たーさんの裏街道を行く!!

世界中の街角から数々の失敗談,ちょっとエッチな話,面白情報をお届けします。(ノンフィクション)

たーさんの裏街道を行く 中国編 No.293

2012-01-25 | 中国編


今日は八咏楼界隈を経由して江北(川の北側)を散策してみよう。

もうそろそろ夕方近くなるというのに、陽は高いし、とにかく暑い。
タクシーの運ちゃん曰く、
「ここいらが八咏街だあよ。楼は中に入ったところにあるさ。」
てなことで、古式ゆかしい建物が並ぶ街並みを歩いていると、何氏の家というのがあった。
中に入れるらしく、薄暗く涼しい家の中を徘徊していると、ちょうど裏手の中庭に出た。
典型的な昔の建物で、内部の廊下は暗く、狭く、地面には細かくしたタイルのようなものが縦に敷き詰められている。

「なにか?」
展示用のガラスケースや資料などが置いてあるだけだったので、
てっきり無人かと思っていたら、人が住んでたのね。
「いや、うろうろしてたらここに出ちゃったんだけど。八咏楼を見に行きたいんだ。」
「ああ、八咏楼ならここを右に出て一つ目の角をもう一度右に曲がってまっすぐいくと右側にありますよ。」
「ありがとう。」
「どちらから?」
「日本だけど・・」
「お一人ですか?」
「そう。」
「あら、まあ。」

最後のあら、まあ。の意味はあまり詮索せずに謝意を表して表に出る。
ひんやりと涼しい中とは大違いの暑さ。

八咏街の家はどれも古く、入口は相当足をもちあげてまたがないと入れない造りになっている。
直角に折れ曲る通路や、こんな入口を見ると、中国の幽霊キョンシー除けかと思ってしまう。
途中、大仰な櫓門のまわりには露天売りのおじちゃん、おばちゃんが雑貨や野菜、果物などを
所せましと台に並べて売っていた。
露天のおばちゃん達につかまり、スイカなんぞをごちそうになりつつ、お目当ての八咏楼に到着。
入場料は10元とあるが、ここまで来て入らないわけにもいかず、しぶしぶ払う。
入場料の徴収をしている人は、どうやらここに住み込みになっているようで、戸口の前の家には
鶏が放し飼いになっているし、奥からはなにやらおいしそうな料理のにおいもする。

「八咏楼」建物は省級文物保護単位になっている。

楼から見下ろす景色はなかなかのもの。
建った当時のことを考えると、相当な高さと感じたであろう。
今となっては、無粋な建築物がたくさんあるし、目の前も公園になってしまっているものの
建物が少なかった当時の絶景が偲ばれ、良い気持ちだ。
建物のぐるり、土台のほうはこれは建物よりもよほど古い。往時の雰囲気を色濃く残している。
聞けば楼がたったのはこの土台ができた相当あとのことらしい。

ここで歴史に残る詩を読んだのは、何度もお邪魔している山東省出身の李清照
(りせいしょう、1084年 - 1153年)北宋末期・南宋初期の詩人。
女性ながら、南宋十傑に指折られる大家。
男では李後主、女では李清照、と対照され、李白を加え詞家の三李と認められているとある。

千古风流八咏楼,江山留与后人愁。
水通南国三千里,气压江城十四州。
「千古の風流八詠楼、江山を後人に留して憂えさせる。水路が南国に通じ3千里、江城十四州を圧す。」

十四州というのがどこを指しているのかわからなかったが、当地で平江府、镇江府,杭、越、湖、婺、明、常、温、台、处、衢、严、秀州の
二府十二州の総称だということが判明。
実際にこの詞が描かれたのが1135年頃というから、日本ではまだ平安時代、崇徳天皇の頃になるんでしょうかねえ?

いけない、いけない。
あんまりボーッとしている時間はない。
次は法隆寺へ行かなければ。

さて行ってみると、
寺自体はとっくに壊れていて、経幢が残っているだけだった。
法隆寺経幢(は経文を刻みこんだ石柱の意味)、金銭寺の敷地内にある。

8辺からなる、高さ6.30メートルの石柱。
2006年5月25日に全国重要文化保護財に指定されている。
へーえ、こんなのがねえ・・・。

名前が法隆寺と同じなので、何かのつながりはないものか・・・、探って見ると・・・、
この石柱が出来上がったのは、857年。一方奈良県の法隆寺は607年の建立。
中国の石柱のほうが後にできあがっているのだが、石柱が出来た時代は遣唐使の往来華やかな頃。
奈良の法隆寺の名前がこの塔にもつけられたのかも・・・

それにもともとの名前金銭寺と言う名前だが、どうやらこちらは金光明経から来ているのでは?
「金光明経」は、「法華経」「仁王般若経」とともに、護国三部経として信仰されてきたはずだし、
西域諸国で四天王崇拝、中国で金光明懺法が流行し、日本では国分寺や四天王寺が建立され、
などしたのもたしかこのお経の教えに基づくもの云々、だったと思う・・・。
それとも、もっと最近の太平天国の頃の秘密結社金銭会から来てるのか、あるいは金銭会が
この寺の名前からとったのか・・・
うーむ、わからない。

唐代は日本と中国が本当の意味で一衣帯水だった時代。
ここ金華にも日本人が来ていた、ということにしておこう。

本日のたーさんの日程はこれにて終了。

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