほどの余裕があった。二組は、別行動をとることにした。そのときにも恭二は、勇太に目の信号を送っている。二人は優秀な、バッテリーだったのだ。目だけで十分な、意思疎通ができるはずだった。しかし勇太は、何も返してこなかった。

二人と別れて、恭二と詩織はマフラー売り場へ直行する。売り場はごった返している。詩織は恭二の手を引き、ぐいぐいと進む。つないでいた手が、混雑のなかで離れた。
「恭二、きて!」
詩織の呼ぶ声が聞こえる。詩織の声を追いかける。お目あての、黄色いマフラーがあった。詩織はサイズの違う、二つを選ぶ。
「恭二、これすてき。これにしようよ」
 詩織は愛おしそうに、大きな瞳を恭二に向ける。
そして二つを持ってレジに進み、店員に値札を外
してくれるようにお願いする。店を出た二人は、
さっそくマフラーを首に巻く。
「暖かいね、恭二、似合っているよ」
 詩織は弾んだ声でいい、わざとマフラーを鼻ま
でずり上げてみせる。そして、いたずらっぽく笑った。
「恭二のマフラーの方が高かったんだけど、割り
勘でいいよね」
 恭二は苦笑し、自分の財布から詩織にお金を渡
す。
「ありがとう。このマフラーは、恭二と私の卒業記念。それから……」
「それから、何だい?」
「初キスの記念かな。でも春はそこまできている。だから今日が最初で最後の、マフラー日和になるかもしれないね」

024:恋の町札幌
――『町おこしの賦』第1部:恭二、きて

 停車中の電車の指定席に着くと、理佐の姿はなかった。勇太は一人で、ぽつねんと座っていた。恭二の胸のなかに、ざわざわとした風が起こる。やっぱり、何かがあったんだ。
「理佐は?」
 詩織は、無頓着に質問する。恭二に緊張が走る。触れてはいけない闇に、詩織は踏みこんでしまった。
「お姉さんへのお土産を、買い忘れたんだ。あわてていたけど、間に合うよ」
 返ってきた答えに、恭二は胸をなで下ろす。小さな紙包みを抱えて、息せききった理佐が飛び乗ってくる。
「ごめん、心配かけちゃって」
 ペコリと頭を下げた理佐は、「勇太の買い物がのろいから、肝心なお土産を買い忘れたのよ」と矛先を変えた。

電車はゆっくりと、ホームを滑り出した。恭二と詩織の首に巻かれたそろいのマフラーを認めて、「お似合いよ」と理佐は目を細めた。その理佐の首には、ペンダントがぶら下げられていた。小さな額縁のなかに、モネの睡蓮の絵がはまっていた。理佐が大好きだ、といっていた絵である。
「勇太、おれからおまえに、プレゼントがある」
 恭二は勇太に、紙包みを手渡す。
「マスクだ。ずっと欲しかった、キャッチャーマスクだよ」
 勇太はつばを飛ばして、理佐にいった。

進行方向に向かって右の窓に、テレビ塔が現れた。勇太はその光景を、マスク越しに見ている。詩織は心のなかのオルゴールを、そって開いた。いつもなら、「月夜の散歩」が聞こえてくる。しかし今、詩織の聴いているのは、
――時計台の下で逢って/私の恋は はじまりました/黙ってあなたに ついてくだけで/私はとても 幸せだった/夢のような 恋のはじめ/忘れはしない 恋の町札幌
という曲だった。それは羊ヶ丘の石碑から、聞こえてきたメロディである。
(第1部『恭二、きて!』終り)



025:高校一年の初日 
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 瀬口恭二たちは無試験で、標茶(しべちゃ)高校普通科への入学を決めた。農業科の方は一・三倍の競争率だった。恭二はD組、詩織はC組とクラスは別々になった。
恭二のクラスには、南川理佐がいた。猪熊勇太(ゆうた)は、詩織と同じクラスだった。そしてC組には、菅谷彩乃(あやの)の兄・幸史郎(こうしろう)がいた。彼は、十九歳になったばかりである。中学を出てからすぐに働き、学費を貯めて入学してきている。同じ詰襟を着ているが、勇太にはまるでおっさんに見えた。幸史郎には、勇太の方から声をかけた。

「菅谷さんですよね。お姉さんから話を聞いています。おれ、猪熊勇太」
「姉、ですか? 私には妹しかいませんが……」
 その言葉で気がついた。彩乃さんの方が、妹だったのだ。
「ああ、すいません、妹の彩乃さんでした。湖陵高校だと聞いていたんで、つい間違えてしまいました」
 勇太は自分の軽率さを恥じ、彼を詩織の席に連れて行く。
「彼女は藤野詩織さん、こちらは……」
「紹介されなくても、わかるわよ。彩乃さんのお兄さんでしょう」
 詩織は幸史郎の精悍な顔立ちを見て、やっぱりアイヌの血が混じっていると思った。眉が濃く、目は深い二重で、顎のひげそり跡が青々しい。しかも勇太よりも、さらに筋肉質の身体をしている。

恭二のD組では、初めてのホームルームが開かれていた。標茶中学からの顔見知りが半分で、あとは隣町の磯分内(いそぶんない)中学校などから進学してきている。担任の指示にしたがい、それぞれが自己紹介をした。出身中学校名と入りたいと思っているクラブ活動名を、あげるのがルールだった。
南川理佐は、「標茶中学出身、美術部を希望しています。趣味は絵を描くことです」と、落ち着いて自己紹介した。恭二の番がきた。
「瀬口恭二、標茶中学出身。新聞部へ入部しようと思っています。兄がいます。標高の二年生です」

一通りの自己紹介がすんだ時点で、担任は伝えた。
「便宜的にクラス委員を決めてある。落ちついたら選挙で選ぶけど、それまでは瀬口恭二に委員長、南川理佐に副委員長をやってもらう。
何か相談ごとがあったら、二人を通すように。瀬口と南川は、突然の指名で悪いけど、みんなに顔を覚えてもらうために、壇上に並んでくれないか」
二人は教壇に立ち、頭を下げた。

ホームルームが終わると、さっそく「委員長!」という声に呼ばれた。磯分内中学校出身で、柔道部希望の野方智彦だった。
「あのさ、委員長。おれ、目が悪いんで、黒板の字が見えないんだ。だから席を前に変えてもらいたいんだけど」
「わかった、担任に伝えておくよ」
 面倒な役職を、与えられたと思う。クラス委員長というのは、頭がいいやつが選ばれるのが常識じゃないか。何で、おれと理佐なんだ。そう思いながら恭二は、クラス日誌に席替えの件を書き留めた。

 校舎から校門までの道の両脇には、さまざまなクラブの看板が並んでいた。執拗に、勧誘している生徒もいた。まるで繁華街のぽん引きみたいだった。恭二は足早に、そこを通り過ぎる。

026:穴吹兄弟の始業式
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 午前八時。穴吹健二は、標茶高校農業科一年B組の教室にいる。中学時代の同級生だった、寺田徹も同じクラスだった。徹の実家は、塘路で酪農業を営んでいる。
「合格おめでとう」
 徹は白い歯を見せて、健二にいった。中学時代、徹はバトミントン部、健二は卓球部だった関係で、二人は体育館でよく顔を合わせていた。
「一度は高校進学を諦めていただけに、合格はすごくうれしい」
 健二は徹に応えながら、入学した喜びをかみしめている。
「よかったよな、進学できて。やっぱり高校ぐらいは、卒業しておきたいものだ」
「兄貴はおれを高校へ行かせるために、昼間働くことになって、定時制に編入した。頭が上がらないよ」
「おまえの家、厳しいんだな」
「零細酪農家は、どこも大変だ。おれは毎朝五時に起きて、牛舎の掃除と餌やりを手伝っている。夏休みはアルバイトで、学費を稼ぐつもりだ」

始業式を終えて健二は、卓球部員募集の看板の前に立った。中学時代の卓球部の先輩だった、越川翔が「おう」といって迎えてくれた。越川翔は町長の息子・誠の次男である。
「入部したいんですが」
「穴吹が入ってくれれば、大きな戦力になる。歓迎だよ」
「よろしくお願いします」
「また鍛えてやるよ。ところで兄貴の健一は、今日は欠席していた。具合でも悪いのか?」
 翔と健一は、農業科で同級生だった。
「いえ、定時制に編入したんです。働かなければ、ぼくを高校へ進学させられなかったからです」
 健二は正直に告げた。
「貧乏はつらいな」
 翔は口中の食べカスを吐き出すように、顔をしかめて見せた。

 午後六時。穴吹健一は、標茶高校定時制二年の始業式の列にいる。全日制からの編入は容易だった。二十一人の生徒は一年からの進級で、健一だけが新顔である。健一は、担任から自己紹介を求められた。
「穴吹健一です。三月までは、全日制の方にいました。家庭の事情で、昼間は働かざるを得なくなりました。それで定時制に編入しました。昼間は実家の酪農を、手伝っています」
 拍手が起こった。

027:新聞部への入部
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

恭二は詩織の誘いもあり、新聞部への入部を決めている。新聞部は年に四回、ブランケット版の「標高新聞」を発行している。ブランケット版とは、朝日新聞などと同じサイズのことである。恭二は文章を書くのも、本を読むのも苦手だった。しかしこれといって入りたいクラブもないので、強引に誘う詩織にしたがったまでである。

新聞部は佐々木部長が卒業し、後任の部長として南川理佐の姉・愛華(あいか)が就任したばかりだった。愛華は二年生で、恭二の兄と同級生である。
「今年は瀬口恭二くん、藤野詩織さん、秋山可穂さんの三人が入部してくれました。佐々木先輩がいなくなったことだし、これからの標高新聞は、標茶町の活性化をテーマに、新たな紙面作りに挑戦します」
愛華は肩まで届いている髪を、かきあげてから続けた。目元は理佐とそっくりだった。
「これまで、学校内のニュース以外は書いてはいけない、というしばりがありました。しかしそれって、おかしいと思います。標高(しべこう)は標茶町という過疎化が進んでいる、貧乏な町にあります。だから私たちの若い力は、町の発展に必要なんです」
 過去のことはわからないまま、恭二は愛華の演説を心地よく聞いた。せっかくの地方再生予算を、とんでもないプロジェクトでムダにした大人たちが、許せなかった。めらめらと、闘志がわいてきた。

 最後に顧問の長島太郎先生が、あいさつに立った。長島は国語が専門で、教師になって二年目とまだ若い。
「私は南川の標茶町の発展にも寄与したい、という考えに賛成だ。この町は空気だけではなく、樹までも死んでいる。若い力で、死んだ町を活性化させる。それを標高新聞編集の中核にすえた新たな企画を、楽しみにしている」
恭二の胸のなかに、熱いものがストンと落ちた。

028:町の活性化のために
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

新聞部の会議を終えて、恭二、詩織、可穂の三人は「喫茶むらさき」に席を移していた。以前、前島たちにからまれた一件があるので、恭二は入るときにちゅうちょした。ほかに客はいなかった。
「お母さん、同じ新聞部に入った瀬口くんと藤野さん。二人は相思相愛らしいわ」
 とんでもない紹介に顔を赤らめながら、二人はあわてて冷たい水を飲んだ。可穂の母はこの前の騒動には触れず、初対面のようにいった。
「瀬口さんって、瀬口薬局の息子さんね。藤野さんは、藤野温泉ホテルの娘さんかしら?」
「はい」
二人は、声を合わせたかのように答える。
「あら、やっぱり息が合っている」 
 可穂の突っこみに、二人はまた頬を染める。
「愛華部長は前の顧問の柳田先生と、大げんかしたみたい。それで今年から顧問は、長島太郎先生に代わったんだって」
 可穂はさっき先輩から聞いたばかりの情報を、二人に披露した。

コーヒーを入れながら、可穂の母が口をはさむ。
「おまえたちはアカか、って柳田先生が激怒したようよ。この前、長島先生がお見えになって、町の発展を願う若者に、アカはないでしょうと反発したら、じゃあ、おまえが顧問になれ、っていわれたらしいの。それで長島先生は、引き受けることにしたんだって。長島先生はここで、ときどきモーニングセットを召し上がっているのよ」
恭二の胸のなかで、小さな何かが破裂した。おもしろいかも、新聞部。
「長島先生はテレビに出てくる先生みたいで、若くて正義感がいっぱい。すてきだよね」
 可穂はうっとりとした表情で、そういった。

「愛華部長は、標高新聞で町を変えると張り切っているけど、そんなことができるのかな?」
 詩織は、砂糖を入れたコーヒーを口に運んだ。小首は傾げたままだった。
「ただ文化祭がありました。体育祭がありました。こんなニュースの後追いばかりじゃ、つまらない。私は愛華部長を信じて、新聞でどこまで町の活性化に寄与できるのかに、挑戦してみたい」
 可穂の熱のこもった話を、恭二は冷めた思いで聞いた。みんなで力を合わせれば、ちょっとくらいは大岩が動くかもしれない。たかが高校生が発信した記事は、予防注射の針が刺さったほどの、刺激にしかならないだろう。
 愛華部長の演説を聞いたときは熱くなった恭二だったが、風呂に入れた雪みたいに、もう跡形もなくなってしまっているのである。

029:液状化現象を起こしている
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

 高校へ入学して最初の日曜日、恭二はプロ野球のデイゲームを観ていた。ファイターズの猛打が爆発し、一方的な展開になっている。店舗から父の大きな声が聞こえた。
「母さん、戸田さんがお立ちになるって」
 鼻眼鏡で新聞を読んでいた母は、立ち上がりざま「戸田さんが引っ越すんだよ」と恭二に告げた。恭二も母のあとを追った。店舗には、戸田さん夫妻がいた。戸田さんは瀬口薬局の隣で、靴店を営んでいた。不景気で閉店するという話は聞いていた。
「寂しくなるわね。お店の借り手は見つかったの?」
 母が尋ねた。
「貼り紙をしてあるので、瀬口さんのところへ問い合わせがくるかもしれません。その際はよろしくお願いします」
 戸田さんはそういって頭を下げた。

 戸田さん夫妻を見送って、居間に戻った母は大きなため息をついた。
「明日は我が身だね。また、シャッターがひとつ降りてしまった」
「戸田さん、どこへ引っ越すの?」
 恭二が聞いた。
「釧路の息子さんのところだって。商いって自己責任でするものだけど、こうも町が寂れると、町の責任にもしたくなるわ」
「地方活性化予算を、あんなばかげたものに投入しちゃうんだから、情けないよ」
 お茶を飲んで、父はそういい捨てて店舗へ消えた。居間には父の残した声が、どんよりとただよっていた。恭二はテレビを消して、父の言葉を胸のなかではんすうしている。この町は液状化現象を起こしている。傾いてゆく、瀬口薬局の映像が浮かんだ。

町おこし030:生徒会長選挙
――『町おこしの賦』第2部:痛いよ、詩織!

六月になった。高校生活に慣れてきたとき、生徒会長選挙の候補者募集が行われた。例年なら学校側が推薦する誰かが、生徒会長に就任する。しかし今年ばかりは違った。
何と一年生の菅谷幸史郎(こうしろう)が、名乗りを上げたのである。対立候補は学校側推薦の二年生・越川翔だった。彼は標茶町町長・越川常太郎の孫である。

学校側は菅谷幸史郎に、立候補の撤回を求めた。一年生では校内のことが、わからない。だから立候補を、取り下げるように。表向きは、そのように説得された。しかし菅谷には、学校側の底意が見えていた。彼は頑として、説得を聞き入れなかった。

昼休みの恭二のクラスにも、生徒会長候補の菅谷は、たすきをかけてやってきた。
「生徒会長に立候補しました、菅谷幸史郎です。四年ばかり、土木作業員をやっていました。理由は高校へ進学する、お金がなかったからです。やっと資金が貯まったので、標茶高校を受験しました。無試験でしたが、合格しました。私は標茶中学の卒業生ですが、日本一雄大な標茶高校に憧れていました。
今回生徒会長に立候補させていただいたのは、標茶高校を名実ともに日本一の高校にしたいからです。そのためには、勉強もクラブ活動も、そして何より標茶高校のみなさんが、町の活性化に貢献できるような学園を目指さなければなりません。どうか、みなさんの清き一票を、おっさん、菅谷幸史郎へとお願いします。私なら、できます」

 大きな拍手が、巻き起こった。恭二は彩乃さんのことを、思い出していた。働きながら、定時制高校に通っている。彼女も、兄も、何と強い自分を持っているのだろう。
菅谷は標茶町の活性化のために、といった。恭二の心のなかで、また新たなうねりが起こった。標茶町のために、自分ができる何か。まだ磨りガラス越しにしか見えないが、おぼろげながらやるべきことが、見えてきたような気がする。

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