山本藤光の文庫で読む500+α

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中村文則『掏摸(スリ)』(河出文庫)

2018-02-15 | 書評「な」の国内著者
中村文則『掏摸(スリ)』(河出文庫)

東京を仕事場にする天才スリ師。ある日、彼は「最悪」の男と再会する。男の名は木崎―かつて仕事をともにした闇社会に生きる男。木崎は彼に、こう囁いた。「これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前を殺す。逃げれば、あの女と子供を殺す」運命とはなにか、他人の人生を支配するとはどういうことなのか。そして、社会から外れた人々の切なる祈りとは…。大江健三郎賞を受賞し、各国で翻訳されたベストセラーが文庫化。(「BOOK」データベースより)

◎2つの支配を融合させた

中村文則は順調に、文壇という大海をこぎだしました。25歳(2002年)のときに『銃』(新潮文庫/河出文庫)により、新潮新人賞を受賞しデビューしました。このときの印象は、孤高の人の内面をみごとに描ききる、筆力のある新人の登場という感じでした。

その後中村文則は、『遮光』(初出2004年、新潮文庫)で野間文芸新人賞、『土の中の子供』(初出2005年、新潮文庫)で芥川賞、『掏摸〈スリ〉』(初出2010年、河出文庫)で大江健三郎賞を受賞します。これらの作品は海外でも高い評価を得ています。

 中村文則の作品は、いずれも少ない登場人物で展開されます。そしてそれらの人たちは、いちように孤独をかかえています。「山本藤光の文庫で読む500+α」として『銃』をとりあげるつもりでしたが、『掏摸〈スリ〉』を読んで圧倒されました。急きょ原稿の差し替えをすることにしました。

『掏摸〈スリ〉』は、これまでの集大成ともいえる作品です。「僕」という1人称で語られる作品は、孤独なプロの掏摸〈スリ〉をみごとに描いてみせています。掏摸〈スリ〉が「僕」と語ることに違和感をおぼえましたが、これも著者の意図するところなのです。

「俺」に呼称をかえたとたんに、悪辣卑劣な主人公にさまがわりしてしまいます。本書の主人公「僕」は、だからといってほめられた存在ではありません。「僕」は裕福な人だけをねらうスリです。キャラクターとしては、「善良な」スリなのです。その表現として「僕」を用いたのだと推察されます。

中村文則はデビュー作『銃』以来ずっと、何かに支配されている主人公を描いています。『銃』では銃をひろった大学生が、しだいに銃に魅せられてゆく世界を描いています。そしてそれを撃ってみたいという気持ちになります。『掏摸〈スリ〉』では自らの手技に支配された「僕」が主人公です。

「支配」には、内面の支配と外的な支配があります。内面の支配は幼児体験であったり、あるきっかけによるものです。外的支配は親と子であったり、組織の上と下であったりします。『掏摸〈スリ〉』はこの2つの支配を融合させた、緊迫感のあるみごとな作品です。

中村文則は、作家にはめずらしく饒舌な男です。彼は書きたいことはつぎの2つだと明確にのべています。「人間とは何ぞや?」「人間の内面を掘り下げる」。そしてあくまでも純文学の立場から文体をねりあげ、そこにミステリーやエンターティメントの要素を付加する。まさに『掏摸〈スリ〉』はそのままの作品でした。

文庫巻末のエッセイに中村文則自身が、こんな文章を披露しています。

――小説の魅力、本の魅力を、能力の許す限り、最大限に出そうと考えました。純文学ならではの深みを追求しながら、読みやすく、かつ物語としてもスリルのあるもの。文章を次々読む快感というか、小説でしか味わえない、「文章の快楽」を念頭に置きました。悪だけでなく、温かさ、も意識しました。

◎盗(と)った記憶がないのに

『掏摸〈スリ〉』の主人公「僕」は、天才スリ師です。本人は盗(と)った記憶がないのに、ポケットに知らぬ間に財布がはいっていたりします。

――まただ、と思った。取った記憶はなかった。(本文P12より)

第1章に書かれたこの短い文章は、本書のエンディングで絶妙な効果を発揮します。ネタバレになりますので、あえてふれることはしません。中村文則が『掏摸〈スリ〉』で前記引用の文章と、エンディングの文章とで、ストーリーをはさみこむという手法をもちいたのです。

鮮やかなラストシーンは、この短い文章を読み落としていたら、味気ないものになってしまいます。

◎「塔」とは?

はさみこまれたストーリーの中核には、「塔」がそびえたっています。ひんぱんに登場する「塔」のイメージをつかむことが、本書を読むだいご味となります。

『掏摸〈スリ〉』は主人公が小さかったころを、回想する場面からはじまります。

――まだ僕が小さかった頃、行為の途中、よく失敗をした。

スリ行為の失敗のあとに、僕は塔の存在を意識しています。

――遠くには、いつも塔があった。霧におおわれ、輪郭だけが浮かび上がる、古い白昼夢のような塔。だが、今の僕は、そのような失敗をすることはない。当然のことながら、塔も見えない。(本文P7より)

同じような文章が、第16章にも登場します。

――小さい頃、いつも遠くに、塔があった。/長屋や低いアパートが並ぶ汚れた路地から、見上げると、その塔はいつもぼんやりと見えた。霧に覆われ、輪郭が曖昧な、古い白昼夢のような塔だった。どこかの外国のもののように、厳粛で、先端が見えないほど高く、どのように歩いても決して辿り着けないと思えるほど、その塔は遠く、美しかった。(本文P154より)

少年だった「僕」は、「いつか、あの塔が、自分に何かをいうかもしれない」(本文P155より)と思っています。公園で外国製の自動車で遊んでいるこどもから、それを盗んだときにもかなたに塔がありました。小学校で父親の高級腕時計をしている同級生から、それを盗んでとりおさえられたときにも塔をみました。

――教室の窓から、塔が見えた。今こそ、あの塔は、僕に何かを言うだろうと思った。あの塔は、長く長く、立ち続けていたのだから。だが、塔はなおも、美しく遠くに立つだけだった。恥の中で快楽を感じた僕を、肯定も、否定もすることなく、僕はそのまま、目を閉じた。(本文P157-158より)

スリ行為に失敗することのなくなった主人公「僕」は、塔をみることがなくなっています。塔は圧倒的な存在で、主人公の意識の中に存在しています。それは神であったり、親であったり、恋人であったりします。つまり塔は自分を支配するものなのです。

主人公「僕」がねらうのは、裕福にみえる人のみです。そして盗んだ金は、貧しい人にわけあたえます。現代版の鼠小僧みたいなスリなのです。

「僕」には以前、佐江子という女がいました。4年前までよく会っていた女です。彼女にはこどもが1人いました。佐江子と別れる1か月前、「僕」は佐江子からこんな話を聞きます。

――「どこかの、地下の地下。……周りを古くて腐った壁に囲まれてる。すごく湿った場所。……私はその中で、もっと下、もっと下って、堕ちてくんだ。」(本文P95より)

そして佐江子はつづけます。

――光る、長いものが、外の高いところにある。どこかの外に、私は出たみたいになる。そして、それを見ながら、あれはなんだろう(原文の「あれはなんだろう」に傍点)、と思う。それは綺麗で、雲よりも高くて、先が見えない(本文P96より)

「僕」はいまでも、佐江子を忘れられません。佐江子は白昼夢にもあらわれたりします。佐江子を失った「僕」は、スリ行為に失敗していないのに、ふたたび塔をみるようになります。

――佐江子の姿を思い浮かべ、地下通路を出た時、今まで気づかなかった鉄塔があった。それは上部を冷えた空にさらしながら、夜の中で立ち続けていた。(本文P42より)

老人の財布をとったとき、22万円と孫と写したプリクラがでてくる場面があります。ふと見上げた先の風景描写は、つぎのようになっています。この場面も「避雷針」は「鉄塔」と同じイメージだと思います。

――高く立ち並ぶ雑居ビルの上に、銀に光る避雷針がある。それは垂直に伸び、高く日の光に当たり、僕は視線を逸らしまた人混みに入った。(本文P73より)

◎売春婦親子との出会い

ある日「僕」は母親に連れられた少年が、万引きしている場面に遭遇します。明らかに母親の指示による犯行でした。しかし店の監視員がそれを見守りつづけていました。彼は親子を助けます。母親は売春婦で、若い男が家に出入りしています。

少年は男が家を訪れるときには、外に出されます。男が酒を飲むと、少年に暴力をふるいます。母親は男に金をみつぐために、少年に万引きを強要します。行き場のない少年は、いつしか「僕」に身をよせてくるようになります。母親は「僕」のところへやってきて、身を投げだし金を求めます。

社会の底辺にいる親子。それを支配する若い男。中村文則は読者に、貧しく孤独な親子を提示してみせます。主人公の「僕」は、自分の幼年時代を少年に重ねて、心を痛めます。そして母親には佐江子の面影が重なります。

そんなときに裏社会を支配する悪党・木崎と出会います。木崎は「僕」に3つの仕事を命じます。そしてこういいます。

――「お前は俺の管理下にある。お前は断われない。……あの親子が無残に死ぬからだ。それが、お前の運命だ。……運命ってのは、強者と弱者の関係に似てると思わんか? 宗教に目を向けてみるといい。ヤーヴェに従ったイスラエル人達が、なぜヤーヴェを恐れたか。その神に、力があったからだよ。神を信じる人間は、多かれ少なかれ、神を恐れている。なぜなら、神に力があるからだ」(本文P120より)

静なる塔はなにもいってくれません。しかし闇を支配する木崎は饒舌です。幼いころにあらわれた塔。スリ行為で失敗することがなくなってから消えていた塔。それが佐江子との別離をきっかけに、出現するようになりました。そして「僕」は最後の場面で、おそらく塔をみたのだと思います。塔には言葉はありません。ただ主人公の「今」を見おろしつづけているだけです。

本書は『王国』(河出書房新社)へと、書きつながれてゆきます。そして先日、『教団X』(初出2014年、集英社)を買い求めました。これらの作品が文庫化された時点で、本稿に加筆することになると思います。
(山本藤光:2014.01.16初稿、2018.02.15改稿)


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