阿蘇山を眺めて暮らす自由人!

四季の移ろいを肌で感じ、阿蘇で暮らす自由人が見たもの・聞いたこと・感じたこと

初夏の庭

2018年04月30日 | 阿蘇のくらし

初夏の庭に咲く草花


 ”蓮華ツツジ”は花盛り



 池の傍の紺色の”アヤメ”の花



 ”ジャーマン・アイリス”



 ”コデマリ”の白い花



 ”ブルーベリー”の花に多くのミツバチがミツを集めに来ていた


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初夏~新緑の候

2018年04月29日 | 阿蘇のくらし

 新緑の候、若葉が眩しい季節到来!


 ”桂”はが我が家のシンボル・ツリー



 ”黄モクレン”



 ”寒ツバキ”と”ツバキ”は思い切って剪定した





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阿蘇神社~横参道から神殿

2018年04月20日 | 阿蘇ガイド

 2016年末に設置された楼門解体用の足場やシートが2018年4月始め頃から撤去され、参道から神殿が見えるようになった…参道から神殿を望む



 新緑の候、清々しい気候、横参道の仮参拝路には参拝者が多い



 境内から見る3つの神殿



 楼門の敷地には建築用部材が置かれている



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ウズベキスタンの旅~感想

2018年04月14日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 ウズベキスタンの旅の感想~現地で感じ取った景色や雰囲気など


 1. イスラム教世界の”世界遺産”を沢山見学することができた。頑丈な城壁に囲まれた城内に、青空に高く聳え立つ搭、モスクや神学校の門や壁は青く輝くタイル・模様化したアラビヤ文字や抽象的な文様で装飾され美しく輝いていた


 2. ”親日の国”だ、サマルカンドでは「こんにちは!」と日本語で現地の人々から声を掛けられ、自分達と一緒に写真を撮りたいと言われ沢山写真を撮った。初めての経験だ!


 3. 2005年反政府暴動鎮圧事件で市民の死傷者多く出たとの情報で「人権侵害」との避難が西欧諸国から挙がったが、”カリモフ大統領”はイスラム過激派による武装蜂起として欧米側の報道を批判し孤立主義になる。2016年からミルジヨーエフ大統領になり人権状態の改善に取り組んでいる、現在、国の治安は良く国民の生活は安定しているようだ


 4. ”シルクロードの十字路”に位置するウズベキスタン、砂漠の中に点在する都市は緑に溢れ、綿花・米・果物・野菜が採れ、牛・馬が放牧されて肉・バター・チーズなど食料品は自給、原油・天然ガス・金など資源も豊富で豊かな国である


 5. 世界遺産が多く観光に力をいれている、日本人はビザなしで入国出来るようになった日本人観光客も多くなるだろう


 レーニン像に代わって、ウズベキスタンの国土の地球儀と母子像(独立広場)



 ウズベキスタンの国章にもある伝説上の鳥フモ(幸福と自由への愛)



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タシケント-2~市内観光

2018年04月13日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 帰国前にタシケントのバザールで買い物…蜂蜜、肉、果物、トマトなど豊富な食料品が国内で生産されている






 大きなスーパーマケットは現地通貨のみ



 タシケント発22時20分→ソウル経由→福岡着(14日13時50分)で帰国



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ビヴァ→ウルゲンチ→タシケント~市内観光

2018年04月13日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 早朝ヒヴァのホテルを出発、ウルゲンチ発午前6時5分の飛行機に乗りタシケントに午前7時35分に着く…ウルゲンチ国際空港



 タシケントは2,200年の歴史があり中央アジア最大の都市、ウズベキスタンの首都(人口220万人)である。13世紀モンゴル襲来で破壊されたが、15世紀後半ティムール帝国では活況を呈し寺院や神学校が建てられ学術・文化・宗教が隆盛を極めた。1917年トルキスタン共和国首都、1929年ウズベク・ソビエト社会主義共和国首都、1991年独立してウズベキスタンの首都となる。約65%がウズベク人、13.5%がロシア人、その他カザフ、キルギス、トルクメ等多くの民族…タシケント市街は緑が多い



”カファリ・シャーシ廟”カファリ・シャーシは10世紀タシケントに住んだ神学者、イスラム教の熱心な布教者として敬愛された。建築家グリャム・フセインが建立…建物に16世紀のマジョリカ焼き・タイルが残る



 ”バラク・ハーン神学校”はウズベク部族のシャイバニ朝のバラフ・ハーンが建立。20世紀半ばから中央アジアのイスラム教本庁が置かれた。1955-1963年優れた職人ウスタ・シリンにより修復、2006-2007年再修復…16世紀のアラビヤ語とモザイク模様の文様が残る



 ”ナポイ・オペラ・バレエ劇場”は第二次世界大戦でソ連の捕虜になった2万5千人の日本人がウズベキスタンで強制労働、約500人(79人死亡)がナポイ劇場の建築に係わる。タケシントは1966年4月26日直下型大地震、町の大半は瓦礫の山と化したがナポイ劇場だけビクともせず現状を保っている(親日感情が高まった)…バレエ劇場と日本人を称えるプレート




 ウズベキスタン歴史博物館のクシャン朝(1-2世紀)の”ガンダーラ仏像「三尊仏像」”、”ブッダ像”テルメズのファヤズ・テパ遺跡の仏教寺院から出土…仏教はテルムズから中国さらに朝鮮半島を経て日本に渡来した




 シルクロードの地図(アフラシャブ考古博物館)…シルクロードはシルクなどの通商の道、文化や宗教(ゾロアスター教、キリスト教、仏教、イスラム教)もこの道を通って東西各地に伝えられた



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ヒヴァ-2~インチャン・カラ(内城)散策

2018年04月12日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 ”イスラム・ホジャ・ミナレット”はイスラム・ホジャがヒヴァ最大のミナレットと神学校を併設した(基底部直径9.6m、高さ44.5m)…頂上のプラットホームから北方向、東方向の眺め





 ホテルの朝食



 ラクダ



 子供達と民族意匠の少女




 イスラム模様の青いタイル




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ヒヴァ~遺跡イチャンカラ

2018年04月12日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 ”ヒヴァ”は1世紀、ホラズム語を話すアーリア人が住んでいた。8世紀アラブが侵入しイスラム教が普及、9-13世紀ホレズムにホレズム王国形成、13世紀モンゴル人による破壊、14-15世紀チムール王国の一部、16世紀チンギス系のハン直轄、アムダリア川の流れが変わりヒヴァはオアシスのセンター及びハン国の首都になる。ホラズムは「太陽の国」を意味し、砂漠型気候(年間300日雲一つなく、雨量16m/年)夏には気温が50度近くなる日がある


 イチャン・カラ(内城)は無傷で保存維持されて来た(城壁の高さ7~8m、壁厚5~6m、東西約450m、南北約650m)…写真の上側が東門、右側が南門。東門の外側には約300年間にわたり奴隷市場が在り売買行われ、奴隷がヒヴァの躍進を陰で支えた



 西門に低い”カルタ・ミナル”(高さ26m)が未完成で青を基調に彩釉タイルで覆われ輝いている、1855年アミン・ハーンがトルクメン人との戦いで死去して中断。隣接して建つ”ムハンマド・アミン・ハーン神学校”は中央アジア最大の神学校、周囲を2階建ての125部屋が取り囲み、最盛期には260人の神学生がいた





 ”キョフナ・アルク”「古い宮殿」、17世紀にイチャン・カラの内側の城塞として建てられた…”クリヌッシュ・ハナ”「王座の間」は17世紀建立、イラン軍破壊、19世紀再建…公式謁見室、天井、ハンの王座





 アラグリ・ハーンが造幣所の中に建てた”サマー・モスク”「夏の宮殿」は青を基調に緑、白や細かい模様のタイルが美しい



 ”ジュマ・モスク”は中央アジアで最も古いモスクでヒヴァの大聖堂モスク。18世紀建立。212本の柱があり、21本の柱は10-12世紀もので柱の彫刻は全て異なる…天窓から差し込む光で薄暗い



 ”パフラヴァン・マフド廟”ヒヴァの庇護者バフラヴァン・マフムド(1247-1326)の霊廟。武道の達人で詩人、哲学者でヒヴァ、イランやインドでも敬愛された聖人…天井、正面にムハンマド・ラムヒ・ハーン、左側の部屋にパラヴァン・マフトが眠る。巡礼者は格子の間から墓石の上に紙幣を投げ入れ願をかける






 ”タシュ・ハウリ(石の庭)宮殿”は19世紀アラクリ・ハーンが政治、公務、貿易の目的で古い宮殿から新しい宮殿に移転した。石造りの門、眼鏡がついた壁、塔など城塞の建築構造…儀式を行うアイヴァン(テラス)とハンの部屋、ハレム(4人の奥さんの部屋)




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ブハラ→ヒヴァ~車窓

2018年04月11日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 ”ブハラ”からホラズム王国の都”ヒヴァ”へ一日バスの旅


 ブハラの市街地の道路工事、郊外の稲作農地や畑の様子、アムダリヤ川(パミール高原が源流)から引き込んだ水路






 キジル・ムク(赤い砂漠)を走り抜ける…韓国人が造った道路




 ヒヴァの郊外の水田、国が建てた若者向け住宅、住民が集まり公園を整備中…ホラズム州は海抜200m、2m掘ると水がでるが塩水。ヨーロッパ系の人の顔





 ホテル・マリカ ホレズムの夕食






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ブハラ-2~市内観光

2018年04月10日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 ”ナディール・ディヴァンベギ神学校”は1622年ナディール・ディヴァンベギによって建てられた。上部左右に2羽の鳳凰が足で鹿をつかみ、人面相の太陽に向かって飛ぶ姿は偶像崇拝を禁じるイスラム教に反する絵…ロバにまたがる神学者フッジャ・ナスレッテンの像(ユーモアあふれた授業は市民の人気の的)




 ”マゴキ・アッタリ・モスク”マゴキは「穴の中」、1936年ロシアの考古学者シシュキンによって砂な中から掘り出された。アラブ人が10世紀に創建、3層の壁からなり①最も古いレンガに彫刻装飾された層、②その上に古いマジョリカ焼きの層、③比較的新しい層の壁がある…破壊され、修復されたことが解る



”カラーン・ミナレット”カラーンは「大きい」、ミナレットは「光搭」、指導者の権威の象徴として建てられた。高さ46.5mブハラで最も高い建物…隊商達の目印、塔の上から見張りの役目



 ”タキ・ザルガン”は宝石市場、タキは大きな交差点の上に丸屋根で覆ったバザール



 帽子のみやげ物店…男の店員が日本語で説明してくれた「羊の毛皮の帽子」を購入



 観光客がモスク前のハウズ(池)で記念写真


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ブハラ~市内観光

2018年04月10日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 聖なるブハラはイスラム教の文明の最も尊敬される都市の一つ(偉大な神学者が説教する所)。10-11世紀サマニ―王国の首都。1220年モンゴル軍による破壊、14世紀廃墟の上に都市再建、16世紀にブハラ王国の首都、ブハラ最後のアミールは1920年に廃位しブハラ共和国が形成される。1925年ブハラの古代領土はウズベク・ソビエト社会主義共和国領土に含まれる。1991年ウズベキスタン共和国の一部となる


 ”アルク城”アルクは「城」、約2,500年前ここが古代ブハラの発祥地、アルク城は7世紀に創建されたと言われ、その後修復や改築が繰り返され、現在の城は18世紀再建された…アルク城、城砦




 ”バラハウズ・モスク”は「池の前」を意味し、1718年ブラハ・ハーン専用のモスクとして建てられた。20本のクルミの木が天井を支える…天井は絢爛豪華、壁の装飾も青と白を基調とし清楚で美しい




 ”イスマイル・サマニ廟”は892~943年に建てられ、中央アジア最古のイスラム初期の霊廟。壁の厚さ1.8m、日干し煉瓦を様々な組み方で積み重ね、半円形ドーム組み方等…建築家や考古学者の注目を集めている珍しい廟



 ”チャル・ミナル”はチャルは「4本」、ミナルは「搭」1807年大富豪カリス・ニヤズクルによって神学校の門番小屋として建てられた…4本の青いドームが青空にきらめくく



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サマルカンド→シャフリサブス→ブハラ~車窓から

2018年04月09日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 サマルカンド市内は車が多い…5人に1台(1家に1台)の車、黄色はタクシー、バスはISUZU製(ウズベキスタンの工場で部品を組み立て販売)、乗用車はシボレー製が多く、国産車も走っている(輸入車は関税のため価格2倍)



 ブドウやリンゴ畑




 それぞれの農家は牛を飼い、多くの牛を放牧している所もある




 車のプロパン・ガス販売所が多い…近くで天然ガスが出るため砂漠の中に精製工場もある(天然ガスを送る黄色いパイプが地上に設置されている)




 トイレ休憩で絨毯の店に寄る…店の家族



 土地は国有だが、若者は国が建てた家(約45,000ドル)を購入し、その1/3を長期間かけて返済すればよい。多くの人々が持ち家に住んでいる…ブハラ近く若者のための家


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シャフリサブス

2018年04月09日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 ティムールの故郷”シャフリリサブス”の遺跡、ティムールの夏の宮殿アク・サライ、アクは「壮大」、サライは「宮殿」1380年アミール・ティムールが着工し、20年の歳月を要す…入口のアーチ部分(38m)[建築当時50m]、ティムール像





 ”ドル・ティラワット建築群”…1435年ティムールの孫ウルグベクが建てた「コク・グンバス・モスク」(大きなドーム)、2つのドームを持つ「シャムスッデイン・クラール廟」



 「グンバスィ・サィーダン廟」は1437年ウルグベクが子孫のために建てた…4つの墓石の一番奥は預言者ムハンマドの血を引くテルメイドの墓石(信者が手で触れて窪み出来た)



 「シャムス・アッド・ディヌ・クリャラ廟」はチムールの精神的指導者シャムアッド・ディヌ・クシャラ・アル・ケシ首長とお墓の下にテムールの父親が埋葬されている



 ドル・ティラワットは「権力の座」を意味し「ジャハンギール廟」建物群の中心…1963年ティムール自身が用意した墓室と棺が発掘された(ティムールは生誕の地に埋葬されることを望んでいた)





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サマルカンド-4~グリ・アミール廟、バザール

2018年04月08日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 ”グリ・アミール廟”はグリは「墓」、アミールは「王」で中央アジアの帝国を築いたアミール・ティムール。1405年に中国遠征途中のオトラルで急死、ここに埋葬された…青タイル張りの正門、荘厳なドームが際立っている



 日曜日、ウズベキスタンの地方からサマルカンド見学の若者や観光客が多い…一緒に写真を撮ろうと沢山の人々に呼びかけられた、親日の国だ





 ”バザール”ではドライ・フルーツ、野菜や果物、ナンなど売られ多くの人で賑わっていた…1.3kg/1個のナンやドライフルーツを購入




尊敬されていた大統領のお墓にはお参りする国民の列が続く…日本の政治家も見習って欲しい


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サマルカンド-3~ビビ・ハニモスク、レギスタン広場

2018年04月08日 | 早春のウズベキスタン(タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ)

 ”ビビハニム・モスク”は中央アジア最大のモスク。イラン、トルコ、アフガニスタン、コーカサス、インドを征服し最大の帝国を築いた”ティムール”が愛妃ビビニハムのために建築技術の粋を集めて建築。ティムールが1405年中国遠征中に急死して工事は中断、完成間近にタイルの落下が始まり崩壊、1897年の大地震でも大きなダメージを受けた。ソ連政府が巨費を投じて修復



 ”レギスタン広場”はシルクロードが交差するサマルカンドの中心地、国家事業の執行や罪人の公開処刑の場として使用



 広場の右側が「シルド神学校」(1636)イスラム教で禁じられている動物や人間の絵が描かれた、建築家は自殺・領主バハドゥルは「ティラカリ神学校」を寄進



 左側は「ウルグベク神学校」天文学者ウルグベクが建て、自身も教えた。100名の学生が寄宿生活しながらイスラム神学、天文学、数学、哲学を学ぶ



 中央に建つ「ティラカリ神学校」はティラカリは金で覆われたと言う意味、礼拝所の天井、内部は黄金色に輝いている





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