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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <敬虔と品位>

2024-11-30 | Ⅰテモテ
「それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」(Ⅱテモテ2:2,3新改訳)

テモテをエペソに残して来たパウロであったが、そこで二人が味わったのはきびしい迫害と騒乱(そうらん)であり、生命の危険にも及ぶものだった。偶像礼拝者たちは劇場に集まり、使徒たちを血祭(ちまつり)にあげようとくわだてたからだ(使徒19章)。▼しかし不思議にもそれを静めたのは、キリスト者ではなく、町の書記官であった。彼はパウロたちがいかに立派で紳士的(しんしてき)であり、品位ある人物かを論証し、群衆を冷静にさせた。その背景にあったのは、ふだんからパウロが聖書をもとに正義と節制を説き、誰からも非難されない正しい生活をしていたからである。▼「パウロの友人でアジア州の高官であった人たちも、パウロに使いを送り、劇場に入って行かないようにと懇願(こんがん)した」(使徒19:31同)とあることを見ても、宣教チームの評判がどんなに良いものであったかが知られる。

朝の露 <真のわが子テモテ>

2024-11-29 | Ⅰテモテ
「信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。」(Ⅰテモテ1:2新改訳)

パウロが愛弟子(まなでし)テモテに送った手紙には、やさしさがにじみ出ている。彼は生涯かけて自分について来てくれたテモテに、肉親以上の愛情と感謝をおぼえていた。それは、父なる神がパウロに注がれた愛そのものでもあった。▼この章には「あわれみ」という語が三回出て来る(2、13、16)。ふり返れば、彼が入信以前に犯して来た暴力(ぼうりょく)、キリスト者たちを迫害した行為は取り返しのつかない罪であった。だが神はご自身の恵みとあわれみ、想像もできない寛容(かんよう)によってゆるして下さったのである。だから彼は、どんなに大きな働きをしたからといっても、主の前に誇(ほこ)ることはできなかった。もし誇るとすれば、自分に無条件に与えられた主のあわれみと寛容がどんなに大きいものであったか、ただそれだけである。使徒の心にあふれていたキリストの愛といつくしみ、彼はそれを忠実な弟子テモテにも引きついでもらいたいと願いながらこの手紙を送ったにちがいない。

                                           罪に満てる世界
①罪に満てる世界 そこに住む世人に いのち得よとイエスは血潮流しませり
②罪は海のごとく わが心おおえど 神はさらに強き 恵みもて救えり
③誰ぞ 我の罪をことごとく洗うは 見よ血潮は汝れを雪よりも白くせん
④たえに奇しき愛を 限りなき恵みを 今ぞ誰も受けよ ためらわずそのまま
{折返}ああ恵み 計り知れぬ恵み ああ恵み われにさえおよべり
                                                             <新聖歌343 詞:Julia H. Johnston.1849-1919>

朝の露 <このはしための心に>

2024-11-28 | ルツ記
「彼女は言った。『ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。』」(ルツ記2:13新改訳)

ルツは思いがけなく、ナオミの親戚(しんせき)であるボアズの畑に入り、落穂(おちぼ)を拾うことになった。ここにも人の理解を超える神の導きを見出すことができる。▼彼女は謙遜であった。ボアズの好意にあまえることなく、私はあなたのはしための一人にも及びませんのに、と言いあらわし、しかもボアズがやさしくルツの「心の中に届く語りかけ」をしてくれたことに感謝している。風俗(ふうぞく)習慣のちがう異国の地で貧しい境遇に置かれた女性にとり、その言葉はどんなに嬉(うれ)しかったであろう。▼私たち異邦人キリスト者も、イスラエル人からみれば「野生種のオリーブ」が接ぎ木(つぎき)されたようなもの、心ぼそさを感じて当然の存在である。だが、イエス・キリストは「遠慮(えんりょ)せずに私のもとに来て、食事にあずかりなさい」と仰せられるのだ。その愛を深く受け止めたい。

           なにゆえ み神は
①何ゆえ御神は かかる身をも 神の子とせしか 知るを得ねど
②何ゆえみことば 信ぜしときに 安きを得たるか 知るを得ねど
③何ゆえ主イエスを 救い主と 信じ救われしか 知るを得ねど
④わが世の終わりに いかなること 待てるかは露も 知るを得ねど
⑤救い主イエスを いずれの日に 見たてまつるかは 知るを得ねど
(折返) わがより頼む主は ゆだねたる身と魂(たま)を
    守り得たもうと 確信するなり
                                                <新聖歌357 詞:Daniel W.Whittle.1840-1901 >

朝の露 <ナオミとルツ>

2024-11-27 | ルツ記
「ナオミは言った。『ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。』」(ルツ記1:15新改訳)

自分の民とその神々のところに、という言葉からわかるのは、当時の社会では民族神が中心にあり、人々はその信仰内で生活していた、ということである。つまりモアブにはモアブの神があり、ルツがそこから自由になるためには、イスラエルに移る必要があったのだ。▼たぶん彼女はナオミとの生活を通し、イスラエルの主こそまことの神にちがいない、との強い確信を抱いたと思う。それにしてもまったく見ず知らずのイスラエルに、貧しい二人のやもめが何のあてもなく帰ることは、あまりにも冒険的(ぼうけんてき)なことだった。記されていないが、ルツの友人、知人たちはひき止めたかもしれない。しかしルツの決心は固く、しかもそれは「イスラエルの神こそ本当の神」という純粋な信仰から出ていた。ただおひとり、天にいます父なる神は、ルツの信仰をごらんになり、おどろくべき将来を用意しておられたのであった。▼ところで士師記17章からルツ記までの物語には、ベツレヘムが関係している。この町(村といったほうがよいかもしれない)は、有名な王ダビデが出た所であり、のちに神の子イエス・キリストの誕生された場所でもある。そしてルツ記の美しいできごとに投影されているのは永遠の支配者キリストと異邦人から福音により選ばれるキリストのはなよめなのだ。おもえば士師記末期~ルツ記の時代は人間の罪深さと言う暗黒面と、その中にひときわ強く輝いた信仰の光の美しさの記録といえよう。

朝の露 <シロの娘たち>

2024-11-26 | 士師記
「見ていなさい。もしシロの娘たちが輪になって踊りに出て来たら、あなたがたはぶどう畑から出て、シロの娘たちの中から、それぞれ自分のために妻を捕らえ、ベニヤミンの地に行きなさい。」(士師記21:21新改訳)

イスラエルはベニヤミン族が生き残る道として、略奪婚(りゃくだつこん)をゆるした。乱暴(らんぼう)きわまりない行為だが、当時の世界ではあちこちで行われていた風習だったと思われる。ただし、ここは部族が消える瀬戸際(せとぎわ)なので、非常手段としてゆるしたもので、イスラエルに平常の習慣として取り入れたものではない。律法では人を誘拐(ゆうかい)することは死をもって禁じられている。▼アブラハムなど族長時代でも、一般社会では、人の妻をうばうことが行われていたとあるから、神を知らない世界とは恐ろしいものだ。しかし、とにかくベニヤミン族は全滅をまぬがれ、十二部族の一員として存続していくことができた。のちにこのベニヤミンからイスラエル初代の王、サウルが起き、なお後代には大使徒パウロが輩出(はいしゅつ)した。歴史とはふしぎなものである。▼かつて族長ヤコブは臨終(りんじゅう)のとき、「ベニヤミンは、かみ裂く狼。朝には獲物(えもの)を食らい、夕には略奪(りゃくだつ)したものを分ける」(創世記49:27同)と、その将来(しょうらい)を預言した。性格のはげしさを指摘(してき)したものとして興味深い。