Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ピーター・ゼルキンを想う

2020年04月01日 | 音楽
 2月上旬のことだが、わたしの好きな演奏家の訃報が相次いだ。2月1日にピーター・ゼルキン、6日にネッロ・サンティ、9日にミレッラ・フレーニ。なかでもピーター・ゼルキンのことが頭にずっと引っかかっているので、CDをまとめて聴いてみた。ピーターって結局どんな演奏家だったのだろうと。

 最初に聴いたCDは武満徹の「カトレーン」。というのも、わたしが最初に出会ったピーターはアンサンブル「タッシ」のメンバーだったからだ。久しぶりに聴く「カトレーン」はいまも新鮮さを保っていた。そのことに、わたしは感動した。曲の最後に出てくるソリスト4人の(つまり「タッシ」のメンバーの)カデンツァ風の部分でのピーターの演奏のみずみずしさ! あの頃のピーターは幸せな時をすごしていたと思う。

 ついでながら、4人のソリストにつける小澤征爾指揮ボストン交響楽団の感性豊かな演奏も特筆ものだ。録音は1977年3月、ボストン・シンフォニーホールで。脂の乗り始めた頃の小澤征爾の仕事の一つだ。

 わたしはピーターの実演を2度聴いたことがある。いや、2度しか聴いていないというべきだが、ともかくその数少ない経験で、妙に気になることがあった。最初に聴いたのは2003年10月のN響の定期だった。準・メルクルの指揮でブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴いた。そのときの凄まじい集中力は、わたしに圧倒的な印象を残した。ピーターは巨匠への道にあると思った。

 2度目は2015年9月の都響の定期だった。オリヴァー・ナッセンの指揮でブラームスのピアノ協奏曲第2番を聴いた。そのときのピーターは何かが違っていた。巨匠への道をまっしぐら‥ではなくて、どこか屈折したものがあった。もっとも、その印象の大部分は、ピーターが使用した年代物のスタインウエイから来るものだった。艶消しの、音量の小さい、古風な音だった。わたしはびっくりして、終演後、そのピアノを見に行った。アンティークなピアノだった。どこから持ってきたのだろうと思った。

 なぜそのピアノを使ったのだろう、という疑問がずっと残った。今回聴いたCDの中に、フォルテピアノを弾いたベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ集があった。それを聴いているうちに、あのときのピーターを思い出した。モダン・ピアノの張りのある輝かしい音よりも、そのくすんだ音のほうが、ピーターにはしっくりくるものがあったのだろう。それは現代生活の緊張からの、束の間の解放だったのか。

 そのピアノフォルテのCDでは、わたしは第28番が気に入った。モダン・ピアノでは出せない繊細な音のテクスチュアがあった。
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