Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「グレの歌」(2)

2019年03月23日 | 音楽
(承前) そこで、第3部を理解するために、次の3点を検討したい。(1)「道化師クラウス」とは何者か。(2)「夏風の荒々しい狩り」とは何か。(3)フィナーレの日の出(=太陽による救済)では、だれが何から救済されるのか。

 まず「道化師クラウス」だが、鷺澤伸介氏の訳注によると、この道化師はヴァルデマール王に仕えた実在の人物のようだ。いうまでもないが、道化師は宮廷で「王に向って皮肉、風刺、諌言など何でも自由にものを言うことを許されていた」(訳注)存在(ヴェルディのオペラ「リゴレット」もその一例)。その意味では、道化師クラウスは、百鬼夜行と化したヴァルデマール王を揶揄していると、まずは考えられる。

 だが、第2部で神を呪うヴァルデマール王の言葉の中に「だから主よ、どうか私をあなたの道化にしてください!」(鷺澤氏の日本語訳)というくだりがある。それを考えると、道化師クラウスとヴァルデマール王はいつの間にか一体化して、神をののしっているともとれる(鷺澤氏の訳注参照)。もちろんそう解釈した方がおもしろい。

 次に「夏風の荒々しい狩り」だが、「グレの歌」を通読すると、「夏風の‥」の部分で急にそれまでとはトーンが変わるのに気づく。それまでの暗い伝説の世界から、突然別の世界に紛れ込んでしまったような感覚になる。

 その点については、鷺澤氏の訳注で目から鱗が落ちる思いがしたが、作者のヤコブセンの草稿ノートには「序詞」が残されており、それは末尾の「夏風の‥」と対になって全体の枠を構成するそうだ。その枠は現代の(=ヤコブセンの時代の)グレ城址を訪れた旅行者が見る風景を描き、一方、「グレの歌」の本文は旅行者が見る幻影を描く。ところが「序詞」が省略されて「夏風の‥」だけが残ったので、わかりにくくなったという。

 そう考えると、草むらから蚊が飛んで来たり、蜘蛛が跳ねたり、蝶が舞ったりする光景は理解しやすくなる。では、その流れの末尾に出てくる日の出の情景(それは数行にすぎないが、シェーンベルクはそれを壮麗な合唱にした)は何を意味するか。

 その数行は、明らかに、旅行者が幻影から解放されて、現世に立ち返る場面なのだが、シェーンベルクがそこを切り取って、あまりにも壮麗な音楽を付けたので、まるでヴァルデマール王の救済を暗示するようなフィナーレになった。亡霊となったヴァルデマール王の荒々しい狩りは「最後の審判の日まで延々と続いていく」(訳注)のに。

 それはシェーンベルクの美しい誤解だったのか。いや、意図的な読み替えだったかもしれない。
コメント
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