Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

亡父の呉海軍工廠時代

2019年03月07日 | 身辺雑記
 わたしの父は1917年(大正6年)に東京の羽田で生まれ、1998年(平成10年)に同地で亡くなった。満80歳だった。わたしが小さい頃は町工場で旋盤工をしていたが、わたしが中学生の頃にボール盤を購入して自宅で仕事を始め、しばらくして旋盤を購入した。亡くなる日まで仕事をしていたが、その日の午後に納品のため自転車で家を出たときに心臓発作に襲われ、そのまま息を引き取った。

 父は生前よく「戦争中は呉の海軍工廠にいた」と言っていた。「戦艦大和を見た。今度の艦は大きいなと驚いた」とも言っていた。そんな断片的な話がいくつか記憶に残っている。「戦争中はラジオに出てヴァイオリンを弾いた」とか、「広島の原爆のキノコ雲を見た。おれは原爆を知らなかったが、中には知っている人がいて、『あれは原爆だ』と言っていた」とか、「反戦ビラを見たことがある」とも言っていた。

 だが、いずれも断片的な話で、亡父の呉海軍工廠時代の全貌はつかめなかった。父が亡くなって久しいが、わたしはそんなモヤモヤした気持ちを抱いていたので、2018年1月に呉海軍工廠の跡地に行ってみた。

 そのときの訪問記をブログに書いたところ、それを読んだある方がコメントを寄せてくださった。その方は呉海軍工廠ゆかりの人々を訪ねた本(※1)を上梓している方だった。以後、その方とコメント欄での交流が続き(※2)、その方のご指導を受けて、わたしは亡父の軍歴照会を厚生労働省に行ない、先日その回答を得た。

 亡父は昭和16年(1941年)2月に国民徴用令により徴用され、呉海軍工廠製鋼部普通工員となり、昭和20年(1945年)9月に徴用解除(解傭)になったことがわかった。あわせて厚生労働省からは「呉海軍工廠徴工名簿(徴用工員・自家徴用)」の亡父の部分の写しが送られてきた。亡父の名が記載されているその名簿は、わたしには言葉にならないほど重かった。

 それらの事実をコメント欄でお伝えしたところ、その方(ハンドルネーム「フランツ」様)は驚くべき資料を教えてくれた。その資料は「つわぶき第48号」という会報誌で、そこに島根県立津和野高等女学校(当時)から呉海軍工廠の製鋼部(!)に学徒動員された方の手記が載っていた(「島根津和野高女から呉海軍工廠に動員される」)。

 その手記を書いた方は、呉海軍工廠製鋼部で旋盤を使ったというから、亡父と同じ職場にいた可能性が強いと思われる。また昭和20年8月15日に玉音放送を聞くために製鋼部本部に軍人、工員、学徒の順に並んだというので、その工員の中に亡父がいたことはまちがいない。わたしには亡父の姿が見えるような気がした。そんな思いがけない経験をさせていただいた「フランツ」様に心から感謝する。

(※1)書名は「ポツダム少尉‐68年ぶりのご挨拶‐呉の奇跡」(自費出版・非売品)。わたしは東京の大田区立図書館から借りた。全国では140か所の図書館に収蔵されているという。
大田区立図書館の該当ページ

(※2)2018年1月8日の「瀬戸内の旅(1):呉海軍工廠跡」のコメント欄で今までに合計30回のコメントのやり取りをした。
コメント (40)
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