Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「紫苑物語」をどう読むか

2018年09月05日 | 読書
 新国立劇場の小冊子「2018/2019シーズンガイド」を見ていたら、2019年2月に初演される新作オペラ「紫苑物語」の紹介文の中で、「芸術家の生き様を、現実と異界が交叉する世界で描いた物語」というくだりがあった。芸術家の生き様?と引っ掛かるものがあった。わたしが原作を読んだときには、それが芸術家の生き様を描いたものとは思わなかったからだ。

 その後、同劇場から情報誌「ジ・アトレ」の9月号が届いた。オペラ「紫苑物語」を特集していたので、さっそく読んでみた。同オペラの作曲者・西村朗は、インタビュー記事の中で、とくに芸術家の生き様と特定して捉えているわけではないので、わたしはホッとした。

 もう一つ、同オペラの監修者・長木誠司のエッセイが載っていた。そこに「宗頼という一種の芸術家の自己克服と、それが成就するところの必然的な自己崩壊」というくだりがあった。なるほど、シーズンガイドの紹介文のルーツはこれかと思った。

 だが、それは「一種の芸術家」であって、それを「芸術家の生き様」と言い切ってしまうと、内容に齟齬が生じる。そして読者(同オペラを観るかもしれない人)をミスリードする可能性があると思った。

 「一種の芸術家」とは、原作者・石川淳が「宗頼」という登場人物に造形した精神の活動の、破滅をも恐れぬ急進化を指す言葉ではないだろうか。それは「宗頼」を芸術家のアレゴリーと捉えることとは根本的に異なる。

 気になったので、「紫苑物語」に関する評論をいくつか読んでみた。まず読んだのは、澁澤龍彦の「評伝的解説」。その一節には「さて、みずから敵を欲するところの精神の運動が、ただ純粋に弁証法的に展開するだけで、そのまま一篇の美しいロマネスクを織りなしたかのような感をいだかしめるのが名作『紫苑物語』であろう。」とあった。わたしは同感した。

 次に読んだのは、野口武彦の「『紫苑物語』論」。そこでは「だが、わたしが『紫苑物語』が象徴小説であるといったのは、決して主人公宗頼が芸術家の象徴であるなどといったなまはんかな意味ではない。」と明快に述べていた。

 わたしは以上の評論で満足したが、参考までに渡辺喜一郎の「『紫苑物語』試論」も読んでみた。そこには「知の矢」は知識の力の象徴、「殺の矢」は散文という方法の獲得の象徴、「魔の矢」は想像力の象徴という解釈があった。でも、そんなに限定的に解釈する必要はないのではないか、と思った。

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