16日間の「地中海クルーズ」を終えて
1.添乗員なし、夫婦2人でのクルーズ参加であったため、東京(羽田空港)から出発地アテネ港までの旅行、バルセロナ空港から東京(成田空港)までの旅行が不安でもあったが、無事予定どうり実施出来た…予定どうり「りクルーズ船」に乗れなければ旅行代金が無駄になるリスクがある
(1)往路は、東京(羽田)国際空港(エミレーツ航空:Boeing 777-300)から経由地のドバイ国際空港まで、羽田では飛行機が約2時間の遅れて出発したが、ドバイ空港では4時間の待ち時間を予定していたため、乗り継ぎ時間まで余裕があった(ひと安心!) 。ドバイ国際空港(エミレーツ航空:Boeing-777-200)からギリシャのアテネ空港を目指し予定どうり到着。エミレーツ航空のビジネス・クラスは座席がフラット・シートになり、よく眠れた
(2) 復路は、バルセロナ国際空港(エミレーツ航空:Boeing 777-200)から経由地のドバイ国際空港まで、ドバイ空港では2時間20分の待ち時間、飛行機は予定どうりドバイ国際空港に到着し、ドバイ国際空港(エミレーツ航空: AIRBUS A380:2階建て)…往路と同じくよく眠れた。時差解消には睡眠が一番だ!
2. クルーズ船の寄港地ツアー(SHORE EXCURSION)は、11月10日フィリッピ&カバラ、11日ベスト オブ イスタンブール、14日タオルミーナ・溶岩流・ワインテイスティング、15日古代ポンペイ、16日パノラマ・ローマ、18日サン・レミ探検に参加…ガイドが英語のため、内容把握に苦労した。旅行を計画した妻に聞いたり、帰国後ブログを作成するときはWeb等で調べて補足した。
17日はラ・スペツァ港で観光タクシーにクルーズ船の8名(米国人夫妻2組、タイ人夫妻、我々夫妻)が相乗りしチンクェ・テッレを観光。19日はバルセロナを夫妻で自由散策……仲良くなった米国人夫妻とバルセロナのカーサ・バトロで偶然出会った
3.クルーズ船の食事はおいしく、従業員の対応も良かった…食べ過ぎて胃・腸の調子が悪くなり、カヴァラで胃薬を買う。後半は野菜を多く、果物やヨーグルト、パン、コーヒ等健康志向に切り替えた
4.クルーズ船(乗客数1258名)では日本人(個人、団体共に)旅行者を見かけなかった、アメリカ人、カナダ人が多い…円安?、添乗員付きでない場合、東京からギリシャまで、バルセロナから東京までのドバイ(経由地)での乗り継ぎの不慣れ?、船内の案内や寄港地ツアーが英語のみ?、書類がインターネット中心で日本人の年寄には不慣れなど?…円安でインバウンドは増えているが、外国では日本の国力低下が著しいと感じた
5. 旅行前は、見学地の状況を書物で調べてもよく理解できない部分が多かったが、実際に現地に行くと暑さ寒さや土地・建物の古さ等が五感で感じ取れた。「百聞は一見に如かず」、帰国して現地の状況把握はWeb等を用いて捗った。有意義な「地中海クルーズ」でした
ボケリア市場…ホテル前の”ジャウメ道り”を南西に歩くと”ランブランス道り”と交差する、この通りを北西に歩くと市場がある…2つの通りの交差点、有名なランブラン道り(バルセロナを代表するメインストリート、旧市街地に位置し、市の中心部から臨海地区まで続く長さ1.2kmの並木道)
ボケリア市場の様子…画像クリック
…バルセロナ一番の市場で人気がある、新鮮な「肉」・「生ハム」・すぐ食べられる「揚げ物」・山盛りの「フルーツ」等々、観光客にも人気がありお土産を買いに来ていた
20日11時 ホテルをチェックアウトしてバルセルナ空港へ向かう…途中イギリス生まれのドライバーはガイドのようにしゃべる「今年の夏は暑くて湿気が多く、雨が少なく川がよどみ臭い匂いがした。イギリスから来た娘はそそくさと早くイギリスへ帰っていった」(スペインも温暖化の影響が顕著)とか「見えるムンジュイックの丘に建つムンジュイック城はフランコ独裁時代まで政治犯の刑務所として使用され、多くの政治犯が銃殺刑に処され山の南西部にあるムンジュイック墓地に埋葬された」(独裁政治の恐ろしさ)等を話した
20日15時10分バルセルナ空港発 エミレーツ航空に乗りドバイへ
ドバイ空港上空、バルセロナ→ドバイへの飛行地図…時計の針を3時間進める
マルセイユからバルセロナの航海図、船内の居室から早朝の海
バルセロナ入港、オーシャニア・リヴェラ(Check Out)を19日8時下船する…クルーズ船・リヴィラ
港からタクシーで30分の”ホテル・ゴティコ(Hotel GOTICO)”に荷物を預けてバルセルナ市街を散策(サクラダ・ファミリア等)…地下鉄の地図(ホテル近くの駅Jaume I→Passeig de GraciaYajirusi(経由) →Sagrada Familia)(サクラダ・ファミリア)→Passeig de Gracia(経由)→Urquinaona(カサ・バトリョ)
サクラダ・ファミリア(Sagrada Familia) …バルセロナにあるカトリック教会のバシリカ…正面
カタロニア・モダニズム建築の最も良く知られた作品例であり、カタルーニャの建築家アントニ・ガウディの未完作品。バルセロナ市のシンボルである、建物は綿密に構成された象徴詩的なシンボロジーと共に、パラボリックな(放物線状の)構造のアーチ、鐘楼に据えられた自然主義と抽象主義の混在する彫刻など大胆な建築様式を誇る。生前のガウディが実現できた地下聖堂と生誕のファサード等は全体の4分の1未満であるが、2005年に「アントニ・ガウディの作品群」を構成する物件としてユネスコの世界文化遺産に登録。彫刻家の外尾悦郎が1978年から従事し、2013年からは主任彫刻家として全体を取り仕切っている…キリストの受難、背面
カサ・バトリョ(Casa Batlló)…バルセロナにあるアントニ・ガウディが手がけた建築物の1つ(2005年にユネスコの世界遺産に登録)
1877年に建設された建物に、1904~1906年にガウディがこの邸宅の改築を行った、ガウディは建物に5階と地下室を加え、玄関広間を広げ、階段や内壁を作り直し、各部屋に曲線的なデザインを持ち込みタイルやステンドグラスの装飾を施した
昼食は”パエリア”を店で食べ、ランブラン通りを散策してホテルへ帰る
18日10時 マルセイユ入港
プロバンスの典型的な風景…ギャリグは地中海盆地周辺の石灰岩質の土壌で葉の柔らかな低木の潅木や薮が茂り、海岸近くで気候が穏やかな場所にある…ゴッホがいつも見た景色だ!
プロヴァンスの気候は、夏は暑く乾燥した地中海性気候の影響で過ごし易い。冬は海岸に近いほど快適だが、北部と北東部の高山地方は過ごしにくい…画家ポール・セザンヌが頻繁にサント・ヴィクトワール山を描いたため、プロヴァンスで最も有名な山になった…「サント・ヴィクトワール山」
プロヴァンスで吹く風はミストラル(フランス南東部に吹く地方風)で、時には時速110kmにもなる…至る所に防風林が植えられていた
サン・レミの公共広場でバスを降り町を散策…プラタナスの木、教会"Église Catholique Collégiale Saint-Martin"
サン・レミは16世紀の医師・占星術師ノストラダムスの生地…生家とされる建物にはその旨を記したプレートがつけられている
生家と同じ通りに「ノストラダムスの泉(Fontaine Nostradamus)」がある。この泉はルイ16世の治世下に作られたものであるが、現在の胸像は1859年に彫刻家アンブロワーズ・リオタール(Ambroise Liotard)が作成したもの
サン・レミにはフィンセント・ファン・ゴッホが、この町のサン・ポール・ド・モゾル修道院の精神病院で療養していたことがあり(1889年 - 1890年)、その時 『星月夜』(The Starry Night)が描かれた…「星月夜」、ゴッホの言葉(つぶやき)
店舗の様子…プロバンスの知名度を生かし特色あるデザインで付加価値付ける工夫をしている…クリスマスが近い
18日18時 マルセイユ出航…港には多くのクズール船が停泊(手前のRIVIERAに乗船)
強風のため”リボルノ港(Livorno/Florence)”への入港が困難になり、チンクエテッレ近くの”ラ・スぺツィア港(La Spezia) 港”に17日8時頃入港、リグリア海に面した港、イタリア海軍の重要な軍港、造船所や軍需工場も数多くある…港に入港、港の様子(山頂から霧にかすむ港)
チンクエ テッレ(Cinque Terre)はイタリア北西部のリグーリア海岸にある5つの村から成る集落。入り組んだ断崖絶壁にピンク・黄色・ブルーなどの色鮮やかな家々が建ち並ぶ風景の美しさ、神秘的な雰囲気から、ポルト・ヴェーネレや小島群と共に世界遺産に登録された。段々畑のブドウとオリーブの栽培が盛んでワインの産地…地図
マナローラ(Manalola)…リオマッジョーレに属するフラツィオーネ(分離集落)でチンクエ・テッレと呼ばれる景勝地・観光地の集落の一つ…畑の飾り、集落の様子、野菜を積んだトラック
海岸まで続く集落
海岸からリグリア海を展望
16日8時:チビタヴェッキア港に入港…港の様子
ピラミッド…紀元前18年から12年の間に建造された。古代ローマの政務官、供儀の七人官、護民官、法務官を務めていたガイウス・ケスティウス・エプロの墓である。本人の遺言により造られた(碑文で判明)、当時ローマにも先進的な古代エジプト・ブームがあったようだ
バチカン…ローマ教皇(聖座)によって統治される国家でカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地「総本山」である。国籍は聖職に就いている間にかぎり与えられる国土面積は世界最小…サンピエトロ大聖堂やバチカンの壁が見える
ローマには沢山の歴史遺産がある…バスから写真を写す観光客は忙し
コロッセオ(円形闘技場)…ローマ帝政期の西暦80年ウェスパシアヌス帝とティトゥス帝が造った。市民を懐柔するための娯楽施設の目玉として円形闘技場を建設。使用開始の100日間に渡る奉献式のイベントでは模擬海戦や剣闘士試合で様々な猛獣5000頭が殺され、数百人の剣闘士が命を落とした…コロッセオの外観
ポポロ広場「市民」…巡礼者がローマへの入口で、古くから交通の要所。中央にオベリスクが建てられ、南に向かって3本の道路が放射状に伸びている。バロック期には広場に面してドームを載せた2つの教会堂(双子教会)が建設された…双子教会の間の道(コルソ通り)を南に30分歩くと”フォロ・ロマーノ(伊:Foro Romano)”に着く
フォロ・ロマーノ…古代ローマ時代の遺跡。フォロ・ロマーノは、東西約300m、南北約100mに渡って存在する古代ローマの中心部「フォルム・ロマヌム」の遺跡。古代ローマでは、多くの都市に政治・宗教の中心としてフォルムと呼ばれる広場が置かれていた。フォロ・ロマーノは首都に開設された最初のフォルムで最も重要な存在であった…遺跡
フォロ・ロマーノの整備は紀元前6世紀頃に始まる。村落の会合や会談の場として中立な原野としてフォロ・ロマーノの場所が選ばれたらしい。
フォロ・ロマーノでは定期的に民会(コミティア)が開催され、広場(コミティウム)は宗教的な儀式によって聖別されていた。
コミティウムは紀元前3世紀前半から紀元前1世紀前半までロストラ(演壇)を備えた直径約30mの露天の円形広場であった…遺跡
現在のフォロ・ロマーノの輪郭は、ガイウス・ユリウス・カエサルによる西側の大改装の結果である。西ローマ帝国が滅びた後、中世の時代になるとフォロ・ロマーノは完全に忘れ去られカンポ・ヴァチーノと呼ばれる放牧場となった…カエサルの像、遺跡の歴史や発掘を解説する看板
16日20時 チッタベキア/ローマ(イタリア)出港
フォロ(公共広場)…古代ローマの街には必ずあった多目的広場で、紀元前2~1世紀に主に商業活動に用いられた
ジュピター神殿…フォロの北側、二つのアーチの間にある町で最も重要な神殿(ジュピター、ユノ、ミネルヴァの3神を祀る)
アポロ神殿…紀元前4世紀前半ギリシャ植民地の影響を受けて独立して建築された、中庭に向いて出土されたブロンズのアポロ像のコピー
石膏の遺体:火山灰の空洞に石膏を流し込み人生の最後の姿が捕らえられた生々し石像
市場のフレスコ画
フォロの浴場…入浴は、脱衣室 → 微温浴室(テピダリウム)→高温浴室(カルダリウム)→冷水浴室(フリギダリウム)がある
微温浴室:入浴前の準備をする部屋…着替え、時間をかけてくつろぐ部屋
高温浴室:床暖房システムの一種であるハイポコースト( 柱を使って床面を地面から持ち上げ、壁の中にも空間を残しておき、炉からの熱気と煙を床下や壁に送り込み屋根付近の送管で排気する方式の古代ローマのセントラルヒーティングシステム)で熱された非常に高温多湿の部屋「サウナ」) …天井、壁から蒸気を噴出する穴
冷水室:水風呂…体を覚ます
悲劇詩人の家…床に番犬のモザイクがあり「猛犬に注意」の文字が書かれている
ナポリ出港
15日8時ナポリ入港
紀元79年の壊滅的なヴェスヴィオ山の噴火によって火山灰と火砕流によって、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった、世界で最も優れた歴史遺産
遺跡の南側から階段を上り、”剣闘士の宿舎”
大劇場…紀元前3~2世紀のギリシャ劇場を手本に設置され、5000人を収容した
ポンペイの”赤”…火山噴火以前は黄色い壁であったものがヴェスヴィオ火山の噴火と噴出ガスによって赤色に変色したものと考えられている
ポンペイのメインストリート:アッボンダンヴァ通り(東方向)、アッボンダンヴァ通り(西方向:ヴェスヴィオ山が見える)、車道と一段高い歩道がある、車道は排水の役割も兼ね、馬車の轍が残っている。通りに面し商店が軒を連ね、沢山の水飲み場がある
ファーストフード店…販売する食べ物やブドー酒を入れた瓶が並ぶ
パン屋…溶岩石で出来た粉引き臼、パンをこねる台、焼き釜炉が使われていた
水飲み場
クルーズ船は14日11時にメッシーナ港(シチリア)入港…8時に朝食を済まし、イースタンブールより1時間時計の針を遅らす
タオルミーナ…青く輝くイオニア海とエトナ山を一望する風光明媚な保養地…エトナ山、海を見下ろす
大聖堂と噴水…噴水は町のシンボル「女ケンタウルロス像」、大聖堂は13世紀創建、15~16と18世紀改修されバーリの聖ニコラに捧げられている
小劇場(オデオン)はウンベルト通りに面したサンタ・カテリーナ教会の裏にある2世紀頃に造られ、古代ローマ時代に音楽ホールや会議場として使われた。3つの時代の建物が重ね合わさっている、紀元前4世紀のギリシャ神殿の基壇の上に、紀元後1世紀の古代ローマ時代に小劇場(オデオン)が建てられ、その一部を覆う形で17世紀にサンタ・カテリーナ教会が建てられアレクサンドリアのサンタ・カテリーナに捧げられた
ウンベルト通り…カターニア門からメッシーナ門へ続くタオルミーナの古道
ギリシャ劇場近くまで来たが、カンソーロ(シチリアの菓子)を食べて引き返す…”カンソーロ”は甘くておいしい!