Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ミンコフスキ/都響

2019年10月09日 | 音楽
 ミンコフスキが都響を振るのは今回で5度目だそうだ。わたしはそのほとんどを聴いているが、どれもおもしろかった。今回はシューマンとチャイコフスキーの名曲プログラムだったが(ただし、後述するように、一捻りしている)、今回もおもしろかった。

 1曲目はシューマンの交響曲第4番(1841年初稿版)。2003年に出版された厳密なクリティカルエディションのフィンソン版による演奏。どこかで聴いたことがあるような気もするが、ともかく新鮮な感覚で聴けた。耳慣れた1851年第2稿と比べると、オーケストレーションがすっきりしていて、シューベルトの初期の交響曲につながる。語弊があるかもしれないが、正気だった頃のシューマンの面影が窺える。

 オーケストラは14型の対抗配置。指揮者の左側から第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ+コントラバス、第2ヴァイオリンと配置され、各々のパートが明瞭に分離して聴こえた。

 2曲目はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。冒頭のファゴットが太く豊かな音で鳴った(フレーズの最後に小さな瑕があった)。ファゴットの音はその後も、全編を通して、目立った。女性奏者だったが、だれだろう。都響では見慣れない人だった。

 第1楽章の展開部の入りが劇的だった。どんな指揮者でも、居眠りしている聴衆を驚かすような強烈な音を出すが、それとは質的に違い、「なにか取り返しのつかないことが起こった」と感じさせるような音だった。物理的な音響という以上に、精神的なショックを感じさせる音。なぜそうなるのか。その直前のファゴットをバスクラで代用せずに、ファゴットで吹かせたためか。言い換えれば、チャイコフスキーの意図通りの音が鳴ったからか。

 その辺りから、わたしは身を入れて聴き始めた。そうすると、そこに展開されている演奏が、一般的な「型」から離れて、ミンコフスキがスコアから読み取ったそのままの形で、ナイーヴに、初々しく提示されていることに気付いた。

 そのような演奏でこの曲を聴くと、たとえば第4楽章は「謎」の音楽のように聴こえた。一般的にプログラムされている「死」の音楽とか、自分自身への「追悼」とか、そんな物語性で聴くのではなく、「いったいなぜチャイコフスキーはこんな音楽を書いたのだろう」という戸惑いを感じた。

 ミンコフスキを聴く意味はそこにあるのかもしれない。手垢のついていない解釈という、言うは易く行うは難い事柄を、ミンコフスキは経験させてくれる。
(2019.10.7.東京文化会館)
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