青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

学生時代のアルバイト ~お金儲けはつらいよ

2024-07-27 | 昭和・懐かしい北摂の風景

前回は昭和45年(1970年)のアサヒビール吹田工場の姿を掲載しましたが、今日はそれから少し時代が流れた昭和53年(1978年)、現在の吹田駅ビル南西側の風景です。少しと書きましたが、子供時代から学生時代の1年はとても長い。中年以降の1年とは長さが全く違いました。

アサヒビールの看板の線路向かいに、まだ「Pachinko」の看板が見えています。この頃、国鉄吹田駅南側の再開発工事が始まり、昭和20年6月26日の空襲の1トン爆弾の不発弾が発見もされました。僕が学生の頃には、まだまだあちこちで不発弾が見つかることが多く、電車や交通を止めての撤去作業が行われていました。最近はほとんどそういう話を聞かくなくなり、戦後も遠くなったと実感します。

このアサヒビール工場が思い出深いのは、この工場でアルバイトをしたことがあるからです。まだビールが注入される前の空き缶をアルコールで拭くだけの仕事です。これをひたすらロボットのように何時間もする。時給は500円でした。

当時はアルバイトと言えば、デビューは高校生で郵便局の年賀状配達というパターンが多かったと思います。その後こういう単純作業のバイトに行く者、喫茶店や店員などのアルバイトに行く者に多くは別れました。夏は涼しく冬は暖かい、そして異性との出会いがあるようなバイトが人気だったことは言うまでもありません。時給は夜の水商売以外はほぼ500円。

僕は自分の時間を1時間500円で売るのが嫌になり、1日働いても4,000円程度のアルバイトを卒業、当時1日1万円を現金でくれる現場仕事のアルバイトに精を出しました。身体も鍛えられるし、時間の経つのも早い。色気は全くありませんが、お金を稼ぐには最適のアルバイトでした。

それと同時に、週2回で1か月5万円もらえる大学受験の高校生の家庭教師も。これは合格請負という責任を感じましたが、夕食まで出して頂ける本当に好条件のバイトでした。これを2件で10万円です。

夏休みなどには毎日昼は現場に行き、夜は家庭教師。20代の会社員の給料を遥かに凌駕していました。だから、アルバイトでの1番辛かった思い出は、就職して会社員になってもらった朝から晩まで働いた給料が、アルバイトで稼いでいた金額を遥かに下回ったことでした。会社員になった以上は、俗に言う出世をして高給取りになるしかありません・・と、この時は考えましたが、その後は高給取りになるのに、出世は必ずしも必要ないことも徐々に学びました(笑)いろいろな会社、いろいろな仕事が世の中にはあるものです。

でも、僕の学生時代には、「お酒の出る場所でのバイトには女子は行かせない」・・これはほとんどの親が守っていた不文律でした。今は男女機会均等とか綺麗ごとを言う影で、社会が乱れ切っていると考えます。