しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 ミカ書6章 <何をもって主の前に>

2018-12-12 | ミカ書

森の宮「何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。」(ミカ6:6新改訳)

神が求める本当の信仰とは何か、ミカは独白のかたちで記す。6~8節は、旧約聖書中でも特に愛されている有名な箇所。▼完全な犠牲動物、いやたとえ自分の実子を犠牲としてささげたとしても(これは当時、異邦の宗教で行われていた)、まことの神に対する愛と真実が、その人の生きざまとして実を結んでいなければ、信仰は空しく、むしろ偽善である。イスラエルとユダよ、お前たちが行っている宗教儀式、礼拝行為は完璧かもしれない。しかしそれでは、巷(ちまた)に満ちている暴虐、不正、差別の数々はなんだ。悪を見過ごしにし、敬虔そうな礼拝をささげれば、わたしが喜ぶと思っているのか。そのような信仰こそ、わたしがもっとも忌み嫌い、憎むべきことだと知らないのか。ホセアもおなじことを言う。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」(ホセア6:6同)▼ミカの指摘はあらゆる時代の信仰者、とくに教会に向かう警告の声である。私たちは主日になると、敬虔な装いで礼拝に行き、祈りをささげ、みことばに聞き入るかもしれない。だがいったん家に帰れば、不敬虔な言葉を平気で口にし、悪口を言い合い、苦い思いを抱き、何とも思わない。ましてそれが、共におられる御聖霊のお心を憂えしめていることに気が付かない。「私は、一応今のところは忠実な教会生活を送っているからだいじょうぶ」と考えてはいないだろうか。もちろん、おどおどしながら信仰生活をせよ、というのではない。が、裏表(うらおもて)のない信仰生活こそが主に喜ばれることを、常に忘れないようにしたい。ほんとうにキリストの日がそこまで迫っているのだから。