神奈川近代文学館の「中原中也の手紙」展。中也が友人(友人というよりも親友といったほうがいいし、親友という言葉でもまだ足りない気もする。要するに、荒れた日々を送る中也に寄り添って、無私の心で中也を支えた人)安原喜弘に送った手紙を展示したものだ。
安原喜弘の「中原中也の手紙」(現行版は2000年に青土社刊。そこに至る長い道のりは、それだけで一つのストーリーを成す)は、中也研究の第一級の資料だし、また名著でもあると思う。中也がほんとうに心を許せる相手に送った手紙。中也の心の動きを辿るとともに、これほど無私の心で中也を支えた人の、その人間としてのありように思いを馳せる――そういう本だ。しかも、最後には二人の友情は崩壊する――それは主に中也の側に原因があるのだが――。そんな暗澹たる現実を見せてくれる本でもある。
本展では中也の手紙102通が(おそらくすべて)展示されている。大半は原稿用紙にペンで書いたもの。葉書もあるし、毛筆で書いたものもある。それらを見ていると、「中原中也の手紙」で読んだ文面が蘇ってくる。
感動的だったことは、安原喜弘が、後年、中也の手紙とそこに添付されていた詩を、それぞれ表装して、掛け軸にしたことだ。手紙は昭和9年(1934年)12月30日付けのもの、詩は「薔薇」と題されたもの(これは未発表詩の一部とみなされている)。
当時、二人の関係には隙間風がふき始めていた(繰り返すが、それは主に中也の側に原因があったと思われる)。詩は次のような書き出しで始まる、「開いて、ゐるのは、/あれは、花かよ?/何の、花かよ?/薔薇の、花ぢゃろ。」
これだけだとわからないが、薔薇はおそらく安原喜弘だ。中也は「沈黙家」(翌年4月29日付けの手紙)たる安原喜弘を――多少の揶揄をこめて――批判しているのだ。もちろん安原喜弘はそれを敏感に感じ取っただろう。その詩を(そして手紙を)、後年(いつのことかはわからないが)、表装して掛け軸にした。そのときの安原喜弘の気持ちが、これらの掛け軸には感じられて、胸が一杯になった。
安原喜弘は、晩年、カトリックの洗礼を受けたそうだ。これも中也を理解したいがためだった(中也はカトリックの信者ではなかったが、カトリックの環境のなかで育った)。この一事も胸に迫った。
たとえばわたしは、このような友人に十分報いることはできるのだろうか――。
(2013.6.30.神奈川近代文学館)
安原喜弘の「中原中也の手紙」(現行版は2000年に青土社刊。そこに至る長い道のりは、それだけで一つのストーリーを成す)は、中也研究の第一級の資料だし、また名著でもあると思う。中也がほんとうに心を許せる相手に送った手紙。中也の心の動きを辿るとともに、これほど無私の心で中也を支えた人の、その人間としてのありように思いを馳せる――そういう本だ。しかも、最後には二人の友情は崩壊する――それは主に中也の側に原因があるのだが――。そんな暗澹たる現実を見せてくれる本でもある。
本展では中也の手紙102通が(おそらくすべて)展示されている。大半は原稿用紙にペンで書いたもの。葉書もあるし、毛筆で書いたものもある。それらを見ていると、「中原中也の手紙」で読んだ文面が蘇ってくる。
感動的だったことは、安原喜弘が、後年、中也の手紙とそこに添付されていた詩を、それぞれ表装して、掛け軸にしたことだ。手紙は昭和9年(1934年)12月30日付けのもの、詩は「薔薇」と題されたもの(これは未発表詩の一部とみなされている)。
当時、二人の関係には隙間風がふき始めていた(繰り返すが、それは主に中也の側に原因があったと思われる)。詩は次のような書き出しで始まる、「開いて、ゐるのは、/あれは、花かよ?/何の、花かよ?/薔薇の、花ぢゃろ。」
これだけだとわからないが、薔薇はおそらく安原喜弘だ。中也は「沈黙家」(翌年4月29日付けの手紙)たる安原喜弘を――多少の揶揄をこめて――批判しているのだ。もちろん安原喜弘はそれを敏感に感じ取っただろう。その詩を(そして手紙を)、後年(いつのことかはわからないが)、表装して掛け軸にした。そのときの安原喜弘の気持ちが、これらの掛け軸には感じられて、胸が一杯になった。
安原喜弘は、晩年、カトリックの洗礼を受けたそうだ。これも中也を理解したいがためだった(中也はカトリックの信者ではなかったが、カトリックの環境のなかで育った)。この一事も胸に迫った。
たとえばわたしは、このような友人に十分報いることはできるのだろうか――。
(2013.6.30.神奈川近代文学館)