しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <アッシリア王センナケリブ>

2020-12-31 | Ⅱ歴代誌

「ヒゼキヤ王と、アモツの子、預言者イザヤは、このことについて祈り、天に叫び求めた。」(Ⅱ歴代誌32:20新改訳) 

エルサレムに来襲したアッシリア軍十八万五千は一夜で全滅したが、奇蹟の原因は二つある。▼一つはヒゼキヤ王とイザヤが祈り、神に叫び求めたことで、王の祈りと神の答えが詳しく記されている(Ⅱ列王記一九章、イザヤ三七章)。二つ目はアッシリア王の高ぶりで、ヒゼキヤ王に送ってよこした文面は、甚だしく侮辱的な言葉に満ちていた。神の怒りが現れたのは当然であった。「おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない」(15同)とは、センナケリブも愚かな言葉を口にしたものである。それに対する神の答え、「おまえはだれをそしり、だれをののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか」(イザヤ37:23同)は恐るべき刑罰の宣告であった。彼の誇る大軍はまたたく間に滅び、自身も偶像の宮にいるとき、息子たちに殺された。つまり自分の吐いた言葉の責任を神から問われたのであった。天地の主なるお方を偶像と一緒にする者は、アッシリア王の運命をたどる。▼しかしヒゼキヤにはアッシリア軍より大きな敵が存在した。神の奇蹟によりおどろくべき勝利を得た彼を、周囲の人々はひじょうに尊敬したのである。「この時以来、ヒゼキヤはすべての国々から尊敬の目で見られるようになった」(Ⅱ歴代誌32:23同)とあるが、彼が心ひそかに自己称賛におちいり、高ぶりにはまったとしても不思議ではなかったろう。人間とは、つくづく罪深い者であると思う。神はそれをするどく見ておられた。そしてまもなく重病になり、もはや死を待つばかりとなったが、ヒゼキヤは床の中で涙を流して祈り、神のあわれみによって癒されたのである。▼私たち信仰者は窮地に追い込まれると、必死で主を見上げ、祈り、神のおどろくような答えを拝する。ところが、いつのまにか自分の信仰の力でそれが起きたかのように錯覚し、神をほめたたえないで自分に栄光を帰するのだ。そして神によるムチが加えられると悔い改め、憐れみによりゆるされる。このくりかえしがヒゼキヤの生涯であった。高ぶりはアッシリア軍より、はるかに強大な敵だということがわかる。