Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ピエール=ロラン・エマール「幼子イエスにそそぐ20のまなざし」

2017年12月07日 | 音楽
 ピエール=ロラン・エマールが弾くメシアンの「幼子イエスにそそぐ20のまなざし」は、わたしの期待の中では(わたしだけではなく、多くの方々にとっても、そうだったろうが)、11月のカンブルラン/読響の「アッシジの聖フランチェスコ」につながっていた。

 だからだろう。席に座り、エマールの登場を待つとき、「いよいよこの時が来た」と思った。期待と不安と、とにかくこれから起きることを、それがなんであれ、受け止めようとする覚悟とが入り混じった気持ちになった。

 エマールが登場し、第1曲「父のまなざし」が始まる。幽冥の世界から響いてくるような深々とした音。その演奏には少しの力みもない。一種の客観性さえ感じられる。その客観性は「父」=全能の神のまなざしであるからか、それともエマールの演奏スタイルからくるのか、その判断はまだつかない。

 結論からいうと、その客観性は、程度の差こそあれ、全20曲に一貫して感じられた。並外れた集中力をもって演奏されたが、その集中力と、肩の力を抜いた自在さとが両立し、主観的な気負いがまったくなかった。エマールが生涯をかけて、おそらくもっとも大事にしてきた作品の一つの解釈が、いかにこなれているか、それが感じられた。

 音色の多彩さはいうまでもない。光の粒子のように輝く音、羽毛で慰撫するような柔らかい音、人知を超えた恐ろしい音、そして最後の第20曲「愛の教会のまなざし」では鞭がしなるような強靭な打鍵。

 全曲聴き終えたとき、わたしの中では、たしかにカンブルラン/読響の「アッシジ」とつながった。そのことに安堵した。カンブルラン/読響の途方もない演奏の達成と、エマールの解釈の熟成とが、ともに比類ないものとして捉えられた。

 思えば、「アッシジ」の正味4時間半の演奏時間は、あっという間に過ぎたが、同じように「20のまなざし」の正味2時間も、あっという間だった。どちらも、完璧に把握された作品は、時間を超えてそこに在るように見えた。「20のまなざし」では、その凝縮された結晶体の中に、さまざまな音色が存在し、エマールはそれを掘り出す彫刻家のようだった。

 わたしの中のメシアン・サイクルは、まだ終わっていない。来年1月に大野和士/都響の「トゥーランガリラ交響曲」が控えているからだ。ハードルは高いが、「アッシジ」や「20のまなざし」につながってほしい。
(2017.12.6.東京オペラシティ)

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