「純情きらり度チェック(21週までの総括)」を読んでいたら、「おや?」と思う場面があった。達彦のところなんだけど、「君は俺の気持ちなんか全然わかっとらん」と書いている。達彦は絶対に、そう絶対に「~なんか」という言い方はしなかった(桜子も「達彦さん“には”わからんよ」はよく口にしていたが、「~なんか」は使わなかったと思う)。気になったので、第8週の名場面を再生してみた。
さらに脇道に逸れるが、「純情きらり」は1~15週までHDDに、以後の週はDVDに録画している。手歩丼(テポドン)騒ぎで放送時間が変更になったときは、変更時刻を何度も確めて予約録画したにもかかわらず、(案の定)録画に失敗した。なぜか翌月8月5日の土曜日に予約していたのである。「機械にめっぽう弱いからな・・・」そう言って自分を慰めたが、いつもの「不注意」「うっかり」「早とちり」「思い込み」が出ただけじゃん! 道を歩けばデコボコにけつまづく段差を踏み外すはしょっちゅうだし、(斉藤先生のように)電信柱にぶつかることも・・・
「突っ走ってみたら? 駄目なのかなあ・・・」
このときの桜子さんは完全に小悪魔モードで、「突っ走ってみれば?」と言わんばかりに達彦さんを見つめる表情が素晴らしかった。そして・・・
「君は俺の気持ちをわかってない。全然わかっとらん、全然気づいとらん、俺の気持ちを。俺が君を・・・」
となったわけですね。「なんか」を削除&訂正しました。
この頃は、朝昼晩そして週末まとめて「純きら」を見ていました。人気ブログのコメント蘭も、今とは全然違う意味で大いに盛りあがっていました。「この恋」の行方を、殆どの視聴者が息を止めて見守っていたのです。「純情きらり」は恋愛ドラマではないのですが、「二人の純愛」イコール「純情きらり」になってしまったのですね。達彦が出征すると、視聴者は一日千秋の思いで「達彦の帰還」を待ちました。「戦争が終わって、どうか二人が結ばれますように・・・」
第20週の途中まで、視聴者の祈りにも似た気持ちが裏切られることはありませんでした。なのに、かねの死を契機に「達彦戦死」が既成事実になってしまい、それだけでも視聴者は「梯子を外された」思いになっていたところに、「冬吾への想い」とやらが唐突に提示され、第21週の物語と次週予告や「ナレーション」でことさら煽ったものだから、圧倒的な非難とそれに対する反論で、事態は最悪の方向へ向かってしまいました。好きなドラマで険悪になるなんて・・・涙です。
タイミングよくNHKは、冬吾を演じた西島秀俊さんのインタビューを公式HP上にUPしました。早速読んでみましたが、多くの視聴者が戸惑いを感じたドラマの展開を説明する内容になっており、これ以上の論争は全く無意味だと悟りました。ポイントは幾つかあります。まず、冬吾と桜子の関係が決して「恋ではない」こと。次に二人は「簡単に説明できない感情」で結ばれていること。最後に「純情きらり」は人間ドラマであること。視聴者を悩ましていた問題は杞憂に過ぎないことを知らせると同時に「達彦」フィーバーにも釘を刺したわけですが、いささか興ざめしたといったら、叱られるでしょうか? 西島さんも災難でしたね。脚本家がどうしても描きたかったという桜子と冬吾の「説明できない感情」を、このような形で「説明」する「野暮」まで演じることになって・・・
思い返せば、桜子と冬吾が「秘密」を持ったのは何も今回が初めてでなく、二人は初めて会ったときから波長が合ったというか、相手を知っていくにつれてお互い一目おくようになり、困ったときは助け合ってきた仲でした。二人はずっといわば「共犯者」だったわけで、敏感な視聴者は「冬吾には笛子がいて、桜子には達彦がいるのになぜ?」と不信に思っていたのです。ですがこのことは見方を変えると、「それだけ惹かれ合っていたのにお互い恋人同士にはならなかったはなぜ?」という疑問にもなります。俗っぽくいえば、友達以上恋人未満。自分自身に思い当たること、ありませんか?
ここで結論です。それが何であろうと、「説明できない感情」であり、「普通では理解できない感情」だと、はっきり冬吾さんが言明する野暮を冒してくれているのだから、トシ子も「野暮」はもう言いません。
さて、本日の感想です(23時過ぎ、録画を見ました)。
先入観の色眼鏡を外したせいか、今日も穏やかに15分が過ぎていきました。
今日の笛子さんは最高でした。
「頭に浮かぶもの、貴方が一番描きたいものから描き始めたらいいんじゃない?」
新しいカンバスを作り、大事な絵が空襲で焼けないよう「疎開」させる。
そして、「桜ちゃん、あんたは冬吾のそばにおってちょうだい」
桜子が冬吾のインスピレーションになるなら、私情を挟まずに利用しようという考え方は、画家の妻として100%正しい。いちいちモデルに嫉妬していたら始まりません。(実際の話、モデルが配偶者である画家と、そうでない画家と半々くらいかしら。冬吾も結婚前に笛子をモデルに描いてましたが・・・)
そして冬吾が描いた「ピアノに向かう桜子の後姿」、素晴らしいじゃないですか!昨日、紙芝居につけた桜子の音楽も素敵だったけれど、マロニエ荘でも、そうやって桜子のピアノを聴いていたのですね・・・
今日の桜子と笛子、とても綺麗でした。子供たちと接しているときの桜子の笑顔、いいですよ~。なのに、冷や水をかけるナレーションは一体何なの!
今回の空襲は「120回」でも触れましたが、主に山の手地区が狙われた5月25日の大空襲(B29約470機が来襲)のことですね。八州治がようやく口にしましたが、この頃になると「本土決戦」が声高に叫ばれていました。「竹槍でどうやって戦えっていうの?」まともな人はそう思いますが、アホバカ大本営は、本気で「竹槍」考えていました。つまり「一億総玉砕」ということです。それから、「疎開児童」と「地元の子供」の軋轢は、話を伺うとかなり深刻だったようですね。
さらに脇道に逸れるが、「純情きらり」は1~15週までHDDに、以後の週はDVDに録画している。手歩丼(テポドン)騒ぎで放送時間が変更になったときは、変更時刻を何度も確めて予約録画したにもかかわらず、(案の定)録画に失敗した。なぜか翌月8月5日の土曜日に予約していたのである。「機械にめっぽう弱いからな・・・」そう言って自分を慰めたが、いつもの「不注意」「うっかり」「早とちり」「思い込み」が出ただけじゃん! 道を歩けばデコボコにけつまづく段差を踏み外すはしょっちゅうだし、(斉藤先生のように)電信柱にぶつかることも・・・
「突っ走ってみたら? 駄目なのかなあ・・・」
このときの桜子さんは完全に小悪魔モードで、「突っ走ってみれば?」と言わんばかりに達彦さんを見つめる表情が素晴らしかった。そして・・・
「君は俺の気持ちをわかってない。全然わかっとらん、全然気づいとらん、俺の気持ちを。俺が君を・・・」
となったわけですね。「なんか」を削除&訂正しました。
この頃は、朝昼晩そして週末まとめて「純きら」を見ていました。人気ブログのコメント蘭も、今とは全然違う意味で大いに盛りあがっていました。「この恋」の行方を、殆どの視聴者が息を止めて見守っていたのです。「純情きらり」は恋愛ドラマではないのですが、「二人の純愛」イコール「純情きらり」になってしまったのですね。達彦が出征すると、視聴者は一日千秋の思いで「達彦の帰還」を待ちました。「戦争が終わって、どうか二人が結ばれますように・・・」
第20週の途中まで、視聴者の祈りにも似た気持ちが裏切られることはありませんでした。なのに、かねの死を契機に「達彦戦死」が既成事実になってしまい、それだけでも視聴者は「梯子を外された」思いになっていたところに、「冬吾への想い」とやらが唐突に提示され、第21週の物語と次週予告や「ナレーション」でことさら煽ったものだから、圧倒的な非難とそれに対する反論で、事態は最悪の方向へ向かってしまいました。好きなドラマで険悪になるなんて・・・涙です。
タイミングよくNHKは、冬吾を演じた西島秀俊さんのインタビューを公式HP上にUPしました。早速読んでみましたが、多くの視聴者が戸惑いを感じたドラマの展開を説明する内容になっており、これ以上の論争は全く無意味だと悟りました。ポイントは幾つかあります。まず、冬吾と桜子の関係が決して「恋ではない」こと。次に二人は「簡単に説明できない感情」で結ばれていること。最後に「純情きらり」は人間ドラマであること。視聴者を悩ましていた問題は杞憂に過ぎないことを知らせると同時に「達彦」フィーバーにも釘を刺したわけですが、いささか興ざめしたといったら、叱られるでしょうか? 西島さんも災難でしたね。脚本家がどうしても描きたかったという桜子と冬吾の「説明できない感情」を、このような形で「説明」する「野暮」まで演じることになって・・・
思い返せば、桜子と冬吾が「秘密」を持ったのは何も今回が初めてでなく、二人は初めて会ったときから波長が合ったというか、相手を知っていくにつれてお互い一目おくようになり、困ったときは助け合ってきた仲でした。二人はずっといわば「共犯者」だったわけで、敏感な視聴者は「冬吾には笛子がいて、桜子には達彦がいるのになぜ?」と不信に思っていたのです。ですがこのことは見方を変えると、「それだけ惹かれ合っていたのにお互い恋人同士にはならなかったはなぜ?」という疑問にもなります。俗っぽくいえば、友達以上恋人未満。自分自身に思い当たること、ありませんか?
ここで結論です。それが何であろうと、「説明できない感情」であり、「普通では理解できない感情」だと、はっきり冬吾さんが言明する野暮を冒してくれているのだから、トシ子も「野暮」はもう言いません。
さて、本日の感想です(23時過ぎ、録画を見ました)。
先入観の色眼鏡を外したせいか、今日も穏やかに15分が過ぎていきました。
今日の笛子さんは最高でした。
「頭に浮かぶもの、貴方が一番描きたいものから描き始めたらいいんじゃない?」
新しいカンバスを作り、大事な絵が空襲で焼けないよう「疎開」させる。
そして、「桜ちゃん、あんたは冬吾のそばにおってちょうだい」
桜子が冬吾のインスピレーションになるなら、私情を挟まずに利用しようという考え方は、画家の妻として100%正しい。いちいちモデルに嫉妬していたら始まりません。(実際の話、モデルが配偶者である画家と、そうでない画家と半々くらいかしら。冬吾も結婚前に笛子をモデルに描いてましたが・・・)
そして冬吾が描いた「ピアノに向かう桜子の後姿」、素晴らしいじゃないですか!昨日、紙芝居につけた桜子の音楽も素敵だったけれど、マロニエ荘でも、そうやって桜子のピアノを聴いていたのですね・・・
今日の桜子と笛子、とても綺麗でした。子供たちと接しているときの桜子の笑顔、いいですよ~。なのに、冷や水をかけるナレーションは一体何なの!
今回の空襲は「120回」でも触れましたが、主に山の手地区が狙われた5月25日の大空襲(B29約470機が来襲)のことですね。八州治がようやく口にしましたが、この頃になると「本土決戦」が声高に叫ばれていました。「竹槍でどうやって戦えっていうの?」まともな人はそう思いますが、アホバカ大本営は、本気で「竹槍」考えていました。つまり「一億総玉砕」ということです。それから、「疎開児童」と「地元の子供」の軋轢は、話を伺うとかなり深刻だったようですね。