大学時代の友人と始めた読書会。9月に開いた第1回は楽しかった。テーマは三島由紀夫の「仮面の告白」。第2回は12月の予定。テーマはわたしが提案した3作品の中から友人が選んだ。友人が選ばなかった2作品は、未読の作品だったので、そのうちの一つを読んでみた。
それはヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」。シッダールタとは釈尊の出家以前の名前だが、本作はその名前を借りて、「悟りに達するまでの求道者の体験の奥義を探ろうとした」作品(新潮文庫の翻訳者、高橋健二の「解説」より)。
巻頭に「インドの詩」と書かれている。たしかにAとBとが対立してドラマが起きるという意味での小説とは異なる。主人公シッダールタの目に映った世界。ドラマは起きるが、悪意とか姦計とか、そんな不純物とは一線を引いたところで起きるドラマ。
文庫本で200頁足らずの短い作品の中に、シッダールタの生い立ちから悟りに達するまでの人生が凝縮されている。いかにもヘッセらしい深い思索が感じられる。
わたしが一番ヘッセらしいと感じた場面は、シッダールタが仏陀と出会う場面。仏陀はすでに悟りに達し、多くの信者を集めている。それまでシッダールタと行動をともにしていた友人ゴーヴィンダも、仏陀のもとにとどまる。だがシッダールタは自らの道を歩む。そのときシッダールタは仏陀にいう。
「あなたは死からの解脱を見いだしました。それはあなた自身の追究から、あなた自身の道において、思想によって、沈潜によって、認識によって、悟りによって得られました。教えによって得られたのではありません! それで、私もそう考えるのです。おお覚者よ――何ぴとにも解脱は教えによっては得られないと!」
強烈な自我だと思う。その自我のためにシッダールタは苦難の道を歩む。そこにはヘッセ自身の人生が投影されている。ヘッセを読む意味はその自我の苦闘にある。
シッダールタは回り道の人生の末に、川の渡し守と出会う。そのもとで生活を始める。川を見ていて、なにかを感じる。渡し守はいう。「川は至る所において、源泉において、河口において、滝において、渡し場において、早瀬において、海において、山において、至る所において同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という影も、未来という影も存在しない」
シッダールタは、時間にたいするこの観念を起点に、やがて驚くべき悟りに達する。
それはヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」。シッダールタとは釈尊の出家以前の名前だが、本作はその名前を借りて、「悟りに達するまでの求道者の体験の奥義を探ろうとした」作品(新潮文庫の翻訳者、高橋健二の「解説」より)。
巻頭に「インドの詩」と書かれている。たしかにAとBとが対立してドラマが起きるという意味での小説とは異なる。主人公シッダールタの目に映った世界。ドラマは起きるが、悪意とか姦計とか、そんな不純物とは一線を引いたところで起きるドラマ。
文庫本で200頁足らずの短い作品の中に、シッダールタの生い立ちから悟りに達するまでの人生が凝縮されている。いかにもヘッセらしい深い思索が感じられる。
わたしが一番ヘッセらしいと感じた場面は、シッダールタが仏陀と出会う場面。仏陀はすでに悟りに達し、多くの信者を集めている。それまでシッダールタと行動をともにしていた友人ゴーヴィンダも、仏陀のもとにとどまる。だがシッダールタは自らの道を歩む。そのときシッダールタは仏陀にいう。
「あなたは死からの解脱を見いだしました。それはあなた自身の追究から、あなた自身の道において、思想によって、沈潜によって、認識によって、悟りによって得られました。教えによって得られたのではありません! それで、私もそう考えるのです。おお覚者よ――何ぴとにも解脱は教えによっては得られないと!」
強烈な自我だと思う。その自我のためにシッダールタは苦難の道を歩む。そこにはヘッセ自身の人生が投影されている。ヘッセを読む意味はその自我の苦闘にある。
シッダールタは回り道の人生の末に、川の渡し守と出会う。そのもとで生活を始める。川を見ていて、なにかを感じる。渡し守はいう。「川は至る所において、源泉において、河口において、滝において、渡し場において、早瀬において、海において、山において、至る所において同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という影も、未来という影も存在しない」
シッダールタは、時間にたいするこの観念を起点に、やがて驚くべき悟りに達する。