Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

コジ・ファン・トゥッテ(ザルツブルク)

2016年08月09日 | 音楽
 スヴェン=エリック・ベヒトルフの演出は、何年か前のチューリヒ歌劇場の来日公演での「ばらの騎士」と、昨年のザルツブルク音楽祭での「フィガロの結婚」との2度しか経験がないが、正直いって、あまり特徴のあるものとは思わなかった(もっとも演奏面では「ばらの騎士」は優れていたが)。

 今回「コジ・ファン・トゥッテ」のチケットを取ったのは、ザルツブルクが「皆殺しの天使」の1泊だけでは物足りなかったからだ。

 ところが往きの飛行機の中で観たベヒトルフ演出の「ドン・ジョヴァンニ」(ザルツブルク音楽祭のライヴ映像)が、高級ホテルの中に舞台を設定した巧みなストーリー展開で、ひじょうに面白かった(これは今年も上演される)。そこで俄然「コジ・ファン・トゥッテ」にも興味が湧いてきた。

 会場に入ると、すでにドラマが始まっていた。ドン・アルフォンソが老人の仲間たちと椅子に座って、人体の解剖図を広げながら、女とは何かと議論中だ。やがて指揮者が登場し、序曲が始まる。舞台が動き始める。舞台からオーケストラピットを丸く囲んで通路が付いている。歌手たちはそこを行き来する。

 フェランドとグリエルモが、出征すると偽って、フィオルディリージとドラベッラに別れを告げる場面で、4人の歌手はその通路に出て(つまりオーケストラピットよりも前に出て)4重唱を歌う。その4重唱の美しかったこと。虚構から思いがけない真情があふれ出る瞬間だった。

 ピットを囲む通路を付けること自体は、珍しくはないが、この演出では、音楽的にここぞ!という箇所で通路に出てきて歌う。その選択に音楽への理解の深さが感じられた。オーケストラピットの前の通路と、その奥の舞台との2重構造が、ピットの前での真情の迸りと、舞台での虚構の戯れとのコントラストを反映していた。

 4人の若者が各人各様の心の傷を負うのは、一般的な演出だったが、ドン・アルフォンソが仲間たちに拍手喝さいで迎えられる幕切れは、自説に閉じこもる老人の固陋さを表して、真の敗者はドン・アルフォンソかもしれないと思わせた。

 指揮のオッタヴィオ・ダントーネは、期待どおり、生き生きした音楽作りだった。モーツァルテウム管弦楽団の音には、ウィーン・フィルとは違った懐かしさがあった。歌手ではフィオルディリージのユリア・ライトナーの正確で、しかもニュアンス豊かな歌唱に注目した。
(2016.8.2.フェルゼンライトシューレ)

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