ドブロクニクに午前8時着、クルーズ船は沖に碇を下す。快晴、テンダー・ボートに乗り換え港まで約5分…イオニア海の日の出、クロアチアの港
”ドブロクニク”はクロアチア、アドリア海沿岸のダルマチア最南部の都市(クロアチア本土の飛び地)。1979年に世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る…”ピレ門”は市内への通用門、市の守護聖人ヴラホ像が装飾壁を飾る
ドブロクニクは歴史的に海洋貿易で栄えた都市(中世のラグーサ共和国)、アドリア海東側では唯一のライバルである都市国家はヴェネチア共和国だけであった。巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけて特に発展した。1970年代恒久的に戦争による破壊から守るために非武装化されたが、1991年ユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力に7ヶ月間包囲(ドブロクニク包囲)され砲撃により多大な損害を被った
有名な”城壁”(1940m)は地中海有数の美しく堅固な防御施設、ここを一周する…市街地から市壁に登り時計の針と逆回りに散策、眼下に見える”プラツァ”(市内の目抜き通り)は昔の水路で11世紀埋め立てられ本土と小島がつながった
西側の岩壁と城壁、海面から37mの険しい岩塊に建つ”ロヴリェナツ要塞”と西のピレ門を守る”ボルカ砦”
海からの攻撃に備える砲台とロクルム島の眺め、東側に臨むアドリア海、旧港は東南部の”聖イヴァン砦”と市街東端の”レヴェリン砦”が守りを固める
山側(北)の市街の景色と海側(南)の市内の景色
”ミンチェスタ砦塔”は本土側で最も目立つ施設、市内の北西部山側に睨みを利かす
午前中、イオニア海上のクルーズを楽しむ…イオニア海の景色、クルーズ屋上デッキで日光浴
サランダには13時着…サランダに近づいてきた
“ブトリント”はアルバニア南部のサランダ県にある都市遺跡。古代、ラテン語でブトロトゥム(Buthrotum)と呼ばれた。都市遺跡は古代ギリシャ、古代ローマ、ビザンチン帝国等の文化と文明の足跡を留めている…入口入って右手に、ベネチアン・タワー(15-16世紀)
プトリントはBC6~BC5世紀頃、古代ギリシャの植民都市だった。低地の都市部に円形劇場、アクロポリスの丘に神殿等が造られた。BC2世紀、古代ローマに併合されると、円形劇場は拡張、競技場や公共浴場なども建設された。5世紀のビザンチン帝国下では、聖堂や洗礼堂などが建てられた。15世紀にオスマン帝国領となり都市国家形成の歴史は幕を閉じた…アスクレーピオス(ギリシア神話の名医)に捧げる礼拝堂(BC4世紀)
古代の劇場、3世紀建設、後ローマ様式に変更された
ローマの浴場(2世紀)
市場、公衆広場…市民と商業の中心
"エレクティオン神殿"の概要…ペンテリ山の白い大理石で作られ「6体の少女の柱像」が目に付く
①BC5世紀末に完成したイオニア式建築の代表作、かつてはアテナの女神像が安置されていた。BC421年から始まりBC407に完成。ギリシア神話の英雄エリクトニオスに捧げられたものである。現在の神殿はBC480年のペルシア戦争で破壊後、再建されたと信じられている
②エレクテイオンは敷地の地盤に3mに及ぶ高低差があり、多くの聖蹟と神格の祭祀所を一つの建物にまとめた複雑な構造。4つの区画があり最も大きな構造物は東側のドーム状会議室で、その東側のイオニア式の柱廊式玄関を通して祭壇に設置されたアテナの女神像が民衆を見下ろす公衆の講壇と考えられている
③北側には円柱を持つ別の大きな玄関があり、南側には有名な「少女の玄関」がある。6体の少女の姿の柱像(カリアティード;高さ1.77m)があり、最も細い部分は首で玄関の屋根の重さを支えるように設計されている
”ヘロディス・アッティコス音楽堂”…アクロポリスの丘を登り始めて目にする遺跡
AD161年にギリシア人の貴族(ローマの元老院議員)ヘロディス・アッティコスが妻を偲んで建設した、白大理石で造られ収容人員は約5,000名
”ディオニューソス劇場”…アクロポリスの丘からのアテネ市街を展望、眼下にこの劇場が見える
大型野外劇場で「ディオニューソス・エレウテリオス」(自由の神)の聖域の一部を形成、ワインと豊穣の神に捧げられた。アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパネス(古代ギリシアの劇作家)が活躍した
”ピレウス”を16時出港し、サランダに向かう…”ディナー”のメイン・ディシュはエビ等、海産物や野菜を多くして健康的な食事を心がけた
”ピレウス港”に7時着岸、ピレウスは地中海で一番大きな港の一つ、古代からアテネの港…ピレウス港から公共のバス(約30分)でアテネの”アクロポリス”に着く
アクロポリスの丘に登るには”プロピュライア(入り口)”の横を通る。建築家ムネシクルスによって設計され、建設はBC437年に始まりBC432年に中断し未完成…入口には清浄ではない人々が聖域に近付くことはで出来ない
”アテーナー像”が台座の上に建っていた…現在残っているのは基礎の大理石であるが、この上に”アテナ・プロマコスの像”(BC475~450年) 守護女神アテーナーの青銅像があった。彫刻家ペイディアスの作、マラトンの戦いでペルシア軍から奪った戦利品を用いて作られた、記録によれば像の高さは9m程、左手に盾、右手に槍を持っていた。又、槍の先端や兜の紋章の部分が遠くスニオン岬(アテネの45㎞南東)からも見えたという
パルテノン神殿の特徴・歴史概要…まじかに見て!古代ギリシャが築いてきた建築物や芸術文化の力強さを実感した
①パルテノン神殿は古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年に完工。ギリシア古代建築の最も重要ドーリア式建造物の最高峰、装飾彫刻もギリシア美術の傑作。この神殿は古代ギリシアと民主政アテナイの象徴であり、世界遺産に認定されている
②この地には古パルテノンと呼ばれるアテーナーの神殿があったが、BC480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建された。デロス同盟やアテナイ帝国の国庫に使われた
③6世紀にはキリスト教の生神女マリヤ聖堂、オスマン帝国の占領後モスクや火薬庫として使われ、その後、ヴェネツィア共和国の攻撃によって神殿建築や彫刻は甚大な損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得てエルギン伯トマス・ブルースは神殿から焼け残った彫刻類を持ち去り、1816年にロンドンの大英博物館に売却。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めている
構造概要…パルテノン神殿はドーリア式建造物でペンティ山の白い大理石が使われた。短辺30.86m(8本の柱)、長辺69.51m(17本の柱)、高さ15m。内部の列柱には6本の柱が在り、寺院の内部は4つの聖域(pronaos, sekos, opisthodomos, opisthonaos)に分けられている
ギリシャにある“ミコノス島”はエーゲ海のキクラデス諸島(ティノス、サイロス、パァロスとナクオス島等)にある代表的な観光地の一つ、白で統一された街並みが特徴である。世界でも人気があるリゾート地で、年間を通じて世界中から観光客が集まる。島は花崗岩で出来ていて、新鮮な自然水が少ないため海水を淡水化して使っている
ミコノス島に11時着き、沖合で碇を下す…クルーズ船から、港までは”はしけ(tender boat)”で往復する…ミコノス島と”はしけ”
白い迷路を通り、ミコノス島のシンボル”白い風車”(6あるが1つは修理中)に向かう…高台からエーゲ海を展望する
小学校とセラピーの店
海沿いにあるミコノス島で一番有名な教会…周辺には小さい協会が沢山ある
20時ミコノス島を出港し、ピラウスに向かう…夜はクルーズ船のブロードウェイ・シアターでマジック等を観劇
カタコロンに13時着岸…ギリシャのカタコロンはイオニア海を見渡す湾岸にある村、古代オリンピアの遺跡がバスで40分(35km)程の所にあるため大型クルーズ船が常時停泊している
オリンピアは古代のギリシャ人がゼウス(Zeus;オリンポス山の神々の主神)に捧げる神聖な競技を祝福するため、千年以上に渡り4年毎にオリンピアに集まった。有名な聖域の遺跡には古代の四辺形競技場、寺院や宝物等がある
①オリンピアの聖域はクロノスの丘南斜面に発達した。オリンパスのゼウスに捧げる聖域がBC10~9世紀の間に形作られた。最初の遺跡建造物は古代(BC7~6世紀)に作られ、さらに多くの要求に応えるため建物が付け加えられた。古代ギリシャ・ローマ時代(BC5~4世紀)に聖域は頂点に達し、BC4世紀末に完成
②オリンピック・ゲーム(BC776年に開始)は、この場所の建築目的に重要な役割を果たし、建築物の追加や変更が古代ギリシャ時代(BC3~1世紀)やローマ帝国時代(BC1末~AD3世紀)にも続けられた
③その後、聖域(アルテイス)は壁により他の地域と別けられ、3つの門(西に2、南に1)から入るようになり、祭儀と直接結びついた寺院や建物を壁で閉ざし、壁の外側にオリンピックの期間中に必要な聖域の訪問者やオリンピック・ゲームのアスリートに必要な建物(神官の家、浴場、ホテル、体育館等)が建っていた。AD393年に聖域の祭りは禁止されて聖域(アルテイス)の活動は制限されて、AD426年には皇帝が遺跡の破壊を命じ、AD6世紀に起きた地震で廃墟になった
”フィリペイオン(Philippeion)”は紀元前4世紀に、マケドニア国王・フィリッポス2世が戦争の勝利を感謝して奉納…部分的に復旧中
ヘラ(主祭神ゼウスの妻)の神殿(BC7世紀末)…聖域で最も古い寺院(ドーリス地方の寺院建築様式)、短辺(6本の柱)・長辺(16本の柱)(50×18.75m、高さ7.8m),
始めは木の柱が次第に石に置き換えられた
ヘラの祭壇…ここでベルリン・オリンピック(1936年)聖火の点火式が初めて行われた。”東京オリンピック”の聖火の点火式もここで行われる
ゼウスの神殿(BC470~457年)…短辺(6本の柱)、長辺(13本の柱)(64.12×27.68m,高さ20.25m)、ドーリア調の寺院、中に巨大な金と象牙のゼウス像(高さ12m)が置かれていた。切り妻型屋根と柱の間にある三角の東西の破風に「オイノマス王とペロプスの戦車競走出陣場面」と「馬身の怪人ケンタウロス族とラピタイ族との激戦場面」の彫刻があった。寺院はAD522とAD551の地震で破壊された…一部復旧中
”スタジアム”(BC5世紀中)は現在の位置は古代ギリシャ・ローマ時代のものである。スタートの石とゴールのライン間のトラックの大きさは192.27×28.50m。南側にあるオリンピック・ゲームの審番員の台以外は、石の座席はなかった。北側にはデメル神(農業・多産・結婚の女神)の祭壇があった。収容人員は45,000人、古代ギリシャ時代の末に西側に門が造られた…スタートの練習
”ゼウスの台座”(BC4~1世紀)…16個のゼウス像は反則をしたアスリートに課せられた罰金で作られた。違反の本質と名前を碑文に刻み、スタジアムへ行くまで全ての競技者へ警告した
”ホール”(BC3世紀)である四角形の建物(66.35×66.75m)が列柱で囲まれた中庭にあった。バス、着替え室や油で体を清める特別室とは分けられた屋根付きの領域で、ここにレスリング、ボクシングや跳躍を練習するトレーニング領域があり、同時に哲学者、講演者や詩人が講義したり、それぞれの考えを話し合った
クルーズ船は18時出港して、ミコノス島に向かう
バーリはイタリア共和国南部の都市・プッリァ州の州都。アドリア海に面した港湾都市で東地中海の国々と広範囲な貿易をおこなう商業の一大中心地。 サンタクロースのもととなった聖人ニコラオス(聖ニコラ)ゆかりの地である…バーリ港に12時接岸
旧市街の玄関や土産物店
旧市街の”サン・二コラ教会”、ニコラオスはキリスト教の主教(司教)・神学者。3~4世紀に小アジアのミュラ(ミラ)で大主教を務め奇跡を起こした聖人(聖二コラ)。1087年バーリのサン・二コラ教会に聖遺物(不朽体)が移された
ノルマンノ・シュヴァーベン城は12世紀のノルマン時代ルッジェーロ2世が東ローマ要塞の上に城を築き、13世紀シュヴァーベン王フェデリーコ2世が、当時残存していた城壁や塔の骨組みを利用し再建。13~14世紀アンジュー家ナポリ王の時代に外壁が復元され、大きな尖塔アーチの柱廊などが作られた。16世紀初めから約50年アラゴン朝の時代にはイザベッラとその娘の宮殿として使用され。ブルボン王朝には憲兵のための兵舎や牢獄として使用された。 現在、展示室や文化財保護局の事務所として使用されている
プーリア・ロマネスク様式の美しい円柱…回廊やホールには、壁柱や柱を飾る柱頭にイスラム的な野菜の装飾、戦士の頭の列や古代ローマ的なワシの列の装飾等が施されている
18時バーリ港を出港してカタコロンへ向かう
午前、サンマルコ広場にある”サンマルコ大聖堂”を見学…ヴェネチアの守護聖人で新約聖書の福音書を記述した聖人マルコがまつられている、ビサンチン建築で東ローマ帝国の建築様式(ギリシャ・ローマとオリエントの様式が融合)、建物の内部は黄金に輝く壁や天井、祭壇に宝石が埋め込まれた黄金の衝立で眩しい。べネチアは自治を保ち続け交易によって巨万の富を得た
ゴンドラの停留所と「ヴェネツィアン・マスク(仮面)」を売る土産物店
クルーズ船に乗船するため、水上バスで、Rialto→Pizzale Romeで下船する。水上バスから”リアルト橋”や”カ・ドーロ”を展望…”リアルト橋”は大運河(カナルグランデ;Canal Grande)に架かる4つの橋の一つ「白い巨象」とも呼ばれ、橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少なく最も早くこの周りに集落ができ商業の中心地となった。”カ・ドーロ(CA'D'ORO)”は大運河に面する邸宅で最も美しく最も古いものの一つで、かつては外壁に金箔と多彩色の装飾が施されていたため「カ・ドーロ(黄金の館)」と呼ばれる
クルーズ船は夕刻5時ベニス港を出港…デッキ最上部からベニスの市街を眺める乗客
サンマルコ広場の”鐘楼(Campanile di San Marco)”や”ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)”を展望する
クルーズの航路