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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <あなたの手に渡した>

2024-10-31 | 士師記
「その夜、主はギデオンに言われた。『立って、あなたの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。』」(士師記7:9新改訳)

神は聖なる戦いにおいて、人の力があがめられることを、徹底的に嫌われる。 海辺の砂のように大勢いたミディアンの侵略軍、それに対してわずか三百人イスラエル軍が勝利したとき、誰が見ても神のわざとしか言いようがない、神はそれを望まれたのであった。▼私たちの信仰生涯にあっても、この原理は変わらない。この世から見れば、勝てるはずがない、成果を上げられるはずがない、そのように小さく無力な人をとおして、神は福音宣教の偉大なみわざを進められる。▼牢獄の囚人として生涯を終え、刑場の露と消えていった使徒パウロにより、新約聖書の柱ともいえる書簡が書かれ、それが二千年の教会を支えて来た。脊髄(せきずい)カリエスで寝たきりの一女性(三浦綾子さん)により、信仰書が次々に生まれ、今なお、それが読みつがれ、人々がキリストを信じ、救われるために用いられている。すべては、ただ神に栄光が帰せられるためなのだ。
 

朝の露 <ギデオン>

2024-10-30 | 士師記
「すると、主は彼の方を向いて言われた。『行け、あなたのその力で、あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」(士師記6:14新改訳)

ここからは五人目の士師、ギデオンの物語。▼彼の特徴的な性格は臆病(おくびょう)であったこと、神に対する信仰がなかなか持てず、「どうしてもというなら、あなたが主であることのしるしを見せてください」(17同)と祈ったことに、それがよくあらわれている。だがおどろくことに、主はそのギデオンを叱らず、しるしを見せて励まされた。▼私たちキリスト者の多くも、主が共におられることを信じているが、実際には勇気が持てず、大胆(だいたん)な行動をとることができない者である(私はそうではない、という人には失礼だが)。だから神のギデオンに対するはげましには、とても力づけられる。しかも神のみわざは、単なるはげましだけではなかった。▼「主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛(つのぶえ)を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った」(34同)とあるように、彼は主の霊に満たされて戦うことができたのである。考えてみれば、臆病というのは、神の前では長所かもしれない。なぜなら、そう自覚した信仰者は、一心に主を仰ぎ、主にすがるしかないことがわかるからだ。今日も勝利の秘訣はこれしかないであろう。

朝の露 <デボラの歌>

2024-10-29 | 士師記
「ギルアデはヨルダンの川向うにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。」(士師記5:17新改訳)

カナン人との戦いで大勝利をおさめたデボラとバラクの喜びの歌がここに記される。ただ、二人は喜んで歌っているだけではない。なぜなら、イスラエルの総力をあげた戦闘に参加しなかった部族への非難もこめられているからだ。たとえばヨルダン川の東に住む部族、ギルアデ(マナセ族)と地中海沿岸に住むダン、アシェルは犠牲を払うのを嫌がったのか、兵士を送らなかった。デボラたちはそれを歌の中で責めているわけである。▼私たちキリスト者も、福音を宣べ伝える戦いに招かれている。ひとりも滅びないことを望まれる神のお心に従って、世界中に救いを伝える聖戦に参加しているのだ。もし自分が救われたことだけで満足し、犠牲を払うのをいやがり、傍観(ぼうかん)しているだけなら、やがて主がお出でになったとき非難されるにちがいない。喜んで犠牲を払おうではないか。

朝の露 <女預言者デボラ>

2024-10-28 | 士師記
「ラピドテの妻である女預言者デボラが、そのころイスラエルをさばいていた。彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめ椰子の木の下に座し、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来た。」(士師記4:4、5新改訳)

デボラは四人目の士師で女性である。この頃はカナン入国から150年以上過ぎ、イスラエルは現地人と妥協し、その風習にならって堕落し、霊的にはあわれな有様となっていた。▼そのようなとき、神は女性から士師を起こされた。ふがいない男に代わり、女性が士師になるとは、これだけでも人々は神の前に恥じ、悔い改めるべきであった。デボラは神の声に従い、イスラエルを圧制により苦しめていたカナン人を破ろうとして立ち上がり、兵を集めて戦うようナフタリ族のバラクに命じた。こうして優勢なカナン人との決戦が始まったが、主御自身が勝利をもたらされたので(15)、イスラエルは「カナンの王ヤビンを滅ぼすに至った」(24)。▼男女を問わず、神の声を聞いて立ち上がる者は幸いである。

聖日の朝に <アブラハムの信仰>

2024-10-27 | みことば静想
「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:6新改訳)

①主に任せよ 汝が身を 主は喜び助けまさん 忍びて春を待て
 雪は解けて花は咲かん 嵐にも闇にも ただ任せよ汝が身を
②主に任せよ 汝が身を 主は喜び助けまさん 悩みは強くとも
 み恵みには勝つを得じ まことなる主の手に ただ任せよ汝が身を
                                  <新聖歌298 詞:Friedrich Rader,1845>
この賛美は私の愛唱歌である。これまで幾度となくくりかえして歌って来た。理由は、信仰の純粋性がよく表れていると思うからだ。▼冒頭の聖句は、70歳をとうに越え、世継ぎが生まれないアブラハムに神が語りかけ、それを信じた彼を神が義と認められたことを示している。「アブラハムは主を信じた」という箇所は、ある解説によれば、「アブラハムは神にすべてを任せた」という意味にとれるそうである。信仰とは、神に自分のすべてをお任せすることだ、そう考えると非常にうれしく、一切の重荷が肩から下りるような気がするが、いかがであろう。▼アブラハムの場合、神のことばにしたがい、待ちに待って来年は百歳という年齢になっても「約束の子」は一向に生まれる気配がなかった。それでも待てというのか?彼でなくても、普通人ならとっくの昔にあきらめ、別の手段で一家の世継ぎをこしらえていたであろう。ところが、アブラハムは「神にすべてをお任せした」のである。そして聖書はこれがほんとうの信仰なのだ、と我々に告げる。▼私たちの人生に、思い通り事が運ぶ例はひじょうに少ない。それでも願いがかなうことが、まれにあれば、まだいい。しかしアブラハムの場合は可能性がゼロと言ってよかったのだ。たったひとつだけ、ちがっていたのは、自分に語りかける神のおことばが現実と正反対を約束していたことであった。そしてアブラハムはそのおことばに「すべてをお任せした」のであった。▼信仰により歩むことは、このアブラハムの足跡について行くことである。「こうして、肉体的には死人も同様であったひとりの人から、天の星の数ほど、また海べのおびただしい砂のように数えきれないほど多くの子孫が生まれ出たのです。」(ヘブル11:12詳訳聖書)