しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <偽善の律法学者>

2023-02-24 | マタイ
「わざわいだ、偽善(ぎぜん)の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実(せいじつ)をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」(マタイ23:23新改訳)

主イエスは当時のパリサイ人たちを、きびしく非難(ひなん)された。この章にある「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」という主のおことばは、新約聖書中でもっとも辛辣(しんらつ)なことばといってよい。このことから、神がこの上なく憎み、嫌悪(けんお)されるのは、人が持つ偽善性(ぎぜんせい)であることがわかる。▼しかしこれだけきびしく非難されても、彼らは悔い改めず、とうとう主イエスを十字架に釘(くぎ)づけた。これが人の犯す罪のうち、最大のものであることはいうまでもない。そこで「義人(ぎじん)アベルの血からバラキヤの子ザカリヤの血」(35)まで、つまり旧約時代のすべての罪の報(むく)いが、主を十字架につけた彼らにふりかかったのであった。▼私たちもおなじだ。主イエスを拒否(きょひ)すれば、あとに残るのは永遠の火だけである。

朝の露 <ことばの罠(わな)に>

2023-02-18 | マタイ
「そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。」(マタイ22:15新改訳)

主イエスは神のことばであり、永遠の昔から存在しておられる方である。万物(ばんぶつ)はキリストによって成(な)り、キリストによってかたちを保っている。神の知恵、能力、力、尊厳(そんげん)、威光(いこう)はすべてこのお方に帰せられており、天上にあっては千々万々(せんせんまんまん)の天使たちが絶えることなく賛美と礼拝をささげているお方だ。▼そのお方をなんとかして言葉のワナにかけようと謀(はか)り、相談するとは、あまりにも無知蒙昧(むちもうまい)な姿としかいいようがない。それが当時のユダヤ人指導者たちの実体であった。一面からいえば、塵灰(ちりはい)にひとしい人間が創造主(そうぞうしゅ)ご自身を落とし入れようと考えるところに、罪と堕落性(だらくせい)の底知れない深さがあらわれている。▼すべての人は、みずからの霊的盲目(れいてきもうもく)と傲慢(ごうまん)の救いがた深さを悟らなければならない。ナザレのイエスとして現れた神のことばの前にひれ伏し、自分のおろかさを告白し、あわれみの御手(みて)にすがることが、もっともふさわしいあり方なのだ。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いを通して、価(あたい)なしに義と認められるからです。」(ローマ3:23,24同)

朝の露 <かなめの石>

2023-02-17 | マタイ
「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要(かなめ)の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議(ふしぎ)なことだ。」』」(マタイ21:42新改訳)
家を建てる者たちとは、祭司や学者、パリサイ人たち、つまりユダヤ人社会の指導者階級(しどうしゃかいきゅう)を指す。彼らは人々を指導教育し、神の民として整(ととの)える責任があった。▼本来なら、彼らこそ真(ま)っ先に、人となってイスラエルに来られた主を受け入れ、メシア王国を築(きず)いて当然だったのである。しかし彼らはナザレのイエスをあなどり、卑(いや)しめ、最後は十字架につけてしまった。家を建てる者たちが捨てた石とはそのことを言っている。ところが彼らから「役に立たない石」として捨てられた主イエスは死から復活、昇天し、約束の聖霊を注がれ、それによって地上に教会が出現した。▼それは今も続き、地域や時代を超越(ちょうえつ)したキリストのからだが形成されつつある。これこそ世界最大の不思議、奇蹟中(きせきちゅう)の奇蹟なのである。神の測(はか)り知れない知恵とご計画は空前絶後(くうぜんぜつご)の栄光となって天地に輝きつつある。ハレルヤ

朝の露 <主よ、ダビデの子よ>

2023-02-11 | マタイ
「群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、『主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください』と叫んだ。」(マタイ20:31新改訳)

これは私たちが主に祈り求める時、どうあらねばならないかを教える箇所(かしょ)である。二人の目の見えない人は、イエスが通られると聞き、「あわれんでください!」と叫び続けた。誰が黙らせようとしても、二人はやめることなく叫び続けたのである。もちろん必死(ひっし)だったし、どこにおられるのかよくわからないのだから、声の大きさだけが頼りであった。それであたりかまわず大声で叫んだわけである。▼主は、私たちが神に祈るときは、このような熱心さが必要だと言われる。あの三つのパンを求めた人の話し(ルカ11:5~10)、不義なる裁判官(さいばんかん)とやもめの訴え(ルカ18:1~8)などがその好例であろう。こと祈りに関しては、私たちは神の前にどれだけ熱心であつかましくあっても、過ぎることはないと主は言われた。いや、むしろ、どこまでもあきらめず、神に近づく態度こそ、信仰の世界にあっては神を喜ばせるものである。「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12同)

朝の露 <十二の座に着いて>

2023-02-10 | マタイ
「そこでイエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。』」(マタイ19:28新改訳)

「人の子がその栄光の座に着くとき」とは、おそらく主が地上再臨し、世界の王としてエルサレムに着座したときを指すのだろう。最後の晩餐のときも、主は次のように言われた。「わたしの父がわたしに王権を委(ゆだ)ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです」(ルカ22:29,30同)▼イスラエルは地上で祭司の国となり、諸国を支配するが、キリストの花嫁とされた教会は栄化され、天の民となり、エルサレムに主とともにとどまるにちがいない。中でも十二使徒たちは神の御使いのようになり、イスラエルを栄光のうちに治めると思われる。具体的(ぐたいてき)なことは推測(すいそく)の域(いき)を出ないが、すばらしい状態であることはたしかだ。私たちキリスト者も天の民として国々、町々を治めることになるのであろう。▼主が話されたミナのたとえは、このことを指すのかもしれない。「さて、彼は王位を授(さず)かって帰ってくると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様。あなた様の1ミナで10ミナをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」(ルカ19:15~17同)▼もっとも、来るべき神の国を詳細(しょうさい)に描くより大切なことは、主がかならず再臨したもうこと、そのとき私たちは地上の生涯で成したことを評価、査定(さてい)されるという事実である。主がお与えになったあがないの恵みに感謝し、ほんの小さなことも、キリストに向かう愛の動機からしたかどうかを問われるのだから。