【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「アイム・ノット・ゼア」:寿三丁目バス停付近の会話

2008-04-26 | ★都02系統(大塚駅~錦糸町駅)

「大熊象牙」っていうのもなかなか凄い迫力のある名前だな。
それより私は象の寓話を思い出したわ。
象の寓話?
目の見えない人が集まって、ある人は象の足だけ触り、ある人は象の鼻だけ触り、ある人は象のしっぽだけ触り、それぞれが象をわかったつもりになってしまったっていう話。
でも、みんなのイメージを合わせなければ、ほんとうの象の姿はわからない・・・。
そう、そう。
でも、それって、映画の「アイム・ノット・ゼア」みたいな話だな。
うん、そう思った。「アイム・ノット・ゼア」はボブ・ディランをモデルにした伝説のミュージシャンの姿を六人の俳優が演じ分けているんだけど、それぞれを観ていても、彼の一面しかわからない。六人のイメージが集まって初めて一人のミュージシャンの姿が浮かび上がるっていう話。
その六人が女性もいれば黒人少年もいるという幅の広さな上に、各人の挿話が一話ずつつながっていくという構成じゅなくて、話が入り組んで進んでいくから、観ていて混乱しないかと思ったら、そんなことは全然なかった。
ひとことで言うと、ボブ・ディランの人生と歌をバラバラに解体して、監督の視線でもういちど組み立て直したっていう映画なんだけど、その視線がぶれていないから、映画も思いのほかすっきりした仕上がりになっているのよね。なぜ、こんな幅広い層の役者が演じ分けなければならないのかも納得できてくる。
転がる石のように変化し続ける人物を表現するには、こういう方法論もあったってことだよな。
きっと、ボブ・ディランのファンが観たら納得できるシーンやセリフがいっぱいあって相当盛り上がるんだろうけど、その分、彼に特別関心があるわけでもない私のような人間にはわかりにくいかな、と思ったらそんなこともなかった。あまりボブ・ディランに関心のない人間が観ても、彼の人物像がくっきりと伝わってくる。
ボブ・ディランの伝記ということを脇においても、一本の映画としてよくできているってことだ。
女でありながら男を演じたケイト・ブランシェットの演技なんて、ほんとうに見ものだったもんね。
ボブ・ディラン本人に似ているのかどうかわからないけど、しぐさから表情まで、映画を観る醍醐味を味あわせてくれた。
エリザベス:ゴールデンエイジ」のときも感じたけど、オーバーアクトがよく似合う女優よね。
でも、映画として一番印象的だったのは、リチャード・ギアのエピソードだ。
あら、それは意外。彼が演じたミューシャンのエピソードは、西部劇だか現代劇だか微妙で、映画全体の流れからちょっと浮いていたんじゃないの?
いや、そういうことじゃなくて、リチャード・ギアが列車に飛び乗るとき、行方不明になっていた愛犬が突然現れて追ってくるシーンがあって、ここだけの話、あれがいちばん心に残っている。
案外、ボブ・ディランの心象をいちばん表しているシーンだったりするのかもね。愛するものを残しても、ひとところに留まるわけにはいかないという・・・。
というか、この映画を観てボブ・ディランがわかったと思っても、俺はその手をすり抜けていっちゃうぞ、という目くばせ・・・。
そうねえ、象の全体像を把握するのは、凡人には難しいかもね。
なにしろ、「アイム・ノット・ゼア」、俺はそこにはいない、だからな。






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