播磨灘の雄大な景観を望む(讃岐百景)
小豆島は基盤を構成する約8,000万年前(白亜紀後期)の花崗岩類の上に、1,300万年前~1,500万年前(新第三 紀中新世)に噴出した瀬戸内火山岩類が1,000万年以上にわたる侵食を受けて形づくられた。江戸時代からの花崗岩の産地で、大坂城築城の際に切り出された花崗岩の石材の残石と丁場が各所に残 っています(小豆島の石の文化)…大坂城石垣の小海残石群、現在も石材の切り出しが行われている石切り場 (人が削り取った小豆島のグランドキャニオン)
宝生院のシンパク(イブキまたはビャクシン)幹の根本の周囲は16.6m地上約1mのところで三方に裂開したように支柱を出す。応神天皇が小豆島(あずきじま)遊幸の時のお手植えとの伝説がある神木。樹齢1,500年以上と推定されている…森のように見える大木だ!
17日は”燃えるゴミ”を大量に廃棄、畑の草刈りも大雑把に完了…やっと一息
18日破れた網戸やガラス窓の修理完了、土庄町のDAIKI(ホームセンター)で電源ケーブル(20m)、電動チェンソーを購入する…土庄町には小豆島と前島の間にある”土渕海峡(どぶちかいきょう)”がある。ギネスブックに認定された世界一狭い海峡で最狭部分は9.93m(永代橋の部分)…写真は海口部分、土渕海峡に架かる永代橋(県道26号)と小豆島のオリーブ並木道路(国道436)とオリーブ大橋
20日は午後、高松の実家に3日ほど滞在し親類や知人に会ったり、母を見舞って来た妻を池田港迎えに行く…池田港のフェリー乗り場にフェリー着岸、車両・乗客の下船を開始
4月下旬、母の法要を故郷の小豆島で行う予定だったが熊本地震で阿蘇大橋が崩落するなど道路が混乱したため5月下旬に延期‥今日から車で小豆島に向かう
南阿蘇村から臼杵へは、国道325で高森町~国道265~県道214~県道41を通り、熊本と大分を結ぶ国道57に出ることができた‥竹田市に抜ける初めてのルート、写真は県道214の波野付近
朝地ICまで延長された中九州自動車道を通り犬飼に出て、国道10等を通り臼杵フェリー乗場に着く‥これまでより30分程時間短縮になるようだ
臼杵~八幡浜までオレンジフェリーで2時間15分の船旅‥フェリーを利用すると途中で体を休めリラックス
八幡浜から国道197~国道56を通り四国高速道路(松山道の石鎚山サービスエリア)で休憩、四国高速道路(松山道~高松道)を通り、高松西出口を出て妻の実家に着く‥3週間に及ぶ車中泊から解放され畳の上で寝る
熊本地震で熊本市と南阿蘇村を結ぶ”俵山バイパス(西原村-南阿蘇村)”の被害が深刻だ(熊本日日新聞)…復旧するまで数年かかるようだ
布田川断層は地下深部では斜めずれ、地表では横ずれ断層と正断層が併走する(スリップパーティショニング)のようだ(平成28年(2016年)熊本地震調査報告_布田川_遠田)
熊本地震の後、初めて車で南外輪山を越えるグリーンドーロを通り南阿蘇村から西原村を通り大津町に向かう…途中、西原村の布田地区は壊れた家屋が多く、激しい大地震の爪あとが残る
”ありがとう、がんばるぞ熊本西原村”の壁書が目に付いた…再起と更なる前進を期待する!
”熊本地震の被災地・南阿蘇村は広いのか?”、”村の家屋はほとんど全壊、半壊したのか?”などの質問が多く寄せられた
南阿蘇村は阿蘇カルデラの南部、阿蘇五岳と外輪山に挟まれた南郷谷に位置し、2005年2月13日阿蘇郡長陽村・白水村・久木野村が合併してできた村。面積は137.3平方km、27年度の人口11,619人(4,744世帯)、自然の中にあるというイメージを大切にするため”村”にしたと言う。風光明媚な田園風景が広がり都会からの移住者も多い
熊本地震で、熊本市へ通じる阿蘇大橋が崩落し、俵山トンネルが通行出来なくなった。南外輪山を越えるグリーン・ロード(広域農道)が唯一熊本市への道である…地震のため熊本市の”Mクリニック”の替わりに南阿蘇村(旧白水村)にある”T医院”へ行き生活習慣病関連の薬(1ケ月分)を貰う
T医院付近は、地震の被害が大きかった旧長陽村(立野地区)から約10km程離れていたため古い街並みだが損傷が少ないようだ…いつもは観光客で賑わう日本名水百選”白川水源”へ通じる石の鳥居や近くの古い民家は健在、”西南戦争記念館”の標識が立つ街並みには人通りが少なかった