しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <私はヘブル人です>

2023-06-15 | ヨナ書
「ヨナは彼らに言った。『私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です。』」(ヨナ1:9新改訳)

ヨナ書はドラマとしてもおもしろく、教会学校の教材としても人気があるのはご存じのとおり。だがこの小話にこめられたテーマは深く、いやむしろ深刻(しんこく)といったほうがよい。つまり、ヨナという人物にみられる、わがまま、頑固さと神への反抗心、偏狭(へんきょう)な祖国愛、浅い思慮(しりょ)と無鉄砲(むてっぽう)さ、しかもそんな人物が神の預言者として召された理不尽(りふじん)さなど、どれも私たちの理解を超える問題提起(もんだいていき)なのである。▼私がもしヨナの主人であったら、こんな扱いにくいしもべは、即刻(そっこく)クビにするだろう。ところがなぜか神はヨナを捨てず、あきらめず、忍耐と寛容の限りをつくし、ご自分の使命を遂行するために用いられたのだ。こうして私たちは、ひとりの滅びることも望んでおられない神のご愛とあわれみ、そのご忍耐の深さを知るに至った。結局、その意味で、やはりヨナ書は面白いし、感動的なのである。万人が愛読する理由がそこにあろう。▼もし神が、ヨナが抱いた気持ち「あくどいニネベなどほろんで当然である」と同じ気持ちの御方であったら、私たち異邦人の救いはなかった。福音も世界宣教もなかったはずである。その測り知れない御忍耐、寛容、あわれみのゆえに、十字架から生命の流れが湧き出て、東の最果て・日本にも届いたのである。ヨナはその神のやさしさ、愛の広さを知っていた。ニネベを滅ぼしたくない、という愛の広さも(知識としては)理解していた。そのうえで神のお気持ちがゆるせなかったのであった。▼ヨナには人の抱く罪深さがみごとに描かれる。それは絶対愛よりも絶対正義が優先されなければならない、そうであってこそ正義の神は神たり得るのではないか、ということであろう。ヨナは知らなかった。まもなくキリストの十字架、永遠のなだめのそなえものが、神によって用意され、神御自身がその成就者になられるときが来る、ということを。しかし、だからこそ、ヨナ書は面白い。おまけにヨナは夢想だにしなかったが、主が死んでよみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえる、ということの予表として行動していたのであった。▼傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に行動したように見えるヨナだが、結局は神の御計画の外に出られない預言者であった。思わず告白したことばにそれが現れている。「私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です」